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沢田允茂「バートランド・ラッセルと論理学」p.14

表紙 発刊のことば 目次  p.1 p.2 p.3 p.4 p.5 p.6 p.7 p.8 p.9 p.10 p.11 p.12 p.13 p.14 p.15 p.16 p.17 p.18 p.19 p.20 p.21 p.22 p.23 p.24 p.25 p.26 p.27 p.28 p.29 p.30 p.31 p.32 p.33 p.34 p.35 p.36 p.37 p.38 p.39 p.40 p.41 p.42 p.43 p.44 p.45 p.46 p.47 p.48 p.49 奥付
(p.13)ただ人に納得させる為に使う、それだけの役にしか立たない」というようなことを言っています。要するに、このようなアリストテレスの論理学は、たしかにその領域のなかでは否定できないけれども、その領域があまりにも狭すぎて余り役に立たないということで、だんだんと実際の我々の知識の中では活用されなくなってきたというのが事実だろうと思います。しかし一応、アリストテレスの論理学は彼の形而上学とは非常に密接に結びついておりましたので、哲学を理解するためには必ず論理学をやらなければならないと考えられ、アリストテレスの形式論理学は、哲学科の学生の必修科目として長くつづいて来ました。しかし実際には余り役に立たないのですから、哲学の実際の活動はもっと自由で気ままな形而上学的空想によって占められ、論理的思考の厳密さは次第に哲学から忘れ去られるようになってしまいました。そこで例えばボヘンスキー(J. Bochenski, 1902- )というような論理学者は「近世は論理学の堕落の時代である」というようなことをいっています。偉大なへーゲルでさえ、この論理学のなかで用いられている「ある」(「AはBである」のあるの問題)という語の意味を誤解していたといわれる程、論理学への関心がうすれていたのです。(この点についてはへ一ゲルの「小論理学」岩波文庫下巻19-20頁参照)(次のページに続く)