沢田允茂「バートランド・ラッセルと論理学」p.9
表紙 発刊のことば 目次 p.1 p.2 p.3 p.4 p.5 p.6 p.7 p.8 p.9 p.10 p.11 p.12 p.13 p.14 p.15 p.16 p.17 p.18 p.19 p.20 p.21 p.22 p.23 p.24 p.25 p.26 p.27 p.28 p.29 p.30 p.31 p.32 p.33 p.34 p.35 p.36 p.37 p.38 p.39 p.40 p.41 p.42 p.43 p.44 p.45 p.46 p.47 p.48 p.49 奥付 |
(p.9)しかし 「太郎は背が高い」 「太郎は正直である」 というような場合には、背が高いのは、そして正直なものは太郎の他にも沢山いるわけで、太郎はその一部にすぎないのですから「である」は「=」でなくて、あるクラスの一つのメンバーである、とか、或いは場合によっては、小さいクラスが大きいクラスに含まれるという、そういう関係をあらわしているのです。 ところで、アリストテレスが論理学の基本に持ってきた、主語・述語の文章は普通、文法的には、「SはPである」または「--は……である」という形で表わされます。そして「…である」という述語の分類がカテゴリーと呼ばれたのです。勿論、アリストテレスは「……である」だけではなくて、私達の「在る」に関係する言葉で「……がある」という言葉も考えていました。 「SはPである」 ③ 「Sがある」 ④ という二つの文章においては、③は主語も述語も備えた文章ですが、④は、はたしてそのような意味で主語・述語の文章と言えるでしょうか。(次ページに続く) |