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バートランド・ラッセル落穂拾い 2017

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 ★R落穂拾い-中級篇


索引(-出版年順 著者名順 書名の五十音順
(ラッセル関係文献「以外」の図書などでラッセルに言及しているものを拾ったもの)

  • 『人類の未来-AI,経済,民主主義』(NHK出版,2013年4月/NHK出版新書513)(2017.05.17)
    * マーティン・ウルフ(Martin Wolf, 1946~ ):Financial Times 論説主幹。世界中の金融マンがウルフの記事をみんな読んでいるとのこと。

    (pp.222-223)
     私の生き方を変えてきたのは哲学です。今では古くなってしまいましたが,私が15歳ごろに一番心酔して影響を受けたのは,バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』です。人間が歴史を通じてどのように考えてきたが,全体を俯瞰する視点を提供してくれます。
     ここ20~30年の間に読んだ本の中で,非常に大きなスケールの視点を提供してくれたのが,ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(草思社)です。素晴らしい本でした。その後の『文明崩壊』(草思社)もとても興味深かった。先ほど触れたユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』もいい本です。・・・。

  • 安冨歩『「学歴エリート」は暴走する』(講談社,2013年6月/講談社+α新書599-2c)(2017.05.03)
    *
    安冨歩(やすとみ・あゆみ, 1963~ ):東大東洋文化研究所教授,経済学博士。『「満州国」の金融』で第40回日経・経済図書文化賞受章。

    (pp.181-183)
    「疑う」という立場

     このように私たちが同じようなパターンを繰り返してしまう理由は、本書のテーマでもある「学歴エリート」たちの立場主義というものが、戦前から現代まで一貫して日本社会を支配しているからです。
     では、この立場主義社会から脱却をするためにはどうすればいいのでしょうか。近年、私はこの立場主義社会の共通語である「東大話法」というものの研究を続けることで、その答えを探しています。もちろん、まだまだ研究の途中ではありますが、現時点でひとつの結論を見出しました。  それは 「懐疑主義」からの離脱です。
     なにかを疑うということで確実な知識を吸収する。現代の学問とはすべてこのような考え方に立っています。いや、それは一般社会でも変わりません。
     会社でもなにか新しいプロジェクトや革新的な取り組みがはじまった時、「本当に大丈夫なのか」という冷静な態度をとる人のほうが圧倒的に多くないでしょうか。疑りぶかい人はインテリで、信じやすい人は「楽観主義」や「浅はか」と言われる。そんなニヒリスティックな風潮が社会を支配しています。「2ちゃんねる」などのネット上の掲示板やSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス) にあふれている言葉をみてもそれはよくわかるでしは一つ。「ウソを垂れ流すマスゴミ」と攻撃し、誰かが何かを主張すると、みんなでよってたかって言葉の揚げ足をとるように、「あやしいと思う立場」からすべてが始まります。

     これは「方法的懐疑主義」というものの堕落した姿です。この考えはもともと「どんなに疑り深くなってみたところで、疑っているという私がいる、という事実だけは疑えない」というデカルトという人の言い出したことです。
     しかし実は、一〇〇年はど前に、ラッセルという哲学者が、こんな考えは成り立たないことを証明してしまいました。簡単に言うと、「徹底的に疑りぶかくなったなら、そこにあるのは疑っている、という事実だけであって、(私)なんて主体はどこにもないじゃないか。(疑っている私がいる〉なんて勝手に飛躍するんじゃないよ」ということです。「私」という主体がなければ確実な知識もなにもありませんから、方法的懐疑は何らの確実な知識への道とならず、そのままニヒリズムへと堕落していってしまいます。
     この鋭いツツコミによって、「方法的懐疑主義は成立しない」という身もふたもない話が証明されてしまったのです。にもかかわらず、現代にいたるまで方法的懐疑主義のふりをしたニヒリズムは続いています。

     なんだかややこしい話で恐縮ですが、わかりやすく言うと、「あやしいと思う立場から考える」というスタイルでは新しい知識を獲得することができず、どこへも動くこともできず、真理を求める他人を嘲る姿勢にしか結びつかない、ということなのです。

  • フレデリック・パジェス『哲学者は午後五時に外出する』(夏目書房,2000年11月)(2017.01.05)
    *
    フレデリック・パジェス(Frederic Pages, 1950~ ):「キャナール・アンシュネ」紙の記者にして哲学の教授資格所有者。
    (pp.28-29)
     一九二七年にバートランド・ラッセルと妻のドラは,愛児のジョンとケイトを,もう公立学校に通学させないことに決めた。(公立学校の)教育があまりにも宗教的,道徳的すぎたのである。そこでどうしたか。ラッセル夫妻は,サウサンプトン近くの田園にあるテレグラフ・ハウスと呼ばれる広い邸宅で,生徒二〇名ほどの自分たちの学校を創設することにした。しかし,まもなくラッセルは,この企てには莫大な費用がかかることに気がついた。学校の赤字を埋めるために,彼はアメリカでの講演回数をふやし,哲学作品を書いた・・・・。『結婚と道徳』や『幸福論』など,あらゆる主題について多くの読者が読めるような佳作がそれである。哲学者ラッセルについて通常知られているのは,論理数学的な作品でしかない。金銭的な心配が功を奏して,彼にわかりやすい本を書かせたというわけだ。
    (松下注:確かに,学校運営の資金作りのために一般向けの本を書いたことで、わかりやすい文章に磨きがかかったことは確かであるが、実際は,ラッセルが一般向けのわかりやすい本を書くようになったのは,第一次世界大戦時に,反戦を掲げ,多くの人に訴えかける必要を感じたことが大きな影響を与えている。そうして,1916年に『社会再建の原理』という一般向けの本を書き,たくさん売れて多額の収入を得ている。
     いや,それより前の1912年に『哲学の諸問題(通称『哲学入門』)を出しており,これは当時愛人だったオットリン・モレル夫人に読ませ,一文でもわかりにくい表現があれば修正を加えている。つまり,ラッセルは40歳くらいから一般の人が理解しやすい本を書いていると言える。なお,「哲学者ラッセルについて通常知られているのは,論理数学的な作品でしかない。」というのは哲学などの専門家には,ということであり,一般読者には論理学や数学の著作は余り知られておらず,『幸福論』や『西洋哲学史』などの一般向けの本で知られている。)