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沢田允茂「バートランド・ラッセルと論理学」p.10

表紙 発刊のことば 目次  p.1 p.2 p.3 p.4 p.5 p.6 p.7 p.8 p.9 p.10 p.11 p.12 p.13 p.14 p.15 p.16 p.17 p.18 p.19 p.20 p.21 p.22 p.23 p.24 p.25 p.26 p.27 p.28 p.29 p.30 p.31 p.32 p.33 p.34 p.35 p.36 p.37 p.38 p.39 p.40 p.41 p.42 p.43 p.44 p.45 p.46 p.47 p.48 p.49 奥付
(p.10)このことについて、アリストテレスは多少不安になっております。そこで彼の著作の或るところで「……である」ということと「・・・がある」ということは違うんだということを言っております。このあたりに「……である」という表現を本質を示すものと考えて、「……がある」という表現は実存をあらわしているのだという実存哲学者の解釈の歴史的な出発点が出てくるわけであります。さてアリストテレスは一度は「・・・である」と「・・・がある」とは違うんだと考えていましたが、存在命題の取り扱かいについては、どうも判然としていないようです。何故ならば、例えば、④を
 「Sは存在するものである」
というふうにいいなおしますと、これは主語・述語の文章の形式をもってしまうからです。或いは
 「Sは存在をもつものである」
と書きかえても、④であらわせられる存在命題は、主語・述語の文章におきかえられたことになります。
 しかしここまで来てしまうと、今度は、「存在」が、何か一つの性質を表わすものなのではないかと言った考え方も生まれてくるわけです。丁度、人間が白いとか赤いとかいう性質をもつのと同じに、人問は存在という性質をもったり失なったりすると考えられます。(次ページに続く)