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『ラッセル自伝』AB32-060.HTM(松下彰良・訳)

次ページ 前ページ  v.3,chap.2 (At home and abroad) 目次  Contents (総目次)

第3巻第2章 国の内外で

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 1953年,エディスと私は,スコットランドで3週間過ごした。スコットランドへ向かう途中,ワイ川上流の丘の上に建っている私の'生家'を訪ねた(注:スコットランドに行く途中に生家のあるウェールズのラベンスクロフトに寄るというのは,方角がまったく違うように思われるかも知れないが,辺鄙な北ウェールズの片田舎からスコットランドへ行くことを考えれば,それほど大回りではない,と思われる。)。その家は当時ラヴェンスクロフト(右欄下のイラスト参照)と呼ばれていたが,今はクレドン・ホール(注:Cleddon ウェールズ語なので,「クレイドン・ホール」?)と呼ばれている。その建物自体は保存されていたが,敷地は第二次大戦中にみじめな状態になってしまった。私の両親は,その遺言によって,隣接地の森に埋葬されていたが,後に,家族(注:ラッセルの祖父母等=父の両親等)の希望で,チェニーズにあるラッセル家の地下納骨所に移された。途中,ボローデールシートラーSeatoller:湖水地方にある村)も訪ねた。シートラーでは,1893年(ラッセル21歳の時)に,読書会の一員として,5週間暮らしたことがある。読書会のことはいまだに記憶しており,その読書会の訪問帳(訪問者名簿)には, −−エディスは信じなかったが,エディスに話したある物語,−− 即ち,当時私たちの食事の給仕をしたミス・ペッパーという名前の女性がその後(読書会以後)ミスター・ハニーという名前の人と結婚したという話--,が間違いではなかったという証拠がちゃんと載っていた。
 セント・フィランズ(St. Fillans:スコットランドのハイランド地方の中心にある村)に着くと,受付担当者に,私は1878年(ラッセル6歳の時)以降一度もここに来たことはないと話した。その受付の女性はじっと私をみつめ,こう言った。「ですけど,あなたはその時は,ほんの小さな子供だったはずですよね。」 私はその1878年の訪問により,セント・フィランズのさまざまなランドマークを記憶していた。即ち,川にかかっている木の橋,自分たちの泊まったホテルの隣りの「ネイシュ」(Naish)という名前の建物,それから祈祷書に書かれている「日照りでカラカラの場所」の一つであろうと私が想像した石の多い(山間の)平地。1878年以来,私は,そこに行ったことがなかったので,そうした私の記憶の正確さは,(6歳の時に)定着したものと思われた。私たちは何度もドライブをした。時々は,二輪馬車用にすぎないような道を,また私たちの記憶にはっきりと残っている(ヒースの茂った)荒野の散歩道をドライブした。ある日の午後,私たちが丘の頂上に向かって道を登った時,一頭の雌鹿とその仔鹿が丘の頂上に現れて私たちの方へ向かって小走りにかけて来るのが見えた。また,道の下の方では,荒れた状態の小さな湖の岸に,立派な風格をしていてしかもとてもおとなしい'ヤツガシラ'(欧州産の綺麗な鳥)が降り立ち,私たちの方を見上げていた。私たちは,薄暗いグレンコー渓谷を通ってセント・フィランズに戻った。グレンコー渓谷は,まるで大虐殺がちょうど行なわれた直後のように,陰惨で,恐ろしい雰囲気であった。

v.3,chap.2: At home and abroad

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In 1953, Edith and I spent three weeks in Scotland. On the way we visited the house where I was born on the hills above the Wye valley. It had been called Ravenscroft, but is now called Cleddon Hall. The house itself was kept up, but during the war the grounds had got into a sorry condition. My parents had, at their own instructions, been buried in the adjoining wood, but were later at the family's wish, transported to the family vault at Chenies. On the way, too, we visited Seatoller in Borrowdale, where I had spent five weeks as a membef of a reading party in 1893. The party was still remembered, and the visitor's book contained proof of a story that I had told Edith without obtaining belief, namely that Miss Pepper, who had waited on us, subsequently married a Mr. Honey.
On arriving at St. Fillans (our destination) I told the receptionist that I had not been there since 1878. She stared, and then said : 'But you must have been quite a little boy.' I had remembered from this previous visit various landmarks at St. Fillans such as the wooden bridge across the river, the house next to the hotel which was called 'Neish', and a stony bay which I had imagined to be one of the 'sun-dry places' mentioned in the Prayer Book. As I had not been there since 1878, the accuracy of my memories was considered established. We had many drives, sometimes along no more than cart tracks, and walks over the moors that remain memorable to us. One afternoon, as we climbed to the crest of a hill, a doe and her fawn appeared over the top trotting towards us and, on our way down, on the shore of a wild little tarn, a proud and very tame hoopoe alighted and looked us over. We drove home to St. Fillans through the gloomy valley of Glencoe, as dark and dreadful as if the massacre had just taken place.
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Ravenscroft
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(掲載日:2009.09.07/2012.3.5)