(p.294) ラッセル, B. A. W. (Bertrand Arthur William Russell, 1872-1970)
イギリスの数学者・哲学者・社会評論家・教育思想家。有名な自由主義政治家ジョン・ラッセルの孫として伯爵家に生まれる。人間の自由と理性に対する強い信頼は,この血統のもたらすところ。3歳で孤児となり,主として祖母の手で育てられた。18歳でケンブリッジ大学に入学するまで,学校教育は受けなかった。11歳でユークリッド(幾何学)を学び,以後数学を精力的に研究した。師ホワイトヘッドとの共同研究によって,数学を記号論理に還元する研究を試み,不朽の名著『数学原理』を著した。1894年,ケンブリッジを卒業後,哲学や歴史にも興味を持ち始め(松下注:卒業してから興味を持ち始めたのではなく,15,16歳ころから),研究するようになった。
第一次世界大戦の勃発は,政治的雰囲気の濃い家に育った彼には,無関心でいられる事件ではなく,激烈な反戦論・平和論を展開し,そのため投獄されもした。2回目の夫人との間に子どもが生まれるや,彼の関心は教育に注がれるようになり,1927年に私財を投じて私立学校(注:Beacon Hill Shcool)を経営し,自ら校長を務めた。彼によれば,文明国で行われている教育は,時の権力に支配されて,現在の体制を維持するための強力な武器になっている。即ち,ある特定の信条だけが真理として若き魂に注入されている。このことは,第一次世界大戦の勃発によって,国民大衆の好戦的心理のなかに読み取ることができた。従って,ラッセルは,教育とは真理への意欲を強化する仕事にほかならないと考え,人間の自由を助長し,創造性を開放する教育を力説した。そのためには,教師の思想の自由と時代の悪弊と対決する良心が重要となってくる。ラッセルは80歳を越えても活躍し,平和論者として原子力戦争絶対反対を叫び続けた。
主な著書として次のようなものがある。<省略>(細川幹夫)
[pp.158-160は,ラッセルが1948年に出版した Human Society in Ethics and Politics (倫理と政治における人間社会), の終章( prologue or epirogue )からの抜粋。pp.160-163は,訳者による解説]
本サイトには,ホイット・バーネット(著),村松仙太郎・山川學而(共訳)『現代に生きる信条』(荒地出版社,1958年12月刊)に収録されたもの[ラッセル「開幕か,終幕か?(人類の未来)」]の邦訳(抜粋ではなく全訳)をアップロードしてありますので,ラッセルの文章については,そちらをご覧ください。また,原文も掲載してあります。
<丹羽氏による解説>
(p.162)・・・中略・・・。
ラッセルは共産主義者ではないし,単なる反戦主義者でもない。第一次大戦のときは戦争反対を叫び,ケンブリッジの名誉あるトリニティ・コレッジ教授の職を追われ,あまつさえ六か月(注:結果的には5ケ月)の獄中生活をすら送らなければならなかった。このラッセルも,第二次大戦が勃発したときはイギリス政府を支持し,ナチスを元凶とする国家主義者たちを屈服させるために全力をつくした。枢軸陣営との戦いに勝たなければ,,民主主義と平和を守りぬくことはできないと考えたからである。そして第二次大戦後は,世界政府の確立以外に永続的平和は保証されないと考えるようになった。しかし,世界政府樹立以前に全面核戦争のおこる可能性があること,それは全人類を破滅にみちびくことは必至であることを確信,一瞬のためらいもなく,核兵器反対運動の陣頭に立ったのである。ラッセル・アインシュタイン声明の一節に「われわれは選択を迫られている。幸福,知識,知性の絶えざる進歩を選ぶか,それともまた,争いごとの好きな人間のつねとして,死を選ぶか? われわれは,ここに人類の一員として,人類のすべてに訴える。人間性を忘れるな,そしてその他のことは忘れてしまえ,と。もし諸君がそうできるなら,諸君の前には新しい楽園への道がひらけている。しかし,さもなくば諸君の前には,世界の死という危険が横たわっている。」とうたわれている。
ラッセルはおそらく死の瞬間まで,平和を願い,平和のための運動をやめないであろう。ラッセルの著作は,哲学的労作であれ,評論的なものであれ,そのほとんどが邦訳されている。みすず書房からは『バートランド・ラッセル全集』も刊行されている。(松下注:「全集」ではなく,「著作集」。ラッセルの著作は厖大であり,丹羽氏がこの文章を書いた頃は,単行本として出版されているものよりも,出版されてないものの方が多かった。その後, Colleted Papsers of Bertrand Russell が出版されるようになり,利用できるラッセル文献が増え続けている。)
私が自分で買ったのを覚えている最初のハードカバーの本は,ラッセルの『宗教は必要か』[『なぜ私はクリスチャンでないか』](1957)の初版であった(松下注:Why I am not a Christian, and Other Essays on Religion and Related Subjects (London; Allen & Unwin, 1957)のこと)。今やボロボロになった青いカバーの本のなかで,ラッセルはエピクロスとルクレティウスに共鳴する言葉で,以下のように書いている。
私は死んだときに腐敗するであろうし,そして私の自我の何ものも生き残ることはないであろうと確信している。私は若くないし,生を愛している。だが,私は霊魂消滅の思想に恐怖して身震いすることを潔しとしないだろう。それでもなお,幸福は終わりがあるために,真の幸福なのであり,思考や愛は永続するものでないゆえに,その価値を失うことがないのである(松下注:原文を参考まで。 Happiness is nonetheless true happiness because it must come to an end, nor do thought and love lose their value because they are not everlasting.)。
[松下注:ラッセル『西洋哲学史』(A History of Western Philsophy, 1945)のなかの該当部分の原文 p.138の最後の行以降(chapter XV: The theory of ideas) 及び邦訳(ラッセル協会発起人の故・市井三郎氏の訳)を以下転載しておきます。
(A History of Western Philosophy, by Bertrand Russell, p.138-)
This experience, I believe, is necessary to good creative work, but it is not sufficient; indeed the subjective certainty that it brings with it may be fatally misleading. William James describes a man who got the experience from laughing-gas; whenever he was under its influence, he knew the secret of the universe, but when he came to, he had forgotten it. At last, with immense effort, he wrote down the secret before the vision had faded. When completely recovered, he rushed to see what he had written. It was: "A smell of petroleum prevails throughout." What seems like sudden insight may be misleading, and must be tested soberly, when the divine intoxication has passed.
(市井三郎・訳) この経験は,優れた創造的仕事に必要なものだとわたしは信じているが,それだけでは充分ではない。そのような経験がもたらしてくれる主観的確信というものは,まさにとんでもなく誤まっていることがあり得るのだ。ウィリアム・ジェイムズ(訳注: William James は一九一〇年に死んだアメリカの心理学者,哲学者。プラグマティズムのある型の創唱者)は,笑いガス(松下注:laughing-gas 笑気=亜酸化窒素の俗称→笑気麻酔ガス)からそのような経験を得たある男のことを書いている。その男は,笑いガスの影響下にある時はいつも,宇宙の秘密を知ったように感じるのだが,正常に復すると,それがどんな秘密だったか憶い起せなかった。ついにその男は異常な努力を払って,その幻が消え去るまでにその私密を書きとめたのである。完全に正常に復した時,彼は自分が何を書いたか,急いで読み下してみたのだが,そこには,「石油の臭いがいたるところに立ちこめている,」とあるだけだった。突然やってきた洞察とも見えるものは,誤まりを招きうるものであるから,その神々しいまでの陶酔が去った時には,しらふで験してみなければならないのである。
(ラッセル『教育論-特に幼児教育について』からの引用)
(p.189) 私たちは,インチキにみちた世界に住んでいる。インチキなしに育てられた子供は,普通尊敬に値すると考えられている多くの事柄を軽蔑するにきまっている。軽蔑は悪い感情だから,これは残念なことである。子供の好奇心がそういう事柄に向いたときには満足させてやらなければいけないが,私は,わざわざそういうことに子供の注意を促すようなことはしたくない。真実を語ることは,偽善にみちた社会においては,ちょっとしたハンディキャップになる。しかし,このハンディキャップは,恐怖心を持たないという長所によって,十二分に補われる。恐怖心があれば,だれ一人として,真実を語ることはできないのだ。私たちは,わが子が公平で,正直で,率直で,自尊心のある人間になってほしいと願っている。私一個(人)としては,わが子が奴隷の技能で成功するよりも,むしろ,こういう性質をもって失敗するのを見たいと思っている。すばらしい人間になるためには,生まれつきの誇りと高潔さがある程度不可欠である。そういう性質があれば,ある(種の)寛容な動機から嘘を言う場合は別として,嘘をつくことは不可能になる。私は,たとい世俗的な不幸を招くとしても,わが子たちには思想と言葉において真実を語ってほしいと念じている。なぜなら,富や名誉よりも重要なものが問われているからである。(出典:On Education, Especially in Early Childshood, by Bertrand Russell, 1926)