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[病死したラッセルについて]
『大阪毎日新聞』1921年3月29日付

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[コラム欄「硯滴」]

 新人ラッセル、とうとう北京の客舎に病死してしまった(松下注:もちろんこれは誤報)。今年(1921年)の7月には日本に来るのだと、多くの人に待たれていたのに、惜しいことをした。
 これについて想起す(おもいおこす)のは、昨年彼が赤都モスカウ(モスクワ)を訪れて失望して帰った姿である。
 丁度百年前、詩人ワーズワースが仏蘭西革命を見て、自由が生まれたと喜び、旅装もそこそこに巴里(パリ)を訪れ落胆したのとよく似ていた。場所もあろうに北京で新人の客死したのは彗星落ちた後の淋しみ(さ)一しお深く感ぜられる。
 新人といえば、皮肉家のチェスタートンは、目下米国で「教育を受けた者の無知」という題目で講演旅行をしている。曰く、獅子の食物を無理に猿の口の中に詰め込めば、一年もたたぬ内に胃袋が毀れるとか。曰く、金持が金で息子に免状を買ってやって、教育をしたように思うのは、大きい絵なら傑作、厚き書物なら良書と思うと同じとか。曰く、真の学問は、フランクリンのやったようにするのが本当だ。フランクリンは肉を食う金を倹約して書物を買った。学問とは知識を愛する事だとか。昇格問題で騒いだ学生や貴族院に聞かせたい事が多い。
 本誌連載中の「平和会議秘録」が米国評論界の中心となっているのは、紐育(ニューヨーク)特電にある通り。無論ラッセル氏自らの弁護の点もあるが、平和会議の内面をあれほどまでに素破抜く事は日本人には一寸出来ない。