第3巻第2章 国の内外でその放送は,個人的(私的)にも,社会的(公的)にも効果があった。個人的な効果というのは,私自身の不安を一時和らげ,この問題(核兵器廃絶について語るのにふさわしい言葉を発見したという感じを私に与えてくれたことであった。社会的な効果はより重要であった。私は,適切に処理しきれないほどの,演説や論文の執筆を依頼する無数の手紙や要望を受け取った。また私は,それまで知らなかったきわめて多くの事実を知った。そのうちのあるものはかなり心細いものだった。たとえば,バッターシー州議会の某議員が私に会いに来て,核攻撃を受けた場合バッターシー州の全住民が従わなければならない,バッターシー州議会が公布した条例について語ってくれた。(その条例によれば,その当時)警報のサイレンが鳴るや否や住民はバッターシー公園に駆け込み,(そこに止まっている)バスのなかにどやどやと乗り込まなければならなかった。英国においては,こういうようなやり方で住民の安全は確保されるだろうと,期待されていたのである。(ロンドンのテムズ川の南側にバッターシー公園やバッターシー発電所があります。バッターシー地区は以前 Surrey 州の一部だったとのことです。英国の行政区はたびたび再編されており,歴史的には,Surrey州の一部 → Battersea州として独立 → 1965年にロンドンの Wandsworth 区の一部となったようです。ラッセルは,ここでは1950年代のことを書いているので,バッターシ「州」で間違いないことになります。)放送(私の演説)に対する反応は,私が気づいた限り,ほとんどが真面目なものであり,私を勇気づけてくれた。しかし,私の演説のいくつかについては,滑稽な幕間劇があった。そのなかで,いくらか自己満足気味で,私が記憶しているあるエピソード(幕間劇)がある。即ち,ある時,私の演説中に一人の男が烈火の如く怒って立ち上り,私のことを猿のようだと言った。それに対して私はこう答えた。「それならば,あなたは自分の先祖の声を聞けるという楽しみを持てるというものだ」。 私は,前年になした顕著な仕事に対して贈られる賞を,Pears' Cyclopaedia(『ピアーズ百科事典』刊行会社)から,授与された。その前の年には,1マイルを四分以内で走った一青年にこの賞は与えられた。この賞のカップには -私は今でもそのカップを所持しているが- 「'平和'への道を明示するバートランド・ラッセル,1955年」と記されている。 |
v.3,chap.2: At home and abroad
Almost all the response to the broadcast of which I was aware was serious and encouraging. But some of my speeches had farcical interludes. One of them I remember with some smug pleasure: a man rose in fury, remarking that I looked like a monkey; to which I replied, 'Then you will have the pleasure of hearing the voice of your ancestors ' . I received the prize given by Pears' Cyclopaedia for some outstanding work done during the past year. The year before, the prize had been given to a young man who ran a mile in under four minutes. The prize cup which I now have says 'Bertrand Russell illuminating a path to Peace 1955'. |