バートランド・ラッセル落穂拾い 2014
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(ラッセル関係文献「以外」の図書などでラッセルに言及しているものを拾ったもの)
* 外山滋比古(とやま・しげひこ, 1923~2020.8:お茶の水女子大学名誉教授。
外山滋比古氏は,以下に抜粋した話(ラッセルは視覚型ではなく聴覚型)が気に入っているらしく,過去に何度も書いています。また以前,このR落穂拾いでご紹介したことがあります。(参考:「 耳の形式」)
(pp.139-141:朗読を聞くのも「耳の散歩」)
(p.139) このごろまた一部で復活しているようだが,昔の小学校では音読を大切にした。何度も声に出して読んでいれば,文句は覚えてしまう。意味などはじめからわかっていることが多いから,音読はうたをうたっているのに近い。
そうして覚えたことばは一生消えない。目で覚えたことばは,とてもそうはいかない。耳で覚えるのが大切である。
イギリスの哲学者,バートランド・ラッセルは,名文家としても知られた人だが,『自叙伝』 の中でおもしろいことを言っている。
ラッセル関係電子書籍一覧
中年になったラッセルは,自分で本を読むかわりに,奥さんに声に出して読んでもらう。それを自ら「耳で読む」と言っている。そうしてから,書く文章がよくなった,つまり文章が上達した,とのべている。耳は目とは違ったことばをとらえるのであろう。普通の読書が目の散歩であるとするなら,ひとに読んでもらってきいて読むのは耳の散歩である。・・・。
* 中見真理
* 柳宗悦(やなぎ・むねよし, 1889-1961):宗教哲学者。民芸運動で有名。1957年に文化功労者。
以下,4ケ所(ただし2~4は連続)抜粋し,ご紹介しておきます。なお,p.132でもラッセルにふれています。興味を持たれた方はご購読ください。
(p.29-30):平和思想を育む
(p.29) (柳の)朝鮮での活動は,次第に確立されつつあった柳(宗悦)の平和思想を,内面化させ定着させていくことともなった。そもそも柳が,日本国家による軍事拡大路線に疑問を抱き,平和の問題に関心を寄せ始めたのは,日露戟争が終わる頃であった。白樺派への参加以降は,日露戦争中にトルストイに心酔し非戦論者になっていた武者小路実篤や,内村鑑三の非戦論に強い感化を受けていた志賀直哉,一年間の入隊生活以来反戦思想と国家批判の観点をもつにいたっていた有島武郎等に触発されながら,自らもトルストイを熱心に読み,反戦感情を育んでいった。そのような感情は,第一次世界大戦期に日本に滞在していた英国人ジャーナリストの J・W・ロバートソン=スコットと,戦争について議論をたたかわすことによって,思想へと深まっていった。その過程で柳は,クエーカーの平和思想を学び,バートランド・ラッセルの平和論も熱心に読んでいた。一九二一年七月二十八日には,来日したラッセルの講演を慶応義塾大学(注:当時存在していた慶應義塾大学大講堂)まで聴きにいっている。一九二二年頃からは,ガンディーの活動に関心をもち始め,のちには,ガンディーが非軍事的な方法によってインドを独立に導いたことをきわめて高く評価するにいたる。・・・。
(pp.117-118:パッシヴ・レジスタンス)
(p.117) この背景として,その頃,柳が,いかなる口実のものであれ,あらゆる戦争は否定されなければならないという「絶対平和」の観点を次第に内面化し始めていたことを指摘することができる。それはひとつには,ブレイク研究を通じて獲得した観点と関係していた。柳によればブレイクは絶対的罪悪を否定しており,罰するものの偽善を憎んでいた。ブレイクが認めた道徳はただひとつ,罪悪に対する「相互の寛恕(かんじょ)」(互いに許すこと)であり,戦争行為はまさしくこの道徳に反するものであった。もうひとつは,クエーカーやバートランド・ラッセルの平和思想から学んだ結果であった。
柳は,神秘思想の体系的研究を進める途上において,一九一五年十一月頃クエーカーの思想を知るようになり,その平和思想にも関心をもつようになっていった。柳はクエーカー関係の書物を読んだ結果,「パッシヴ・レジスタンス(passive registance)」(非暴力的抵抗の意味)という概念を明確に認識するにいたっていた。このことは柳蔵書(日本民芸館所有)のティンマス・W・ショー(Shore.W. Teignmouth)著,John Woolman, His Life & Our Times; Being a Study in Applied Christianity (London, 1913)への,柳による書き込みから明らかである。柳は,同書を一九一七年五月二日に読了しているが,一〇六頁の passive resistance という言葉に下線を引き,そのすぐ左余白に, on war と書き入れているのである。
(pp.118-119:ラッセルに学び考えを深める)
そのことは,同じ柳蔵書中のバートランド・ラッセル(一八七二~一九七〇)の著書 Justice in War Time (Chicago & London, 1916)への書き込みにも示されている。ラッセルはこの書のなかで,ほとんどの戦争が防衛のための戦争とされている状況下で,防衛のための戦争が正当化されるならば,これからも戦争は避けられないだろうと指摘している。そして,いかなる場合にも武力に訴えないクエーカーやトルストイの平和主義について,宗教的態度として優れているばかりでなく,事態を打開していくために非常に賢明な政策である,問題は,人々がそうする勇気をもつかどうかであると述べている。さらに力に対して非暴力的抵抗で応じることは,力で立ち向かうよりもさらなる勇気を必要とするが,現在,戦争において発揮されている勇気を,教育を通じて非暴力にふり向けていくことは可能だとも記していた。
柳は同書に, doctrine of passive resistance (not non-resistance), doctrine of passive non-obedience と書き込みをしている。このことはラッセルのこの本を読みながら,パッシヴ・レジスタンスについて考えを深めていたことを示している。しかも passive resistence について, not non-resistance(何もしないことではないの意味)とあえてカツコ内に添え書きしていることは,その頃日本において「無抵抗主義」と訳され,何もしないことだとみなされがちだった passive resistance を,抵抗しないことではなく,非暴力的方法による「抵抗」を意味するのだと,柳が明確に認識していたことを明らかにしている。
(pp.119-120:自国の政策から距離を置いて)
柳は,ラッセルが同書のなかで,自国の政策から距離を置いて真実を語るべきだと述べている箇所にも強く共感し,その頁に.'Splendid!'(素晴らしいの意味)と書き入れていた。しかしラッセルの考えを単に鵜呑みにしていた訳ではない。書き込みのなかには,ラッセルの考え方への批判もみられる。例えば,ラッセルがパッシヴ・レジスタンスを選択可能な方法のひとつであるかのように表現している箇所には,それは "is not a policy"(policy に二重線を引いている。政策ではないの意味)と書き入れ,選択肢のひとつとなるような政策ではないと主張している。さらに,ある人が追い剥ぎにお金を要求された場合の対応を,「非暴力的抵抗」の事例として取り上げた箇所についても,疑問を呈している。ラッセルは,次のように説明している。相手を撃つことができたとしても撃たずにお金を渡す,決闘になった場合には,相手を撃つよりは,相手に自分を殺させる,けれども相手が自分よりも価値のない人間で,自分が数学上の重要な発見をし,それをまだ記録にとどめていない場合には,相手を殺すことが正当化される,と。柳はこの説明に対して「これは真の意味での非暴力的抵抗の事例とは言えない」と英語で反論を書き入れているのである。
ラッセルは,第一次世界大戦には反対の立場をとっていたが,あらゆる武力行使を否定していたわけではなかった。そのことは,彼がのちに第二次世界大戦については,肯定していったことにも示されている。一方柳は,パッシヴ・レジスタンスを理性的選択の余地のある「ポリシー」としてではなく,選択の余地がない絶対的なものとして受けとめていたのである。
(松下注:ラッセルは,最初から第二次世界大戦に賛成していたわけではない。当初は第一次世界大戦の時と同様,反戦の立場であったが, ナチスの残酷な殺戮行為をやめさせる戦争はやむなしとして肯定されると考えるようになり,主戦論の立場に変わっている。ナチスはガス室で600万に殺したと言われているが,柳氏はそういった事実を知った場合でも,つまり1,000万人殺されようが,非暴的抵抗のみを主張し続けたであろうか?)
* ナシーム・ニコラス・タレブ(Nassim Nicholas Taleb, 1960~ ):著作家。もと有名な金融ディリバティブ・トレイダー。本書出版当時,MITの教員。
・表紙の折り返し部分に書かれた記述: ブラック・スワン(黒い白鳥)とは,まずありえない事象のことであり,次の三つの特徴を持つ。予測できないこと,非常に強い衝撃を与えること,そして,いったん起こってしまうと,いかにもそれらしい説明がでっちあげられ,実際よりも偶然には見えなくなったり,あらかじめわかっていたように思えたりすることだ。グーグルの驚くべき成功も9・11も黒い白鳥である。
宗教の台頭から私たちの日常生活まで,ほとんどすべての背後には黒い白鳥が潜んでいる。だが,実際に起こるまで黒い白鳥という現象に私たちが気づかないのはなぜだろうか?その謎を解き明かしでくれる本書を読めば,世界の見方は変わるだろう。
・本書冒頭の書き出し部分: オーストラリアが発見されるまで,旧世界の人たちは白鳥と言えばすべて白いものだと信じて疑わなかった。経験的にも証拠は完壁にそろっているように思えたから,みんな覆しようのないぐらい確信していた。はじめて黒い白鳥が発見されたとき,一部の鳥類学者(それに鳥の色がものすごく気になる人たち)は驚き,とても興味を持ったことだろう。
でも,この話で大事なのはそういうところではない。この話は,人間が経験や観察から学べることはとても限られていること,それに,人間の知識はとてももろいことを描き出している。何千年にもわたって何百万羽も白い白鳥を観察して確認しできた当たり前の話が,たった一つの観察結果で完全に覆されてしまった。そんなことを起こすのに必要なのは,黒い(それに,聞いたところだとかなり醜い)鳥がたった一羽,それだけだ。
この哲学的・論理学的な問題をもう一歩進めて,私たちが経験する現実に当てはめてみよう。・・・。
以下,上・下巻からそれぞれ1ケ所ずつ抜粋し,ご紹介しておきます。
<上巻>(pp.88-95):七面鳥に学ぶには
(p.88) 超人ならぬ超哲学者のバートランド・ラッセルは,同業者の間で帰納の問題とか帰納的知識の問題とかと呼ばれているもの(英語で書くときは仰々しく Problem of Induction なんて頭文字を大文字にする)を描きだすのに,私がやっていたいたずらに毒をたっぷり混ぜたものを使っている。帰納の問題は間違いなく人生のすべての問題の源だ。特定の事例から一般的な結論を論理的に引き出すにはどうしたらいいだろう? 私たちは,今知っていることをどうやって知ったのだろう? 何かのものごとについて観察できた性質から,ほかの性質を十分に推測できるとなぜ言えるのだろう? どんなものであれ,観察で得られた知識には罠が仕込まれている。
七面鳥がいて,毎日エサをもらっている。エサをもらうたび,七面鳥は,人類の中でも親切な人たちがエサをくれるのだ,それが一般的に成り立つ日々の法則なのだと信じ込んでいく。・・・。感謝祭の前の水曜日の午後,思いもしなかったことが七面鳥に降りかかる。七面鳥の信念は覆されるだろう。・・・。(注:ラッセルの原著 The Problems of Philosophy, 1912 では,「鶏」になっているが,アメリカ人向けに「七面鳥」に変えられている。)
(p.90) ボン! 過去からはまったく予測のつかない大きな変化が起こる。
世界大戦が起こったときの驚きを考えてみよう。ナポレオン戦争の後,世界は平和な時期を迎え,それを見た人なら誰でも,深刻で破壊的な戦争はなくなったと思っただろう。それなのに,あーらびっくり! その後,当時としては人類史上最悪の戦争が起こったのだった。・・・。
一九八七年に株式市場が暴落してから,アメリカのトレーダーの半分は,一〇月になるたびにまた暴落が起こるのではと身構える。でも最初の暴落には,もちろん前例なんてなかったのを彼らは忘れている。(注:「想定外」の言い訳!) 心配するのが遅すぎる。ドロナワというやつだ。過去は典型的な未来を表現した一番信頼できる予測だなんて安直に思い込むからこそ,私たちには黒い白鳥がわからない。
<下巻>:(pp.63-67):アドバイスはやすし。とてもやすし
有名な思想家の言葉で文章を埋め尽くすのはいい習慣とは言えない。でも,バカにして面白がったり,昔を引き合いに出したりするなら話は別だ。彼らの言うことは「筋が通っている」が,格好のいい格言は私たちのだまされやすいところに訴えてきて,しかも実証テストにかけられるとは限らない。ここでは超哲学者のバートランド・ラッセルの言葉を引用する。私にはまったく賛成できないからだ。
確実なものを求めるのは,それが人間にとって自然な欲求だからだ。しかし,それにもかかわらず,この欲求は頭に悪い。雲行きが怪しい日に,子どもたちをピクニックに連れて行こうとすると,子どもは晴れるか降るか,独断的な答えをほしがる。こちらが確かなことを言えないと,露骨にがっかりする。私が賛成できないというので驚く人もいるだろう。確かなものをほしがるのは頭に悪いというのは賛成せざるをえない。私たちが自信たっぷりの予言者にすぐひっかかるというのも賛成せざるを得ない。
しかし,証拠がないときに判断を差し控えても,訓練(下線は引用者=ナシブ氏)を積んでいないと,自信たっぷりの予言者にひっかかってしまう…(中略)…どんな美徳を学ぶにも適切な学問というものがある。そして,判断を差し控えるのを学ぶのに一番いい学問は,哲学だ。
この偉大な人物にどうしても賛成できないのは,この問題に立ち向かうときに役に立つアドバイスをくれるとかいう「哲学」の実績が,私には信じられないからだ。それに,美徳が簡単に教えられるものだとも思えない。それから,判断を差し控えるべきだというのも同意できない。なぜか?
人間は人間として扱わないといけないからだ。
判断を差し控えるなんて人に教えることはできない。人間はものを見れば必ず判断がついて回るようにできている。私は「木」を見ない。私が見るのは美しい木や醜い木だ。私たちがものに貼りつける,ちょっとした価値判断を引っペがすのは気が遠くなるほど大変である。同じように,私たちはなんの偏りもない頭をもてない。・・・。
(松下注:少し指摘がずれているように思われます。人間は誰も「先入観」や「偏見」をまぬがれない,というのはラッセルもよく強調するところです。言うまでもないことですが,ラッセルも,もちろん日常生活においては,日々判断を下していたわけであり,ここでは特に理論的な問題については,よくわからない場合は「一時的に」判断を停止したほうがよいと言っているにすぎません。また,純理論的な問題だけでなく,生活や仕事に支障がないのであれば,証拠や判断材料が不十分な場合は,判断をのばしたほうがよいということを言っています。著者のナシブ氏は,本書出版当時,MITの教員をしていたと紹介されていますが,同時に株式の「'非情な'デリバティブ・トレーダー」をやっていたということで,時々の判断が重要だということを主張する気持ちがよく理解できます。)
* 松原隆志
・「帯」の記述:旧ソ連時代のロシアを舞台に,当時の祖国の社会体制下に疑問を抱きながら苦悩する青年ゴルの奇跡を克明に描き出した重厚な作品(冬の時代を誠実に生きた青年ゴルの魂の記録)
本書の冒頭に「『ゴル』についてのおことわり」というのがあり,「この作品は決して事実に基いて書いたものではありません。・・・。ですから,本書のすべてを事実として受け止めることのないように,心の底から願います。」と書かれています。
主人公のゴルはモスクワ大学の学生という設定であり,モスクワ大学の学生サークル「英国研究会」に興味を持ち,会員になり,バートランド・ラッセルに強い関心を持つようになります。ラッセルについては,第4章「崇高な心の実践-モスクワ大学時代(pp.493-773)」の中の, pp.514-530(「英国研究会」とバートランド・ラッセル)」とpp.617-628(「ラッセル-人間愛と理不尽に対する怒り」)を中心に, 21ケ所で描写(小説なので,引用ではなく描写)されています。ラッセルについては事実と異なることは書かれていません。
何分700ページ以上の分量なのでとりあえず, Google Books で全文検索を行い,ラッセルを描写している21ケ所の近辺だけ読んでみました。
今回は,1ケ所だけ抜粋してご紹介しておきます。(M)
(p.645)・・・。
それからゴル(注:主人公でモスクワ大学の学生)が口を開いて,
「ライザ(注:ゴルの恋人),最近何か興味深い本を読んだ」
「そうね,『赤毛のアン』を読んだわ。少女の青春の本よ。おもしろかったわ」
「ふうん。世界中の少女が読む名作を読んだのだね。ぼくは読んでいないけれども,その本のことは知っている」
「じゃ,あなたは」
「バートランド・ラッセル」
「どんな人なの」
「真に,世界の平和を願った偉大な,ノーベル賞受賞者だ。イギリス人,今でも核兵器廃絶のために,老骨にむちうって,先頭に立っている。たくさんの本を書き,その内容は独自のものであり,良識ある人々を引きつける。スタイルが明確で,クリアなので世界中の国々で,学校の英語の教科書として用いられているとのことだ。外国のすぐれた人物と交流があるし,影響力がある。その人の作品を読んだ」
「私知らなかったわ。恥ずかしい。それらの本はロシア語に訳されているの」
「いや違う。ぼくは全部オリジナル(英語)で読んだ」
「そうねえ,読んでみようかしら」
「それは,よい考えだと思う」
・・・。
* 加藤周一(かとう・しゅういち, 1919.9.19~2008.12.5):日本を代表する知識人の一人。
これは今から50年以上前に光文社から出されたもので,私も高校生の時だったかに読みました。それが二度も再刊されたということは,名著の証拠だと思われます。(pp.124-146:第6章 外国語の本を読む「解読術」)
加藤周一は,いろいろな著書でラッセルにふれていますが,本書でも以下のとおり3箇所で言及しています。
ラッセルの英文はわかりやすいということで定評がありますが,WEB上ではラッセルの文章は難しいと言っている人が散見されます。不思議な現象ですが,これは多分,ラッセルの書き方や書いている内容はやさしいが,「自分の頭でものを考え」ることがほとんどなくて,「正しい」ことや「必ず正解がある」ものばかり学習し頭に詰め込んでいるせいではないか,と推察していますが,いかがでしょうか?(M)
(p.133)・・・。そもそも少し英語ができれば,バートランド・ラッセル(1872-1970)を英語で読むほうが,日本人の私たちでさえも,西田幾多郎を日本語で読むよりもはるかに容易に理解ができるのではないかと思われます。また,ハイデッガー(ドイツの哲学者,1889~1976)のように,ほとんど翻訳が不可能なものもあります。・・・。
(p.139)・・・。必要は発明の母という原則と,外国語の本はやさしければやさしいほどいいという原則は,矛盾するどころか,ほとんどつねに一致するのです。たとえば,核兵器の禁止が日本国民の悲願であるとして,核兵器反対のバートランド・ラッセルの議論は,ヴィクトリア朝の家庭悲劇の徴に入り細を穿った小説よりも,日本国民の大部分にとっては,より必要な内容であるはずでしょう。そして,ラッセル卿の政治的な論文は,ヴィクトリア朝小説よりも語学的にははるかに容易です。また,たとえば,スエズ戦争のときにイギリスの世論を二分した『タイムズ』(ロンドン)と『ガーディアン』(マンチェスター)の社説は,いずれも,性と殺人を売りものにした駅売り小説より,けっして語学的にむずかしいわけではありません。・・・。
(pp.171-207:第8章 むつかしい本を読む「解読術」)
(p.181)・・・。日本語ではありませんが,イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは,本来やさしい,やさしい単純なことについてだけ書いたのではありません。しかし,ラッセルはつねに水際立って 明快な,小しもあいまいではない文章を書いたのです。香川景樹なら,「これこそ英語の上手」といったことでしょう。
* G・E. T. ベル(Eric T. Bell, 1883-1960):全米数学者協会会長。
ラッセル上下2巻本(あるいは文庫本=3巻本)で10箇所以上で引用されていますが,1箇所だけご紹介しておきます。(下巻 149-165: 完璧な独立人)
(p.150)イギリス学派は,他国で創始された理論を発展させたという点でも功績は大きいが,数学の進歩に対する以上に大きな貢献は,独創という面である。プールの業績がその典型である。ほじめて発表された当時には,「数学」とは認められなかったくらいである。ただほんのわずかの,プールと同郷の,正統派に属さない人たちだけが,ここには数学全体に対する何か最高に重大な事がらの芽生えがあることを認めたにすぎなかった。今日では,プールの仕事の発展は,急速に純粋数学の大きな領域の一つになりつつある。ほとんどあらゆる国で,多くの数学者が,それを数学の全分野に拡張し,いっそうしっかりした基礎の上に確立しようと努力している。ハートランド・ラッセルが数年前いったように,純粋数学は,実に1854年に刊行された『思考の法則』のなかで,ジョージ・プールによって発見されたのである。これはいささかいいすぎのきらいがあるが,少なくとも数理論理学とその分岐が今日有する重要性がどんなに大きいかを示してはいる。プールよりもさきに何人かの人,とくにライブニッツとド・モルガンが,代数学の一翼に論理学そのものを加えようと夢想していた。それを果たしたのがプールだった。
* G・M・ワインバーグ(Gerald M. Weinberg,1933~ ):ソフトウェア開発コンサルタント,著作家。
(pp.33-52: 第3章 プログラミングをどのように研究するか)
(p.47)最後に,これらすべての内容を一通り消化したときには,いくつかのプログラミングに関する神話,すなわちプログラミングに関する信仰を検証できるぐらい客観的な考え方が身についているかもしれない。バートランド・ラッセルが言ったように,信仰とは証拠のないものを信じることである。そして神話とは, アンプローズ・ピアスがかつて定義したように,他の人びとの神聖な信仰である。おそらく私たちは昔からの信仰を変わらずもち続けるものなのだろうが,検証の結果,根拠のないプログラミングの神話がひとつでもなくなれば,本書のために骨を折った甲斐があるというものだ。
・・・。
(p.237-322:第IV部 プログラミングの道具)
(p.237冒頭=ラッセル『自伝的回想』からの引用)
訳者の伊豆原弓氏は,みすず書房版の中村秀吉訳(の旧訳)を転載していますが,誤訳とまでは言えなくても,日本語としてあまりよいとは言えません。新訳のほうは,よくなっているところと,かえっておかしくなってしまっている部分がありますので,松下訳に変えておきます。なお,この「私の執筆法」は,ラッセルが1951年に行ったBBCラジオ講演であり,BBC発行の London Calling, 10 May 1951に最初に掲載され,後に, Portraits from Memory and Other Essays, 1956 に再録されました。(松下訳)・・・これは,聴衆者の中にたまたま大学教授がいらっしゃたとしたら,それらの方々への助言です。私がわかりやすい言葉(英語)を使うことを許されているのは,私がその気になれば,数学的論理も駆使できることを皆さんがご存知だからです。(たとえば,)「自分の亡き妻の姉妹と結婚する人たちもいる」という文をとりあげてみましょう。私はこの文を,何年も研究した後にようやく理解できるような言葉(松下注:厳密な命題群)で表現することもできます。このことが私に自由を与えてくれるのです。若い大学教員の方々には,最初の著作は学識のある少数の人にしか理解されないような専門用語で記述すべきだと提案させていただきます。そうした後であれば,いつでも言うべきことを「一般の人に理解できる」言葉で述べることができます。私たちの人生が大学教授の掌中にある現代においては,彼らが私の助言を聞き入れてくれたら感謝の念に堪えません。(松下注:いうまでもなく,皮肉が込められています。)
(伊豆原氏が転載している,中村秀吉旧訳:・・・読者の中でたまたま教授であるという人にひと言助言したい。私が普通の英語を使うことを許されるのは,私がその気になれば数学的論理も駆使できることを誰もが知っているからだ。たとえば,「自分の亡き妻の姉妹と結婚する人たちもいる」という文がある。私はこれを,何年も研究したあげくにようやく理解できるような言葉で表現することもできるが,このことが私に自由を与えてくれるのだ。若い教授たちには,最初の著作は学識のある少数の人にしか理解されないような専門用語で記述することをおすすめする。そうしておけば,あとはいつでも言うべきことを「一般の人に理解できる」言葉で話すことができる。私たちの人生が教授の掌中にあるこの時代,彼らが私の助言を聞き入れてくれたら感謝の念に堪えない。
バートランド・ラッセル『自伝的回想』(Portraits from Memory and Other Essays, 1956)
* T.バトラー=ボードン(Tom Butler-Bowdon,1967~ ):著作家。ベンジャミン・フランクリン賞受賞(米国出版協会)。『50の名著』>シリーズは23言語に翻訳されているとのことです。
『幸福論』は哲学の著作ではなく,またラッセルの主著でもないですが,T.バトラー=ボードンは,そのことを理解した上で,本書で紹介しています。内容は,『幸福論』のなかの気の利いた言葉多数の引用・紹介であり,特別なものはありませんが,「落穂拾い」ということで,(「ラッセルの言葉」の部分は除外して)ほんの少しだけ(最初と最後の一部だけ),以下抜粋しておきます。
[pp.387-395:ラッセル『幸福論』]
(p.388) 現代の数学者や哲学者のなかで,ラッセルほど称賛された人物はいない。記念碑的著作の『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』(A. N. ホワイトヘッドと共著,論理学に関する多数の重要な学術論文や,著書,『西洋哲学史』に代表されるベストセラーなど,ラッセルは多数の著書を執筆している。・・・。 ・・・。
・・・。
(p.393) ・・・。学問的な哲学という意味では,『幸福論』はラッセルの主著ではないが,この本は哲学者ラッセルと人間ラッセルを結びつける橋であり,だからこそ魅力にあふれている。・・・。
* 萩原延壽(はぎはら・のぶとし, 1926~2001):各大学からの誘いを断り,在野の歴史家として生涯を通した。朝日新聞に連載された『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』(全14巻)は有名。東大法学部政治学科卒で,ペンシルヴァニア大学及びオックスフォード大学に留学。
『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』は聞かれたことがある人もいると思いますが,ここに登場するジョン・ラッセル外相は,ラッセルの祖父(後に英国の総理大臣を2度務めた。)のことです。(M)
[pp.116-135: 声低く語れ(『林達夫著作集』]
(p.116) 例によって,はじめから私事にわたって恐縮だが,もう十年以上も前,オックスフォードで三年くらしていたころ,そこにヴォルテールの会(Voltaire Society)という小さな集まりがあって,わたしも二年目から仲間に加えてもらった。
名誉会長(Patron)にバートランド・ラッセル,特別顧問(Corresponding Humanist)にE・M・フォースターをえらんでいたことからも察しがつくように,この会には,前にふれたブルームズベリー・グループの「左派」別働隊,ないし残党というおもむきがないでもなかった。(松下注:ラッセルはブルームズベリー・グループとの深いつきあいはあったが,グループの一員ではない。なお,ラッセルの『懐疑論』(Sceptical Essays, 1928)の冒頭に,ボルテールの言葉Aimer et penser: c'est la veritable vie des esprits (愛し考えること それが精神の真の生命だ)が掲げられている。)
別に排他的な入会制限をしていた記憶はないが,全員が五十名を越えることはまずない小さな集まりのくせに,さまざまな肩書をつけた役員が十名ばかりならんでいたのは,ちょつとした見物(みもの)だった。偶像破壊係((Iconclast),庭園係(Gardner),会計係(Treasurer),図像係(Iconographer),図書係(Librarian)という具合で,いずれもヴオルテールの故事にちなんだものであることは,いうまでもない。・・・。
(p.121)・・・。しかし,まだちょっと気がかりなのは,名誉会長バートランド・ラッセルと林さんの関係である。ヴォルテールがそのまま現代に生き返ったような大ジャーナリストとしてのラッセルの側面に,林さんは多少辟易するかもしれない(「古代思想史の課題--ラッセルの『西洋哲学史を読みて」,第二巻)(松下注:林達夫がラッセルの『西洋哲学史』を批判しているため)。
だが,幸か,不幸か,ラッセルは核兵器反対,ヴェトナム戦争反対などの政治的啓蒙活動で多忙をきわめ,ヴォルテールの会に立ち寄るひまなどめったにないだろうし,それに生粋の自由主義者である林さんが,ラッセルがそのために闘っている正義にたいして原則的に反対であろうとは,よもや考えられない。それから「知識は不可分である」(Knowledge is indivisible)という古典的な命題の体現者,イギリスにつたわる「高貴な畸人(noble eccentric)の伝統の継承者 そういうラッセルの側面に,林さんが異存のあろうはずはない。
さらに,わたしは,使者にたつ場合,ラッセルがモーツァルトの熱心な愛好家であることを,林さんにつたえるのを忘れないだろう。一九六二年五月,ラッセルの九十歳の誕生日を祝う集会がロンドンのローヤル・フェスティバル・ホールで催されたとき,ラッセルの特別の希望で演奏されたのは,じつにモーツァルトのニ短調のピアノ協奏曲(二十番,K四六六)と,変ホ長調の交響曲(三十九番,K五四三)であった。ピアノはリリー・クラウス,オーケストラはコーリン・デーヴィス指揮のロンドン・シンフォニーである。
もっとも,モーツァルトの作品の中で,この二つの曲の占める位置ということになると,わたしなどでは到底手に負えない厄介な問題がつぎつぎに登場してくるが,それをきっかけに,十八世紀ヨーロッパのひとつの象徴としてのモーツァルト,林さんが造詣のふかいバロック芸術の音楽部門のしんがりをつとめるモーツァルトという具合に話がうまくはずみ,そこで林さんが身をのり出して,思わず特別顧問の依頼に承諾のサインを出してくれる--もう底が割れていると思うが,これは林さんを口説きおとすための,わたしのささやかな「ポリティーク」である。
・・・。
YuTubeで視聴できるモーツァルトのニ短調ピアノ協奏曲(二十番,K四六六)です
* ベン・デュプレ
* 近藤隆文:翻訳家。一橋大学社会学部卒。主な訳書として,B. マギー『哲学人』(NHK出版)がある。
本書では,ラッセルの著書からの引用(ただし出典に関する記述はなし)がかなりあります。ラッセルのパラドクス(床屋のパラドクスほか),記述理論(フランス王は禿頭),情緒価値説,他我問題(哲学上のゾンビ),世界や神の存在証明(に対する反駁)などです。
本書では一般の読者も知っていたほうがよい哲学のアイデアが50ほどとりあげられています。一般市民や高校生向けといったところでしょうか?
ラッセルに関係したものは目新しものはないので,今回は「まえがき」を一部引用させていただきます。
[(p.i) ベン・デュプレ「哲学の世界へようこそ」])
哲学の長い歴史には,危険思想で武装した危険人物が思いのほかたくさん登場してきました。ほんの数例を挙げると,デカルト,スピノザ,ヒューム,ルソーらは破壊思想の持ち主とされ,追放だと脅されたり,著作の出版の延期を強いられたり,昇進を妨げられたり,亡命を余儀なくされたりしています。なかでも有名なのほ,悪影響をおよぼすとして都市国家アテナイで処刑されたソクラテスでしょう。・・・。
・・・。哲学の問題はきまって深遠で,たいがい難解かもしれませんが,重要であるのもまた確かなのです。たとえば,科学は玩具店を,デザイナーベビー(遺伝子操作によって作った理想的な赤ちゃん)から遺伝子組み換え食品にいたる,あらゆる'おもちゃ'でいっぱいにできるかもしれません。けれども,あいにく,取扱説明書を用意していないし,もともと用意できないのです。何ができるかではなく,どうすべきかを判断するには,哲学を頼りにするしかありません。・・・。
ようこそ,哲学の世界へ。
* 濱崎望(はまさき・のぞむ,1965年~ 川内まごころ文学館勤務。
特に目新しい情報は書かれていませんが,一箇所だけ,引用・紹介させていただきます。
[(pp.90-95) 濱崎望「バートランド・ラッセルの招聘」])
また,山本賓彦(改造社社長/やまもと・さねひこ)自身も『改造』昭和25年4月号(30周年記念号)掲載の「創刊前後の思出」で,三たび回想する。
私は,バートランド・ラッセルが『改造』に寄稿するとき,北京にあった彼は『改造』の半年分を北京大学生4,5人に全部論文から創作に至るまで英訳さしてみて「あゝ,この雑誌ほ世界で一番知識的の雑誌だ,自分は殆ど毎号『ネーション』に執筆するが,これは一両日あれば書けるが,『改造』に書くにはその準備にも大変な時間を要して書かなくてはならぬ」といって,非常な用意を以て執筆した。果然,その第一稿の『忠君愛国主義の哲学的批評』なる論文は雑誌界あって以来の興奮と歓迎とを受けた。例によって自賛的な内容の言辞であり,『改造』が『ネーション』よりも高級な内容であることがラッセルにより保証された形となっている。なお,『ネーション』はアイルランド出身のジャーナリスト,チャールズ・ギヤバン・ダフィーが1842年に創刊した急進的な内容の総合雑誌。また第一稿としてここで挙げられた『忠君愛国主義の哲学的批評』というタイトルは,実際の誌上では「愛国心の功過」となっていたことを改めて確認しておく。
* イアン・ハッキング(Ian Hacking,,1936年~ )科学哲学者。現在,トロント大学名誉教授。
『(p.338)・・・。私は,帰納的推論を分析するという帰納の分析の問題と,いかなる帰納的推論についてもこれまで正当化されたものがあるかどうかを問う懐疑の問題とを区別してきた。・・・。ヒュームに始まったことは哲学的懐疑の問題としての帰納であって,農業での推論の問題ではない。逆に,R・A・フィッシャーによる推定と統計的検定の綿密な理論は,ロザムステッド農事試験場のために作られたものであり,哲学的な懐疑とは一切関係がない。
ヒュームは自身の問題を「帰納」とは呼ばなかった。当然ながら,ヒュームは自分のしたことを,バ-トランド・ラッセルによる1911年(松下注: K. Blackwell, A Bibliography of B. Russell, v.1 によると,初刷は1912年1月24日付で15,000部刷られている。フライングで前年12月末に一部の書店に並んだかも知れないが,出版年としては1912年が正解)の『哲学入門』(Russell, The Problems of Philosophy)の第六章にあるような,現代の人々が学ぶ見事で面白いやり方では考えなかった(「鶏が死ぬまで毎日餌を与え続けた人は,最後にはその首をへし折るのであって,自然の斉一性についてのより洗練された見解が鶏にとって有益であることを示したりはしない(ラッセル)」)。もちろん,帰納の問題とは本当は何であるかに関してさまざまな意見がある。・・・。
* 吉成真由美
本書はこれまでに約20万部が売れたベストセラーとのことです。吉成真由美(利根川進の再婚相手)がインタビューしたのは,いずれも知の分野で世界を代表する思想家・研究者で,次の6名です。
ジャレド・ダイヤモンド
ノーム・チョムスキー
オリバー・サックス
マービン・ミンスキー
トム・レイトン
ジェームズ・ワトソン
6名のうち,3名がバートランド・ラッセルについて何らかのコメントをしています(pp.68:104-105;114-115;148-149;297)。
インタビュアーの吉成自身もラッセルをかなり読んでいるようです。対談の中でふれるだけでなく,「あとがき」の最初にも,インタビューを受けた6人全員に共通すると思われる(科学者の)心的態度を表す,ラッセルの次の言葉を掲げています。
「必要なのは,信じる心ではなく,それと正反対の,知ろうとする心である。」
以下,ノーム・チョムスキーとオリバー・サックスへのインタビューから,引用・紹介させていただきます。あとは実物図書をお読みください。
[pp.65-126: 帝国主義の終わり-ノーム・チョムスキー (Noam Chomsky)]
(p.68)・・・。
・・・・。大きく拡大されたバートランド・ラッセルの写真がかかり,光注ぐ窓と鉢植えの木と,大きな白板と机の他,あらゆるスペースを本が占めるMITの研究室で,資本主義の将来,核武装の是非,民主主義について,インターネットの社会への影響,教育について,言語や音楽,数学の能力についてなど,現代のソクラテス(チョムスキー)に見解をうかがってみた。エリートの偽善を糾弾し,民衆の能力というものを信頼するその基本姿勢にはぶれがない。
(p.104) 真実と偽善
< (吉成)- では「真実を好んで偽善を嫌う」ということについて。最初にあなたの政治的な視点というものに触れた折,自分の知っている世界が全く違って見えたショックをまだはっきりと覚えています。あなたのコメントからいくつか引用しますと,
「偽善者とは自分に課す基準と他人に課す基準が違う人のことだ」(チョムスキー) いま引用されたのはみな自明の理だというふうに考えることができる。大人も子供も,誰にでもわかることです。教育制度あるいは洗脳制度の目的の一つは,簡単な真実を大層なことのようにしてしまうということにあります。・・・。
「エリート大学は最も従順な生徒を選択し,体制順応者を生産する」
「東京裁判は単なる茶番だ」
あるいはマーチン・ファン・クレフェルト(イスラエルの最右翼の軍事歴史家)を引用して,
「イラクに何が起こったかを目撃したあとで,もしイランが核兵器を開発しないとしたら,彼らはまともじゃない」
「アイゼンハワー,ケネディ,ブッシュ,レーガン,クリントン……みなミロシェビッチやスハルトと同じ犯罪者だ」
そして,ちょうどバートランド・ラッセルが言ったように
「偏った(かたよった)イデオロギーをくり返す代わりに,それを解体して真実を探し,真実を語りなさい」と言う。いつでも,何が偽善でどこに真実があるかを,徹底して探ろうとするわけです。そこまで見通すことはなかなか難しいと思うのですが,この態度は科学の訓練に根ざしているのでしょうか。」
[pp.127-167: 柔らかな脳-オリバー・サックス (Oliver Sacks)]
(p.148)
(サックス) 一八世紀の科学者ヘンリー・キヤベンディッシュは,ほとんど他の人間との接触というものを避けて生きていたそうです。裕福な人でしたが,使用人は家の別棟に住んでいて,キヤベンディッシュに話しかけることを禁じられていた。想像も及ばない静寂と孤独の中で暮らしていたそうです。彼はたいへんな知性とオリジナリティを備えており,地球の重量計測から始まって,新元素の発見などを成し遂げているのですが,科学者によく見られる野心や競争心とは全くかけ離れていたそうです。
(吉成)-それで思い出しました。バートラン・ラッセルが,「最も高い教育を受けた者たちの中で,一番幸福なのは科学者である。なぜなら,彼らの脳は仕事の内容で一杯で,感情面では非常にシンプルでいられる。あまりにシンプルなので,食べることや結婚することなどに楽しみを見い出せるほどだ(笑)」と言っていました。科学者の場合は,能力が領域特定化しているのではなく,才能が脳の大半を使ってしまっているということでは・・・。
(サックス) 私が敬愛する科学者については全くそのとおりであろうと思います。・・・。
* 斉藤兆史(さいとう・よしふみ, 1958~ ):東大教育学部教育内容開発コース教授。英語学者。
・ PDF版を閲覧できます。
(p.12)・・・。英語教育研究の本場イギリスでも,イギリス応用言語学会の長たる Guy Cook が Translation in Language Teaching(Oxford University Press,2010)という本を出し,コミュニカティヴ・アプローチを批判しつつ,語学学習における訳の効用を説いている。日本でも,つい先頃,東京大学の菅原克也教授が『英語と日本語のあいだ』(講談社,2011)を出版し,訳読擁護論を展開している。長らく「西洋ではとうの昔に廃れた Grammar-Translation Methodを日本ではいまだに用いている」と言われてきたが,西洋のGTM と日本の訳読が別物であることも学問的に証明された(平賀優子『日本の英語教授法史――文法・訳読式教授法存続の意義』,東京大学大学院総合文化研究科博士論文,2007)。・・・。
・・・。
まず教科書(Genius English Reading Revised)を開いた瞬間に感じることは,その密度の濃さである。内容の薄い会話文や写真やイラストだらけのコミュニケーション英語の教科書が増えたことを苦々しく思っていた英語教師の立場からすると,久々に頼もしいと思える骨太の教科書だ。内容も多彩で,随筆,説明文,自己紹介文,新聞記事,声明文(しかも,私の大好きなバートランド・ラッセルとアインシュタインが発表した,いわゆる「ラッセル=アインシュタイン宣言」なのだから,うれしくなってしまうではないか),手紙文,さらに,敬遠される傾向にあるとはいえ,本来の読解教材にはなくてならない文学作品の一節までしっかりと備えている。・・・。
日本では,しばらくの間,「英語の授業なのだから日本語を使わないほうがいい」との素人考えが蔓延していたが,ある程度学習者言語を用いたほうが語学学習が効果的に行なわれることは,最初に紹介した Cook(2010)でも論じられている。最初から最後まで訳だけの授業ではまずいが,日本の中等教育の英語の授業のなかには,かならず英文和訳や訳読の部分がなくてはいけない。・・・。
* 広岡守穂(ひろおか・もりほ, 1951~ ):中央大学法学部教授,NPO推進ネット顧問(元・理事長),作詞家。東大法学部卒。
[p.299 「まえがき」より]
本書は『政治と自己実現』(中央大学出版部)につづく自己実現シリーズの第二弾である。個人に対して国家に貢献することを求めるのではなく,国家に対して個人の自己実現を支えることを求める。それがデモクラシーの原理である。そういう視点で,日本の政治思想史をとらえようとしたのが前著であるが,本書の問題意識も同じである。
ただし本書では市民社会という概念を基本にすえた。・・・。
[pp.280-282: 「私の根っこ」からの運動]
・・・。
一九五〇年代にイギリスが核武装に踏み切ろうとしたとき,哲学者のバートランド・ラッセル(1872-1970)らは「百人委員会」をつくって反対行動を起こした。ラッセルらは反対の強い意志を表現するためには,あえて違法行為に訴えることも必要であるとして,ラッセル自身も抗議行動の際に警察に逮捕される場面があった。このとき百人委員会では,抗議行動に先立って,あらかじめどういう行動が違法であるかを参加者に示し,それをわかった上で行動する人は行動するように求めた。
* ジュリアン・バッジーニ(Julian Baggini, 1949~ ):サイエンス・ライター。
本書では,ラッセルは5ケ所で引用されており,「言語の多義性」の問題,「ラッセルのパラドクス」,「記述理論」などが解説されています。どれもよく知られていますが,ここでは,「言語の多義性」の問題に関するもののみご紹介しておきます。後は,興味の有る方は,図書館や書店でお読みください。(pp.70-72 多義性)
・・・。
(p.70 あらゆるものの原因)
このような多義性が哲学にとって重要な意味を持つことがあります。たとえばあるよく知られた論争で,イギリスの哲学者バートランド・ラッセル(1872-1970)がイエズス会士の哲学者フレデリック・チャールズ・コプルストン(1907-1994)を非難したことがありました(参照:ラッセル『宗教は必要か』荒地出版社)。神は存在するものすべての原因に違いないとコプルストンは主張するけれども,そこには論理的な誤りがある,とラッセルは言います。「あなたの論証は,この世界に存在する誰にも母親がいる,ゆえに人類には母親がいるに違いないというのとおなじですよ」。もちろんこの批判は単なるアナロジーにすぎません。ラッセルがコプルストンの過ちとして実際に咎めているのは,「すべてのものに一つの原因がある」(どのものをとっても,独自の,それぞれに異なる原因が一つある)という事実から,「すべてのものの原因が一つある」(あらゆるものからなる全体に対して,おなじ一つの原因がある)と結論している点です。「すべてのものに一つの原因がある」という文の多義性は,「すべてのもの」と「一つの原因」の意味が幾つもあることに由来しています。
あらためて次の文を検討してみましょう。
文1 「すべてのものに一つの原因がある。」
( Everything has a cause. )
この文は,つぎの三つの言明のどれかを意味すると思われます。
a どのものにも,独自の,相異なる個別の原因が一つある。
b すべてのものに共通する一つの原因がある。
c もの全体を生み出した一つの原因がある。
ラッセルは,コプルストンがこうした多義性を見落としており,彼の推論が成り立つのは文1の意味をbかcに解する場合だけであると述べているのです。しかし,いずれもこの多義的な文の読み方としてはひどく説得力に欠けるとラッセルは言います。・・・以下省略・・・。
* ロン・チャーナウ(Ron Chernow, 1949~ ):著作家。
* 井上廣美(いのうえ・ひろみ, 1959~ ):翻訳家。名古屋大学哲学科卒。
* ジョン・D・ロックフェラー(John Davison Rockefeller, Sr, 1839~1937):実業家,慈善家。
上巻 (pp.33-71:信仰の炎)
(p.54) ジョン・D・ロックフェラーのスタンダード石油の舵取りが,はたして父親の非良心的な悪知恵にならったものか,それとも,母親の厳格なまでの品行方正さを手本としたのかは,彼の歴史的評佃にきわ めて大きな影響をおよぼす問題だ。バートランド・ラッセルはかつてロックフェラーについてこう述べた。「彼の発言,思想,感情は,その母から来ている。しかしながら,彼の行為はその父から来ているのだ。そして父から受けついだところに加えて,幼年時代の不快な生活につちかわれた大へんな用心深さがあったのである」[井上訳注:『バートランド・ラッセル著作集3『自由と組織II』(みすず書房,大淵和夫・鶴見良行・田中幸穂・共訳)より引用]先の問題は,これだけではとうてい片付けられないほど複雑だが,確実に言えるのは,ロックフェラーの業績が,彼の性格にある相反する二つの気質 --父親の大胆さと母親の慎重さ-- が綱引きした結果だということだ。
本書以外の,ラッセルのロックフェラーへの言及を2つあげておきます。
ビジネス界の偉人のなかには,若い時の苦労が役立ったと自覚している人たちもいる。(たとえば)ジョン・D.ロックフェラー氏は,彼が貧しい家庭に育ったことが幸いしている(神の加護の一つだ)と回顧録で述べてる。しかし,ロックフェラー氏は,自分の子供にこの恩恵を与えないようにと骨を折った。 (Some of them are conscious of the benefits they have derived from struggle in youth. Mr John D. Rockefeller states in his reminiscences that he counts it among his blessings to have been brought up in a family of modest means. Nevertheless he has taken pains to prevent his own children from enjoying this blessing.) (出典:ラッセル『アメリカン・エッセイ』の中の「教育は有害か?(1932年2月17日執筆))」
https://russell-j.com/EDU-HARM.HTM
肺炎球菌を殺した血清を提供してくれた北京のロックフェラー研究所は,私の生命の恩人といってもよいだろう。それ以前においてもそれ以後においても,私は政治的に研究所の人たちに強く反対の立場をとっていたし(松下注:何を言っているのか不詳。北京のロックフェラー研究所が細菌兵器につながる細菌の研究をやったいたので非難していたということであろうか?),彼らはちょうど私の看護婦が思っていたと同じように私に対して非常な恐れをいだいていたが故に,この点で,よりいっそう彼らに感謝の念を抱いている。 (I probably owe my life to the Rockefeller Institute in Peking which provided a serum that killed the pneumococci. I owe them the more gratitude on this point, as both before and after I was strongly opposed to them politically, and they regarded me with as much horror as was felt by my nurse.)
(出典:ラッセル『自伝』第2巻第3章「中国」
https://russell-j.com/beginner/AB23-100.HTM