沢田允茂「バートランド・ラッセルと論理学」p.5
表紙 発刊のことば 目次 p.1 p.2 p.3 p.4 p.5 p.6 p.7 p.8 p.9 p.10 p.11 p.12 p.13 p.14 p.15 p.16 p.17 p.18 p.19 p.20 p.21 p.22 p.23 p.24 p.25 p.26 p.27 p.28 p.29 p.30 p.31 p.32 p.33 p.34 p.35 p.36 p.37 p.38 p.39 p.40 p.41 p.42 p.43 p.44 p.45 p.46 p.47 p.48 p.49 奥付 |
(p.5)これは物の本当の在り方ではなくて.「非常に偶然的な性質」を表わしていると解釈されております。 以上のようにアリストテレスの場合には、論理或いは言葉(アリストテレスでは言葉と論理とはある種の平行関係をもっていると考えられていますが)は存在の構造というものをそのまま反映しているというふうに考えられるわけであります。そうすると「ソクラテス」とか「プラトン」という固有名詞に対応して、ソクラテス、プラトンという「実体」が存在すると考えられます。そして本当の「実体」とは、文章の中で述語の位置に来ないで主語の位置にくることば、或いは主語の位置にしかおくことのできないことばに対応するものであり、それを「個物」-例えば、太郎は日本人であるとか、次郎は日本人であるとかいう時には、たしかに次郎や太郎は、或る「個体」「個物」「個人」を指すわけです-と呼び、個物こそが真に存在するものとしての実体であると考えたのであります。この考え方は、今は省略いたしますが、かのプラトン(Platon, 427-347 B.C.)の「本当に存在するものは普遍的な一般概念、或いは『イデア』である」といった考え方への真正面からの反対の意志表示だったと一説に言われてもいるわけです。ところで問題は、下記のような二つの言明 〃ソクラテスはギリシア人である〃 ① (次ページに続く) |