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沢田允茂「バートランド・ラッセルと論理学」p.4

表紙 発刊のことば 目次  p.1 p.2 p.3 p.4 p.5 p.6 p.7 p.8 p.9 p.10 p.11 p.12 p.13 p.14 p.15 p.16 p.17 p.18 p.19 p.20 p.21 p.22 p.23 p.24 p.25 p.26 p.27 p.28 p.29 p.30 p.31 p.32 p.33 p.34 p.35 p.36 p.37 p.38 p.39 p.40 p.41 p.42 p.43 p.44 p.45 p.46 p.47 p.48 p.49 奥付
(p.4)そうしたクラスが、動物というクラスの中に含まれるということを示しており、「すべてギリシア人は人間である」という時には、ギリシア人の集合が人間の集合に含まれているということを意味しているわけであります。これは後で一寸申し上げますが、よく「……である」ということは、丁度、数学の「=」だというふうに考えられる方もあります。有名な早川(S. I. Hayakawa, 1906- )などの「一般意味論」(General semantics)などの運動の創始者であるコルチブスキー(A. Korzybski, 1879-1950)という人は間違えて「……である」は「=」であると考えて議論を進めていますし、へーゲル(G. F. W. Hegel, 1770-1831)の「小論理学」をみますと、「……である」を「=」というように考えて、その上で同一律とか矛盾律を解釈したり、或いは形式論理学を否定して、弁証法というようなものを考えていることが指摘されるのです。ところでアリストテレスの場合を考えてみますと、前述のように私達の言葉のいろいろな表わし方というものは、文法的には主語と述語に分けられる。そうして、主語と述語に分けて考えることは、実はアリストテレスの、いわゆる形而上学と密接な関係を持っておりまして、主語(Subject)になるものは実は、いわゆる「実体」(Substance)を表わしています。つまり主語になるものは、「本当に存在することになるわけです。それに対して、述語にくるものは、一般に「偶性」というふうに呼ばれまして、(次ページに続く)