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バートランド・ラッセル(著),東宮隆(訳)『懐疑論』
(みすず書房,1963年7月。278 pp.)

(原著: Sceptical Essays, 1928.)
序説「懐疑主義の価値について」冒頭
Introduction: On the Value of Scepticism
 私は、読者が好意的に考えてくださるものとして、ひょっとすれば、とてつもなく逆説的かつ破壊的と見えるかも知れない1つの説を、提出したいと思う。問題の説というのは、こうである。1つの命題を、真実と考えるべきなんの根拠もない場合、これを信ずることは望ましいことではない、というのである。もちろん、私も、このような意見が普通になれば、私達の社会生活も私達の政治体制も完全に別ものになってしまうだろうということは、認めなくてはならない。わたくしたちの社会生活も政治体制も、双方とも目下のところ非の打ちどころのないものだから(松下注:いうまでもなく皮肉)、右のような意見はなかなか尊重されないに違いない。私はまた、このような意見のために、千里眼や競馬のかけ元や司祭などのように、この世でも来世でも幸運にめぐりあうに足ることを何一つやっていない人々の不合理な希望を喰いものにしている者の、収入が減るようになるであろうということにも(この点は前の点より重大だが)気付いている。以上のような容易ならぬ議論があるにはあるのだが、私は、私の逆説のために1つの立場を明らかにできるという主張を持っているので、以下にこれを述べようとおもう。
I wish to propose for the reader's favourable consideration a doctrine which may, I fear, appear wildly paradoxical and subversive. The doctrine in question is this: that it is undesirable to believe a proposition when there is no ground whatever for supposing it true, I must, of course, admit that if such an opinion became common it would completely transform our social life and our political system; since both are at present faultless, this must weigh against it. I am also aware (what is more serious) that it would tend to diminish the incomes of clairvoyants, bookmakers, bishops and others who live on the irrational hopes of those who have done nothing to deserve good fortune here or hereafter. In spite of these grave arguments, I maintain that a case can be made out for my paradox, and I shall try to set it forth.