バートランド・ラッセルのポータルサイト

バートランド・ラッセル落穂拾い 2010

2009年 2011年 2012年 2013年 2014年 2015年 2016年 2017年 2018年 2019年 

落穂拾い・書名索引(出版年順)
(ラッセル関係文献「以外」の図書などでラッセルに言及しているものを拾ったもの)

  • 荒垣秀雄「人口惑星第1号(と地上の生活)」(『朝日新聞(天声人語欄)』1959年1月5日)(2010.12.31)
    * 再録:『天声人語4(1958.7-1963.4)』(朝日文庫て2-4,1981年)
    *
    荒垣秀雄(あらがき・ひでお、1903-1989):朝日新聞論説委員。
    (pp.52-53)

     月ロケットでもやはりソ連がアメリカの先を越した。米国の月ロケットが四回も不成功に終わったのを尻目に沈黙していたソ連が、正月のお年玉に打ち上げた宇宙ロケットはアレヨアレヨというまに月の近くを通り越し、太陽に向かって'猪突猛進'、太陽のまわりを公転する人工惑星第一号となるらしい。米国の発射した月ロケット'パイオニア'第一号は二万四七〇〇余キロまで行ったが、地球の引力を振り切れず、引きもどされて消滅した。・・・。

     去年の暮れ、米国は'もの言う人工衛星'アトラスで気をよくしていたが、月ロケットでまたソ連にすっかり引き離され、新年早々やりきれない気持ちで沈みきっているようだ。二度目の'宇宙の真珠湾'だという。宇宙ロケットでは何年かの立ちおくれといえよう。
     それにひきかえ、フルシチョフソ連首相は「月への道を初めて開いた」と社会主義体制の勝利を誇り得意満面である。が、バートランド・ラッセルが「ここ数世紀間は人類はやはり自分の住み家として地球で満足せねばならぬ。宇宙旅行は可能かより、人間は果たして今後も地球の上に生きていかれるかが問題だ」というように、地上の人間生活の安全が保障されなければ、宇宙時代も何の意味もないのである。

  • 『内田魯庵全集・補巻1:随筆・評論V』(ゆまに書房,1987年5月刊)(2010.11.1)
    *
    内田魯庵(うちだ ・ろあん、1868年-1929年6月29日):明治期の評論家、翻訳家、小説家。多磨霊園に墓がある。
    (pp.463-473)「時代錯誤的日本」
    * このエッセイは博文館刊行の『太陽』大正10(1921年)年1月号に掲載されたもの


    (p.463~ )
    1.ラッセルと支那及び日本
     支那ではラッセルを招待した。其序にラッセルが日本へも来るという噂が立った時、文部省だか大学だかの或る高官は、ラッセルの思想は日本の国体を容れないから縦令(たとえ)来ても公開的講演を許す事は出来まい、或は上陸をすらも許されないかも知れないと言ったそうだ
     が、ラッセルは民間某々氏(注:改造社社長・山本実彦)の懇囑で愈々来春(1921年)は日本へ来て東京及び京阪各地で何十回とかの講演をする事に定ったそうだ。(注:結局慶應義塾大学大講堂での講演だけとなった。)我が官憲はドウいう風にラッセルを待遇するだろうか。マサカ上陸を禁止する事もあるまいが、其講演をドウいふ風に取締るだろうか。堺、大杉等の社会主義者を取締ると同様に初めから公開不許可とするだろうか、或は許可しても高圧的に発言するかしない中に中止解散を命ずるだろうか。マサカ制服や角袖の警察官を何百人も派してクーデターを行うような騒ぎも外国人に対してやり憎かろうと思うが、ドウいう風に取締るだろう?
     尤も天性常識に富むアングロサクソン人の事だから、郷に入れば郷に従うで、日本にくれば日本の国情と妥協するような微温説でお茶を濁すかも知れず、案外官憲の懸念するような心配は無かろうと思う。旁々外国人、殊に英国人に対しては極めて遠慮深い我が官憲の事だから、結局通訳を許さない位の所で納まるだろう。が、余が弦に云はんと欲するは我が官憲対ラッセルの問題では無い。

    2.支那人の新思想吸収
     支那ではラッセルのみならず、続いてオイッケン、ベルグソン等、現代思想の中堅たる欧州碩学を代わる代わるに迎える予定だそうだ。北京大学を東洋一の最高学府とする渠等の抱負だそうだ。之に反して日本は戦前にオイッケンが来遊する噂あったが、之も我が政府又は学界の自発的招待というようなオイッケン自身の漫遊希望であった。夫すらも戦争の爲め沙汰止みとなったが、今やラッセル来るの予報に接しても官憲は拒斥の意を仄めかし、学界も亦或は雲煙過眼視するかをも計られないのだ。・・・。

    (p.474~ )喫煙語
     ラッセル夫人に非ざる一女性を同件しているそうだ。或人の問に答へて、法律とか結婚とかいう無用の手続きを除いては完全なる我が妻であると明言したそうだ。ゴリキーが真実の細君を故国に残して女優を同行したのと違って、法律の手続きだけを履まない夫人だから、内縁の妻というものを認めている日本では格別不思議に思はない筈だが、雷鳥(注:平塚雷鳥のころ)の同棲を問題とした我が道学先生輩はドウ考えるだろう。
     道学先生は咄にならぬが、雷鳥の同棲を否認しないまでも正認するに躊躇した者は新人を任ずるものの中にも少なくなかった。夫婦に非ざる夫婦は因襲道徳を外にしても社会の綱紀上疑問であった。且今日の戸籍法上、産児を私生児とするは将来の教育上の疑問であった。が、此種の疑惑者の爲めにはラッセルの夫人に非ざる夫人の帯同が必ずや無言の解決となるでろう。
     尤も日本では法律や結婚の儀式や形式上の手続きを嚴ましく云うくせに、一夫多妻が事実上黙認されている為に、男女の関係に就ては割合に寛大に見られている。唐紹儀が孫のような若い第何番目かの夫人を連れて来ても、貴夫人社会は正式に迎えて夫人としての相当の待遇をした。支那は夫婦道徳の特殊国だから風俗上よんどころないとしても、セミヨーノフ夫人と称するものが何人来ても夫程不思議がらない。であるからラッセル夫人に非ざるラッセル夫人も案外問題にはならないかも知れない。尤もラッセル其人からして或る方面からは毛蟲扱いされるだろうから、夫人の如きは猶更貴夫人社会に歓迎される筈は無いだろう。・・・。

  • 大西泰斗『英文法をこわす-感覚による再構築』(日本放送出版協会,2003年1月刊)(2010.10.29)
    大西泰斗(おおにし ・ひろと、1961年~ ):東洋学園大学教授。
    (pp.211-221)「イメージの見せる世界(Bertrand Russell の英語が教材)」
    * 大西氏は、バートランド・ラッセルの New Hopes for a Changing World (1958) から下記の文章を引用し、どのようにイメージし、意味をとらえていくべきか詳述しています。

    The present time is one in which the prevailing mood is a feeling of impotent perplexity. We see ourselves drifting towards a war that hardly anyone desires -- a war that, as we all know, must bring disaster to the great majority of mankind. But like a rabbit fascinated by a snake, we stare at the peril without knowing what to do avert it. (Bertrand Russell, New Hopes for a Changing World)
    「(松下訳)今日、どうしようもない無力感が世界に行き渡っている。誰も望んでいない戦争--人類の大多数に惨劇をもたらすことが誰の目にも明らかな戦争--に向かって流されている自らの姿を眺めている。しかし、蛇に睨まれた蛙(←蛇に睨まれたウサギ)のように、為すすべなく立ち竦んでいるのである。」
     以下、少し抜き書きします。

    (p.212)・・・。この(ラッセルの)文章から私たちが学ぶべきテクニックは「イメージを集める」ということ。表現を注意深く選択し、ある特定のイメージを読者に繰り返し繰り返し植え付けていく、このテクニックをじっくり「舐めて」いきます。
    (p.213)'perplexity'(困惑):相反する情報を与えられるなどして、何をしてよいのか分からず立ち往生している状態です。理性による思考が停止していると考えていいでしょう。・・・。この 'impotent perplexity' がこの文章のキーフレーズ。・・・。これ以降使われる表現-- drift, rabbit (stare)-- のイメージが、この impotent perplexity に「集まってくる」ことを見逃さないでください。
    (p.216)・・・。'The present time is the one' ...
    ・ この文章の書き出しは、実に heavy です。・・・。なぜ、Russell は好き好んでこのような heavy な形にしたのでしょうか?・・・。

     → 著作権の関係で全文を引用できませんので、あとは図書館で借りるか、書店で立ち読みをしてください。

  • 柄谷行人「村上春樹の「風景」-『1973年のピンボール』」(2010.10.25)
    * 出典:『村上春樹スタディーズ01』(若草書房,1999年6月)

    (p.132~) 村上春樹は、したがって、'名'(固有名)にこだわっている。彼の作品においては、'名'とは何かかたえず問われている。

    「よしよし」と運転手はにむかって言ったが、さすがに手は出さなかった。「なんていう名前なんですか?」
    「名前はないんだ」
    「じゃあいつもなんていって呼ぶんですか?」
    「呼ばないんだ」と僕は言った。「ただ存在してるんだよ」
    「でもじっとしてるんじゃなくてある意志をもって動くわけでしょ? 意志を持って動くものに名前がないというのはどうも変な気がするな」
    (いわし)だって意志を持って動いてるけど、誰も名前なんてつけないよ」
    「だって鰯と人間とのあいだにはまず気持の交流はありませんし、だいいち自分の名前が呼ばれたって理解できませんよ。そりゃまあ、つけるのは勝手ですが」
    「ということは意志を持って動き、人間と気持が交流できてしかも聴覚を有する動物が名前をつけられる資格を持っているということになるのかな」
    ・・・中略・・・。(村上春樹『羊をめぐる冒険』)

     だが、ここでは、神が命名するという神話に、すべてを超越論的主観が構成するという神話がとってかわっただけである。この種の議論では、'一般名''固有名'がいつも混同されている。基本的にいって、右のような幼稚な議論は、ノミナリスト(唯名論者)のものだといってよい。ノミナリストは'個物'が実体であり、それは固有名で言い表されると主張してきた(この場合、'個物'とは物だけを意味するのではない。たとえば、一九六九年の学園闘争といった出来事もふくまれる。'個物' individual とは、それ以上分解すれば消えてしまうような事物や事実の単位のことである)。この考えはラッセルによって徹底された。ラッセルによれば、いわゆる固有名は斥けられねばならない。真の主語=実体を指示する固有名は、「これ」とか「それ」といったものであり、普通の固有名は、たとえば、富士山という名が「日本一高い山」という確定記述に置き換えられるように、述語の束に解消されると考えたのである。こうして、ソシュールの場合とは別の意味で、固有名が解消された。

    (p.134)・・・。村上春樹が懸命に試みているのは、'固有名を消す'ことであり、それは、いいかえれば、この世界を任意的なものたらしめることである。
     ところで、ラッセルのような考えを批判し固有名の問題を回復させたクリプキは、それを可能世界という様相論理を導入することによって果たした。たとえば、反事実的可能世界では、「富士山は日本一高い山ではない」ということができるだろう。しかし、「日本一高い山は日本一高い山ではない」ということはできない。可能世界を考えること自体が固有名に依存するのである。こうして、クリプキは、固有名がたんにものを指示するのではなく、指示を固定するのだと考える。
     これにかんしては、私は『探究II』で詳しく考察しているので、ここでは、たんにつぎの点に注目するにとどめる。それは、「現実」というものが、認識論的に考えられたときと、可能性や必然性や偶然性といったものに対して、即ち様相論的に考えられたときとは、まったく異なるということである。ソシュールやラッセルのいう世界や現実はもっぱら認識論的に見られている。たとえば、「1973年という年は存在するのか」という村上春樹の問いも、認識論的なものだ。その答えは、それはわれわれが勝手に構成したものでしかないというものである。しかし、固有名としての「1973年」はいわば、ある出来事がありかつその出来事は他でもありえたが現にこうであったという現実性を支持するのである。それは任意性に解消されない。・・・。

  • 尾高邦雄『仕事への奉仕』(夢窓庵,1995年4月/尾高邦雄選集・第5巻)(2010.10.22)
    尾高邦雄(おだか・くにお、1908年-1993年9月11日):社会学者。東京大学文学部名誉教授。

    (pp.199-243)「第五章 仕事かレジャーか」
    * 初出:1967年の春、『中央公論』の特集「新しい職業倫理」のために執筆された。

    (p.205)・・・。ある著名な経済学者は、その近著のなかで、つぎのようにその主張を要約する。「人生は消費である。」そして「人は消費するために働く。」だから、働くことを美徳であ<B>Rると考えるのは「前時代的な観念」である。人生の生きがいは仕事にあるのではない。「人生に楽しみがあるとすれば(それは)レジャーのうちにある。」
     この主張を裏づけるために、この書の著者は、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルの「無為のたたえ」(注:1932年発表)と題する論文を援用する。ラッセルは、そこでつぎのように言っている。「わたくしの考えでは、世の中には必要であるよりもはるかに多くの仕事がなされている。仕事は美徳であるという信念は非常な害毒を流している。」 勤労中心の考え方はもはや現代には通用しない。「働く道徳は奴隷の道徳だが、現代社会には奴隷は不必要だ」と。
     レジャーの享楽を重視するこの新しい価値観は、疑いもなく、一面では、上に見た国民の客観的な生活諸条件の向上という事実を背景として形成されたものである。だが、他面では、それが支配的なひとつの価値観として普及してきたということが、ますます国民大衆をレジャーの享楽に駆り立てる結果となつている。・・・。

  • 『大岡昇平全集・第13巻』(中央公論社,1974年9月刊)(2010.10.20)
    大岡昇平(おおおか・しょうへい、1909年-1988年12月25日):小説家、評論家、フランス文学の翻訳家・研究者。
    (pp.162-173)「大衆文化論における二つの虚像--変革と余暇」
    (p.205) ・・・。加藤秀俊氏(注:京大人文科学研究所)によれば、若きレジャークラスはラジオ、テレビにもっともよくスイッチを入れるそうである。三十パーセントから四十パーセントが、夜のゴールデンアワーを聞いている。
    「ひとは、若者のエネルギーが、マス・メディアに吸収されるというが、じつは若ものたちは、このマス・メディアを処理するだけのエネルギーがあるのだ、という言い方をするほうが適切であろう。」


     「処理」とは一体なんの意味か。加藤氏の柔軟な修辞は、こういうナンセンスに陥るのは珍しくないが、しかしこれでは少なくとも氏がレジャーをうずめる「実力」がないという大衆文化が、少なくともティーンエージャーに関しては、その役割を果していることを認めることになりはしないか。「処理」しているのだから、それはメディアのせいではないといいたいのかも知れないが、どっちにしても、彼等にとってその間に時間が経っていることは同じである。
     こうして若きエネルギーをたたえる一方、アメリカのいわゆる「アーリイー・ソフィストケーシォン」(日本語でいえば、'早熟'ということになるらしい)によって、世をはかなんで自殺する傾向を指摘することを忘れない。寿命が延びすぎた老人が、退屈のあまり自殺する数も増えているそうである。従って加藤氏の結論はバートランド・ラッセルを引用しながら、 次のように悲劇的な調子を帯びる。

    「レジャーからの救いは、まさしく人生の余白における、こうした知的好奇心の'養成'であろう。その自律的回転のみが、レジャーというおそるべき試練に人間がたえる原動カであり、かつそこにこそ人間のあかしがあるというべきではないか」

     アルカイックな知的好奇心を除けば、なんとこれは針生氏の極限状況、檜山氏の自主的創造と似ていることか。変革を意図する民主主義者と、外国種の余暇論を日本的風土に合わせて調味する人文科学者が、似たようなことを言っている図こそ、今日の大衆社会状況の象徴かも知れない。
     くどいようだが、こういう現状にあっては、1957年度~1960年度に行われたような、総括的な調査研究を、もう一度望まずにいられぬ。マスコミの行う顧客調査や職種別調査だけではなく、町ぐるみ調査のような形のものが行われるのが望ましいのである。哲学的方面では、近くホイジンガの『ホモ・ルーデンス』の全訳が出るそうだから、半端な理論は自然に淘汰されるであろう。翻訳に期待するなんて、情ない話だが、事態はそれほど新しく、受売り業者は、当然、文献の公開をサボっているから、こういうことになるのである。大衆文化論に関する限り、日本は明治の文明開化時代の段階にあると、前に書いたのは、この意昧である。

  • 菊池寛『恋愛と結婚の書』(2010.10.18)
     菊池寛全集第21巻(文藝春秋,1995年7月刊)に所収。
    ・最初『婦人サロン』昭和6年3月号~5月号まで3回に渡って「実用経済学」として「婚前篇」が、また、(ラッセルに言及している)「結婚篇」を書き加えたものが、昭和9年2月、『婦人倶楽部』の別冊付録として、「実用結婚学」の名で発表されている。
    ・菊池寛(きくち・かん/本名は「きくち・ひろし、1888年~1948):小説家、劇作家、ジャーナリストで、文藝春秋社の創立者。


    (pp.57-58)・・・。 妻以上にもっと美しい女性、妻以上にもっと聡明な女性、妻以上にもっと自分を理解して呉れる女性、さう云ふ女性と、毎日接触することになると、
     「妻以外の女性を愛するな」
     と云ったところで、それは無理な註文になって来るのである。
     英国の有名な社会批評家バートランド・ラッセルは、シェリーの、

     私はあの偉大な宗門に心を牽かれたことがない
     --人は、一人の恋人を、友人と、群集の中から選べ、
     ほかの者はいかに賢く、いかに善良な人であっても、
     すべて冷やかな忘却の中に葬れと云ふあの教義、
     実にこれは現代道徳の法典、
     また、あの哀れな奴隷たちの疲れた足をひきずって、
     踏み固めた途である、
     --あの奴隷たちは
     鎖につながれた一人の友を伴ひ(それは或は嫉妬に燃えてゐる敵であるかも知れないが)
     世界の大通りを彼等の死の家へと
     わびしい長い旅を続けるのだ。

    >  と云ふ詩を引用して、
    「結婚以外の点から接近して来るすべての愛を、悉く拒絶してしまふことは、感受性や同情や、その他色々の価値ある人間的なものを削減することになって、理想主義的な考へ方から云へば、決して全人生に対してよい結果をもたらしはしない。だから、自分の配偶者が、他の異性に対して性的な情慾を感じたとしても、愚かしく騒ぎ立てるべきではない」
    と説いてゐる。そして一方では、
    「だが結婚する者は安心してよい。長い間苦労を共にして来た結婚生活と云ふものの内容には、それがどんなに楽しいものにせよ恋愛の場合には存在してゐない、豊富な霊的結合がある。だから、他に一時的な愛の現象が起きたとして、それを取立てて気にすることはないのだ」
    と云ふ意味のことを云ってゐる。

     然し、かう云ふ考へ方は、かなり極端で、日本の社会では、容易に許せないことであるし、妻の嫉妬心を抑制することは至難でゐると思ふ。だから、三角関係の危険を防ぐのには、消極的ではあっても、やはり出来るだけ、さう云ふ機会を作らないと云ふ心掛けが、肝腎なのである。

  • 小谷野敦『恋愛の昭和史』(文春文庫こ41-1/初出:『文学界』2003年2月号~2004年7月号)(2010.10.15)
    *小谷野敦(こやの・あつし/こやの・とん、1962年~ ):比較文学者、評論家.

    (p.97)・・・。つまり恋愛結婚だからといってその恋愛が永続するという保証はどこにもないのであって、もし与謝野晶子のように、恋愛の上に成り立たない結婚は不道徳であると主張するなら、信也はまさに加代と結婚すべきだということになるし、さらに他に恋愛の相手ができたらまたそちらと結婚すべきだということになってしまうのだ。どのような成り立ちをもっていようと結婚した以上は貞操義務があるというなら主張として一貫しているけれども、恋愛結婚こそが正しい結婚であるという主張と、いったん結婚したならば何があろうと貞操を守るべきであるという主張とは矛盾している。この矛盾には、たとえばバートランド・ラッセルなどは気づいていたし、気づいた者はラッセルにせよ谷崎潤一郎にせよ、離婚と結婚を繰り返した。しかし一般には、1920年代以来、日本にはこの矛盾した二つの主張が行われ、浸透し、1980年代になって疑問視されるようになるまで、支配的だったのである。・・・。

    (p.166)・・・。自分の家庭ではすっかり妻から幻滅されている、という男も多いだろう。この当時、経済的に自立している妻などというものは少ないから、慰謝料請求が妻から来るのは当然だったが、実際に戦後、経済的に自立する妻が増えると、離婚が増えた。早くからこんな結婚の実態を見て取ったのは、前にも触れたバートランド・ラッセルである。恋愛結婚でなければ、夫は妻に家政を守る以上のことは期待しない。要するに恋愛結婚というものが、高学歴階層の夫婦関係を危うくするのだ。・・・。

  • 総合研究開発機構(編)『新聞に見る社会資本整備の歴史的変遷:昭和期』(日本経済評論社,1989年1月)(2010.10.14)
    (pp.56-61)「(2) イノベーションの時代」
    (p.56)「ラジオの普及と統制」

    ・・・。交通機関のスピード化や都市の膨張など、この時代の激しい社会変化を裏で支えたのがイノベーション(技術革新)である。特に情報・メディアの発達は著しく、それがまた一層の社会の大衆化を促す結果となった。その代表がラジオであろう。
     大正14年(1925年)7月から本放送を開始したラジオ(NHK)は昭和に入って急速に普及、昭和6年(1931年)には東京、大阪などのほか福岡、京都などに小放送局ができ、第1次のラジオ網計画がほぼ完成している。・・・。
     こうしたラジオの急速な普及は、またラジオの様々な利用法を生み出した。その典型が教育への利用、つまりラジオによる学校放送の開始である。・・・。
     だが一方で、ラジオを使った思想教育もこの時期にさかんに企てられている。たとえばNHKは小学校放送とは別に昭和4年「全国の既設の専門学校から小学校に至るまでの各学校を対象に(中略)国家的意識を滋養し統一ある国民運動を起す」目的で新しい計画を打ち出している。
     この種の放送が当時の時代的雰囲気を反映して、国家的、軍事的色彩を濃厚にしていくことは見やすい事実で、国家によるラジオの統制はますます顕著・露骨になって戦争にからめとられていく。
     こうした傾向に朝日(新聞)の昭和7年(1932年)1月13日の社説は「画一の傾向を促進する現代的発明はラジオである」というバートランド・ラッセルの言葉を引いて次のように言う。(松下注:たとえば、1930年に発表したエッセイ「一本調子の現代」には次のような記述がある。「大都会ばかりでなく、大草原にある淋しい農園やロッキー山脈のなかの鉱山の宿営地では、ラジオがあらゆる最新の情報をまきちらしているので、その日の話題の半分はこの国中のどの家庭でも同じである。私が平原を横断している列車の中でのことであるが、拡声器が石鹸の広告をがなりたてているのを聞くまいと頑張っていると、年とった農夫がにこにこして私のところにやってきて、『今日は、どこに行っても、文明から逃れることはできませんよ。』と言った。」)

     「現在のやうな政治的意見に対する放送の統制ぶりでは、ラジオは(中略)まだ少しも社会公衆の利福と、社会的進歩とのために、本当に役立っていないといっても過言でないのである」
     国家や政治に利用されるラジオに対する精一杯の抵抗であろう。

  • 井上ひさし「だれのための教育か」
    * 初出:『毎日新聞』1984年1月5日付
    * 再録:『悪党と幽霊』中央公論社,1989年)
    (2010.10.12)
    *
    井上ひさし(1934~2010年4月9日):小説家、劇作家、放送作家。文化功労者、日本藝術院会員。日本文藝家協会理事、日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任。

    (pp.57-61)「だれのための教育か」
    ・・・。子どもたちは性善でも、性悪でもない。バートランド・ラッセルの言い方を拝借すると「彼等は反射作用と少しばかりの本能をもって生まれてきた」可能性そのものである。性善説の立場をとって、子どもは純である、天使であるとむやみにありがたがっている人がいるけれど、それは、子どもは生まれつき性悪なものだから鞭できたえなければいけないと主張する人と、同じぐらい偏っている。
     そしてわれわれ親たちは、自分たちの抱いている恐怖に屈服したまま、彼等にいろんなことを教える。潰れない会杜につとめなくちゃいけないよ、病気も老後も金次第でなんとかなるんだよ、大きなことを考えても個人の力じゃどうにもならないんだからね、 自分が損をしないようにする方が大事・・・。
     このように言い含められた子どもたちが、その親たちよりましな人間に育つことなどあり得るだろうか。・・・中略・・・。
    ・・・。ふたたびラッセルによれば、臆病な人間ほど残酷になり得るという。肌の色のちがう人種とうまくやっていくことができないのではないか、いまの地位を異色人種に奪われてしまいやせぬか。この恐怖を智恵と勇気とで乗り越えることのできない臆病者が、じつは異色人種を殺して回ったりするのである。この論法でゆけば、相手国にいわれのない恐怖を抱き、その恐怖を智恵と勇気とで克服できずに、むやみに核兵器をためこんで睨み合う某大国も某々大国も、じつはネクラの臆病者の集団なのである。
     正月だから、あまり憎まれ口を叩くのはよそう。・・・。

  • 三宅鴻「代名詞的表現」
    * 鈴木孝夫(編)『日本語の語彙と表現』(大修館書店,1976年12月/日本語講座・第4巻)pp.183~225.
    (2010.10.**)
    * 三上鴻
    (1929~?):(出版当時)法政大学教授(言語学、英語学専攻)。

    (pp.190-194)「二 諸種の'示し方'」
    (p.190~)・・・。さきの二宮金次郎の問題をここで解けば、固有名と代理語の間の親近性とは、つまりどちらも、大部分の語のように表示(シグニファイ)する語ではないという点が共通である。シグニファイする語というのは、'その語の内容を直接に示す'のであり、狭義のシグニフィケーションをもつ。こういう語が代表的であるから、世人は単語とはすべてシグニフィケーションをもつと思う(のみならず、表示される事物も必らず実在すると思い込む)が、それは誤りである。固有名は、 denotation しかもたず、ことばの意味(signification)としては「・・・という人・もの・所の名」であり、あとは事物知識である。ついで代理語は、ブルームフィールドの用語を少し内容を変えて用いれば、ドメーン(領域)しかもたない。関係語は relatum(関与範囲)をもつ。(いま数詞という抽象度の高い品詞は別に考える。)そこで、固有名と代理語の共通性も時に説かれ、またバートランド・ラッセルのごとき哲学者は、particulars(特定名)を egocentric particulars (自己中心的特定体)として用い、I, you, this, that, now, then などを示すとする。(なお past, present, futue も含めているが、いまは文法の論議であるから、このような三語は抽象名詞とのみしておく。)
     ラッセルは、ふつう固有名という名で呼ばれているものを認めず、ある固有名はある時ある場所に存在している「諸性質の集合体」にすぎないとする。「性質」をさすのを「名前」とし、それに対して前述の「自己中心的特定体」がある。これは「本体」(on)というものを廃止した論であるように見える。
     しかし日常言語においては、木下三郎というような固有名は、時々刻々と細胞の入れかわる諸性質の集合体とばかりは考えない。ある人は生まれてから死ぬまで、同一人としての法的人格(つまり natural person)の連続と考えられ、一個のものと考えられている。
     チョムスキーの『文法理論の諸相』の訳に、「固有名は時空の連続性という条件を満たす物をさし示す」とあるが、原文は spatiotemporal contiguity であって continuity ではない。コンティギュイティーは「隣接性」と訳し、リゼンブランス(類比性)と並んで、心理学・哲学の用語である。きのうの我ときょうの我とは全く等しくはないが、その間に時空の「隣接性」があるからこれを同一人格とし、日常的にも法的にも同一として扱われる。・・・。

  • 加藤典洋「文学における公共性と私性-柳美里裁判を手がかりに」(2010.10.8)
    * 宮本久雄,金泰昌(編)『文化と芸能から考える公共性』(東京大学出版会,2004年11月/公共哲学・第15巻)pp.211-226.
    *
    加藤典洋(かとう・のりひろ、1948- ):文芸評論家、早稲田大学教授。

    (p.212)・・・。(小説『石を泳ぐ魚』の)内容は,自伝的。若手の在日の女性劇作家梁秀香が,崩壊した家庭の身内の人間とつきあいながら,劇団内の葛藤の中で,演出家・写真家と交渉をもち,堕胎を経験する。一方,自分の作品の公演を機に韓国を訪問した際,顔に障害のある同年代の在日女性朴里花(パク・リファ)と知り合い,この女性の存在に衝撃を受けつつも,交遊を深め,世界との関係をつかみ直す,という話です。
     裁判は,この顔に障害を持つ人物,朴里花のモデルとなった女性が,作中で自分の顔の障害を侮蔑的に表現されたとして,プライヴァシーの侵害,名誉毀損,名誉感情の侵害を訴因に,損害賠償とこの作品の単行本の出版禁止を訴え出たことではじまりました。・・・中略・・・。 裁判には,原告側として,原告の父のつながりから坂本義和東大名誉教授のほか,大江健三郎,奥平康弘などの進歩的文化人が証人,意見陳述人として参加し,一方,被告側でも,高井有一,島田雅彦,福田和也,竹田青嗣などの小説家,批評家が陳述書を寄せました。その結果,ここに,「プライヴァシーと表現の自由」をめぐる,これまでとは毛色の違う対立構図が生まれています。
     これまでは、リベラルに「表現の自由」を擁護する側に立ってきたと思われる坂本義和,大江健三郎,奥平康弘といった革新派の文化人が,原告側に立ち,「表現の自由」に対する「プライヴァシーの尊重」を訴え,文学者の「表現の自由」に制約を加えるべきだという主張を行った。・・・中略・・・。
    (p.220)・・・。また,里花のおばさんの家に一緒に泊まった際,秀香は里花の愛読するバートランド・ラッセルの『幸福論』を手に取ります。見ると,アンダーラインを施し,里花の愛読しているくだりには,きわめて凡庸なラッセルの言葉が記されています。里花は、この本の第一部「不幸の原因」では随所に線を引いて,「ほんとだ」、「あはははは」などと書き込みをしているのですが,第二部の「幸福をもたらすもの」は,読んだ形跡すらない。ここにあるのも辛辣きわまりない里花のあり方への(作家梁秀香の)冷徹な目です。たぶん,こうした下りを読んだときに,このモデル女性は,自分の困難克服の物語が温室外の他者の目に,かくもひ弱でぺらぺらな紙細工ぶりで描かれているのを見て,衝撃を受けたでしょう。そして,何より,「そうか,あなたはこんなつもりで私と付き合っていたのか。私のこういう所をこんな意地悪な目で見ていたのか」と思っただろうと思います。・・・。

  • ジョナサン・ローチ(著),飯坂良明(訳)『表現の自由を脅かすもの』(角川書店,1996年9月/角川選書n.275)(2010.10.03)
    * ジョナサン・ローチ
    (Jonathan Rauch, 1960~ ):ジャーナリスト,著作家。

    (p.95)
    ・・・。自由主義が文明に対して果たした大きな貢献は、紛争の処理方法にある。他のいかなる体制も、人々の様々な大集団が、構成員の相違点を抑圧することなく、さりとてまた紛争を手に負えなくしてしまうこともなく、うまく社会を運営していくということをなしえなかった。かつてバートランド・ラッセルは、「権威なしの秩序」を政治的自由主義および科学双方のモットーとなしうるだろうと述べた。・・・。

    (p.187~)
    ・・・。そして、それこそ非自由主義的である。政治団体が、我々にとって知識であるものとないもの、あるいはどの考えが採用されてしかるべきであるかに関して発言権を持ちうるという原則が確立されるようなことになったら、それこそ警戒を厳にして油断してはならない。意見のある奴はどいつもこいつも忙しく立ち回るであろう。同一時間を与える法律を作れと議会に対してロビー活動をするもの、生物学の本に'祈祷'を癌に対する代替療法として記述せよと要求するもの、占星術の学部を作れと大学にピケを張るもの、反駁のスペースを与えよと学術雑誌を告訴するもの、脚注の引用に関しては比例代表制的考慮をしろとデモをするもの等々。そうなると我々は、知識が投票や煽動で作られていくような世界に住むことになろう。そのとき我々は本当に、バートランド・ラッセルが描いたような悪夢の中に生きることになろう。そこでは、「自分が'落とし卵'だと信じる狂人は、彼が少数者であるというただそれだけの理由で有罪判決を受けるであろう。」その点、科学を信じる者としての我々は、多数を説得して自分の側に人も集めることもできよう。ところが、占星術のような問題について、我々にそんなことができるか全くわからない。・・・。

  • 加藤周一『読書術』(岩波書店,2000年11月/初版は1962年刊 )(2010.10.3)

    (pp.123~146)「外国語の本を読む「解読術」」
    (p.133) ・・・。しかし、急を要し、翻訳がとうてい間に合わないジャーナリズムの情報や記事、社説や論文のほかにも、日本語ではほとんど読むことのできないものがたくさんあります。その一つは、だれにも必要なものではないかもしれませんが、先にも触れた哲学書でしょう。そもそも少し英語ができれば、バートランド・ラッセル(1872~1970)を英語で読むほうが、日本人の私たちでさえも、西田幾多郎を日本語で読むよりもはるかに容易に理解することができるのではないかと思われます。また、ハイデッガー(ドイツの哲学者、1889~1976)のように、ほとんど翻訳が不可能なものもあります。もっとも、これはよほど特殊な場合であって、そういう西洋の哲学書をぜひ読みたいと思う人は、どうせ例外的な小数にすぎないでしょう。しかし、相手が詩人ということになれば、興味を持っている人の数はもっと多いに違いがありません。現に東京には「ボードレーヌ」「ランボウ」「リルケ」などという喫茶店さえもあるのです。・・・。

  • 加藤周一『真面目な冗談』(平凡社,1980年6月)(2010.09.26)
    *
    加藤周一(1919年-2008年12月5日):日本を代表する知識人の一人。

    (pp.273-274) 「当世文士心得」
    (p.274) 第4条 『不思議の国のアリス』を読むべし。
     『不思議の国のアリス』を書いた人(ルイス・キャロル)の読んだ本を読めば、なおよろし。すなわち数学。これこそ経験に係わらぬ唯一の学也。詳しくは英国文豪ラッセル卿の所論においてみるべし。(参考:「対談:アリスの不思議な世界」)

  • 石堂清倫『続・異端の昭和史』(勁草書房,1990年10月)(2010.09.26)
    * 石堂清倫
    (いしどう・きよもと、1904~2001)。東京帝国大学文学部卒。社会思想研究家、社会運動家。『レーニン全集』の翻訳者。

    (pp.291-345) 「第9章 社会主義はいま」
    (p.295~ )・・・。もう一つはベトナム反戦運動のほんの外側にいただけの私にバートランド・ラッセルの言葉が一つの啓示となった。彼は、平和を守るためとあれば、社会主義者は場合によって自已の階級的要求を後退させなければならないという意味のことを主張した。平和を守ることがことが第一義の任務であるとすれば、体制を守ることは第二義とすべき場合がある。もちろん、体制を守ることが平和にとって大切な場合もありうる。しかし、全人類的なものと階級的なものとが矛盾を来すときは、前者をとらなければならない。
     ・・・。
     私たち何人かのものは「西武平和の会」という小集団をつくっていた。共産党が指導する平和委員会は私たちを拒否したから、独立して細々と活動していたが、あるときラッセル宣言を討議して、一致した意見をまとめてラッセルに支持と連帯の手紙を送った。ラッセルはよろこんで返事をくれた。それはベトナム・ティーチ・インの前後であったかと思う。あの徹夜集会で元軍人の佐藤賢了が、ラッセルをもちだして、共産党は、戦争の危機が迫ったとき、階級的要求を一歩退ける用意があるかと質問した。答弁にたった上田耕一郎は、それは困難な問題で・・・と明答を避けた。佐藤は戦前の軍のなかでも責任ある人物であり、その質問にも底意地が感じられないでもなかった。しかし集ってきた何百人の人にはそんな魂胆はないのである。上田の立場には徴妙なものがあるにせよ、はっきりと答えることを人びとは期待したように思う。上田の論理には党の家庭事情があったかもしれないが、残念に感じたのは私一人ではなかった。

  • 『日本資本主義の岐路』(社会評論社,2010年7月/伊藤誠著作集第6巻)(2010.09.14)
    * 伊藤誠
    (1936~ ):東京大学名誉教授,日本学士院会員。

    「捕論1 技術時代の労働の変容」
    (pp.314-315) 「1 'ダモクレスの剣'になった科学技術」
     ・・・。小学生の頃は戦争で苦労して、疎開していました。その頃はみなお国に役立つ少年になるのだと教育を受けていて、私もそう信じ、たまたま父や兄も工学系でしたので、私も将来は科学技術の仕事をして国や社会に役立てるものと思っていたのです。・・・。
     新制中学、高校にかけて、私よりもいろいろな面で先進的な友人も多く、とくに一人の友人などは中学の頃から、マルクス、エンゲルス、トロツキーなどの本をもっていて、これを読めと貸してくれた記憶があります。しかし、私自身は社会主義やマルクス主義にたいしては、めんどくさい議論だなとむしろ敬して遠ざけ、遊んでいた。

     そのまま、大学受験が近づいて、英語の勉強のつもりでたまたま読んだのが、バートランド・ラッセルの『原子力時代に生きて』という、1950年代にBBC放送で講演したものをまとめたパンフレットだった。それは、わかりやすいきれいな英語で書かれていましたが、ラッセルによれば、技術というのは、そもそも人間の社会を豊かにし、人類をしあわせにするという目的で開発されて、科学技術にたずさわる人びともいちようにそれを信じてやってきた。ところが、原子力が原子力爆弾に使われ、その原爆の脅威が冷戦構造にむすびついて世界の人びとの心のなかに、ひじょうに深い影をおとしている。相互不信が国際的に深まって、いつ戦争がふたたびはじまるかわからない状況が生まれている。
     そのようななかで、科学技術は、もはや一方的に人間の幸福や福祉の増進だけにつかわれるのではなく、場合によっては人類が絶滅する可能性さえもたらしている。人類にとって、いわばダモクレスの剣のような役割に転化してしまった。これをいったいどうしたらよいのか。とラッセルは問いかけていたわけです。
     それを読んで、私はほんとうにびっくりして、工学や科学技術の勉強をして、はたして人間社会の福祉のためにかならず役立つのかということを、考えなおさざるをえなくなった。バートランド・ラッセルはイギリスの数学者であり、哲学者ですが、彼自身も十分な答えを出してはいない。しかし、その答えが自然科学や工学の領域では与えられないだろうということは、私にもはっきりとわかったような気がしたのです。
     それなら、社会科学をやれば、そういう問題について多少答えることができるのではないかと考え、高校三年のころ、志望専攻を変えて社会科学を学ぶことにした
     少年期の戦争の問題と、そのラッセルの問題提起とは、その後も私の頭の中に強く残りつづけています。・・・。
  • リチャード・E・ニスベット(著),村本由紀子(訳)『木を見る西洋人、森を見る東洋人-思考の違いはいかに生まれるか』(ダイヤモンド社,2004年6月)
    *
    リチャード・E・ニスベット(Richard E. Nisbett、19??~ ):1971-1976までミシガン大学心理学准教授、1976年から同大学教授。社会心理学専攻。
    「第8章 思考の本質が世界共通でないとしたら」
    (pp.226-227) 「西洋の思考の習慣」
     ・・・。

  •  では、東洋の思考様式と対比することで明らかになる西洋の思考の習慣にはどのようなものがあるだろうか。そのいくつかに焦点を当ててみることにしよう。
     形式主義…西洋的思考の形式的で論理的なアプローチにはずば抜けた力がある。科学や数学は明らかにその力に頼っている。ただし、どの程度頼っているかについては議論のあるところである。フランシス・べーコンは、「論理は役に立たない。科学とは創造である」と記した。バートランド・ラッセルは、12世紀の修道士たちの三段論法は彼ら自身と同じくらい不毛なものだったという見解を表明した。ラッセルの見解には同意したい気もするが、これはあらゆる人間の問題が'論理'によって解決できると信じていた人間から発せられた言葉としては不思議に思える。しかしラッセルは、「現実世界の問題」に当てはめられるのは'形式論理学'だけだと信じていた。私の見たところ、この考えが政治や社会問題に対する彼の分析を単純なものにしてしまった。ラッセルの一番の問題は、形式と内容を分離することに固執したがゆえに、形式に関する論理原則のみを用いて推論を行おうとした点にあった。(松下注:ラッセルに関するところ以外は大変興味深く読むことができた。しかし、ラッセルへの短い言及は誤解に基づいているように思われた。ラッセルの論理学や「理論」哲学と社会思想との関係については、ラッセル自身、「論理的」関係はまったくないと明言していることに注意が必要だろう。巻末の引用文献や参考文献(註のところ)にはラッセルの著書は1冊もあげられておらず,ラッセルの著書は少ししか読んでいないのではないかと疑われる。)これは西洋の悪い癖である。哲学者の劉述先が述べているように、「中国人はあまりに合理的すぎるために、形式を内容から切り離さない」
     ラッセルの二つ目の問題は、ほとんどの西洋人と同様、彼もまた弁証法の「推論スキーマ」と呼ぶべきものを著しく欠いていたことだった。・・・。
     
    ★ 参考★
    ・小野修「ラッセルにおける科学と道徳」(二人のラッセル)
    ・『ラッセ自伝』から:2系統の著作

  • 陳立新『梁啓超とジャーナリズム』(芙蓉書房出版,2009年6月)
    * 陳立新
    (ちん・りっしん Chen Lixin、1966~ ):東京経済大学博士課程を修了し、博士号取得。現在、上海杉達大学人文学院副院長、助教授。本書は博士論文を出版したもの。
    * 梁啓超(ちょう・けいちょう、1873~1929):ジャーナリスト。日本に14年間亡命。
    (pp.263-283)「第三章 『改造』における文化主義への回帰」)
    注:ここでは、日本の『改造』ではなく、中国の『改造』のこと。


    (pp.265-266) 第一節 講学社と新文化運動
     1920年4月、梁啓超は蒋百里らと共学社を組織した。その宗旨は、「培養新人材、宣伝新文化、開拓新政治」であった。主な業務としては、商務印書館と提携して、各書を編集翻訳することである。他に事業費用の使い道としては、雑誌の出版、書籍の購入、同人留学費用の補助、名著懸賞費などである。7月30日にイギリスの「新実在論」哲学者ラッセル(Bertrand Russell, 1872-1970、中国語で「羅素」と呼ぶ)を招聘することを目論んだ。9月5日、梁は新たに永久の団体「講学社」の設立を構想した。そのとき、すでにラッセルが10月2日に上海に到着する予定の船便が確認された。
     講学社とは、学術講演会の略称であって、北京大学、呉淞中国公学、共学社、新学社との四者によって組織した社会団体である。 毎年一名の国際的著名な学者を中国に招く。ラッセルを招聰する前、北京大学、尚志学会と江蘇教育会が日本で講演中の米国の実用主義(プラグマティズム)哲学者デューイを招いた。デューイは1919年4旦20日に上海に着き、5月29日に入京、1921年7月にラッセルと同時に中国を離れる梁は最初にフランスの哲学者ベルグソン(Henri Bergson, 1859-1941、中国語では「柏格森」と呼ばれる)を招待するつもりだった。一度商務印書館の頭取張元済と協議したが、果たせなかった。梁はパリに滞在したときに、楊新六の通訳で、ベルグソンと会見したことがある。ベルグソンは、彼の「生の哲学に深い理解を示した梁の研究を褒めた。梁は滞在中ベルグソンに哲学の講義をしてもらうつもりだった。
     1920年10月12日、ラッセルは仏国汽船ボルトス号にて上海に到着した。13日、江蘇教育会外、各団体は同氏の歓迎会を開いた。上海に居る間、「中國宜保存故有之國粋」、「社會改造原理」(10月15日上海中国公学にて)、「教育之効能」(10月16日江蘇省教育会場にて)をテーマにした講演を行なった。通訳はハーバード大学哲学博士号を取った超元任(1892~1982、胡適と同期に米国へ留学)であった。その間、胡適は進歩党に利用されないように注意したほうがいいと超にアドバイスしたことがある。すでに党派から離れた梁啓超に対してそういう嫌疑を人に持たせる胡適の動機としては、不思議なところである。
     1920年11月5日、梁啓超はラッセルと会見した。絶対平和主義者のラッセルはかつて第一次世界大戦に反対して監禁されたことがある。彼が熱心に唱えている社会改良主義(ギルド社会主義)は梁啓超らの温和主義と共通する面がある。梁啓超にとって、最も重要なのは、5月にトロツキーやレーニンなどとの会見を果たしたばかりのラッセルがソビエト政権の誕生に対して失望感を抱いたことであった。ラッセルは当然各方面に配慮して言葉を選んで巡回講演に臨んだ。
     北京においてのラッセルの演説は5つの系列に分けられる。つまり、哲学問題、数学ロジック、物的分析、心的分析、社会構造論などであった。聴衆の中に毛沢東、周恩来の姿があった。その後、北京大学では「羅素研究会」を組織し、講学社の蒋百里が『羅素月刊』(編集長:瞿世英、商務印書館出版)を創刊した。商務印書館の『共学社叢書』には「羅素叢書」5種類が出版されている。『改造』誌も第三巻第二号(1920年15日(ママ))「羅素介紹」(程鑄新)、第三巻第七号(1921年3月15日)「基爾特(ギルド)社会主義」六幾)、第三巻第十号(1921年6月15日)「羅素遊俄記書後」(徐志摩)などを掲載した。しかし、中国の知識層にとって、ラッセル哲学の中核である数学ロジックは非常に難解なものであった。それよりも、むしろ彼の社会政治思想が関心を呼んだようだ。
     ラッセルは「永久性のものを期待することは誤りであり、暫時の存在こそ最も真に迫るものである」とこれまでの哲学が時間と場を軽視した欠如を指摘する。ラッセルはさらに哲学の方法論に立脚して、唯心論を主観唯心論、論理唯心論、神秘唯心論の三種類に分けた。また、それらの方法論の優劣を逐一批評した。ことに、神秘唯心論を代表するベルグソンの「直覚(Intuition)説」を批判した。とはいえ、ベルグソンの所謂「生の哲学」の方法としての直覚は、よい方法の一つであるとラッセルは指摘する。この種の方法は生活と密接に関係しているからだ。しかし、知識と比べ、直覚は本能であるといえよう。生存競争においては、本能が頼りになる場合が多いが、哲学は生活から遠ざかっているものであるゆえに、直覚は哲学にとって頼りになる方法ではない、と主張する。この観点は当然歴史唯物論のマルクス主義者及び科学主義者に歓迎されるが、東方文化主義論にとっては、相容れないものであった。新鋭儒学論哲学者梁漱溟は、直ちに「對於羅素的不満」を発表した。彼の『東西文化及其哲学』が依拠した哲学論理はベルグソンの直覚論であった。ベルグソンの直覚論を批判することは、梁漱溟本人を批判するのと同然である。

  • 中野好夫『中野好夫集IV:逆臣は歴史によみがえる』(筑摩書房,1984年1月)(2010.8.29)
    *
    中野好夫(なかの・よしお、1903-1985):英文学者、評論家。

    (pp.289-294)「誰のために書いているのか」(初出:『学鐙』1972年12月号)
    (pp.289-290) バートランド・ラッセルの、もう晩年に近いころのエッセイに、「わが文章心得」(How I Write と題した短い一編がある。(エッセイ集『回想的交友録、その他』(1956年刊)/松下注:ラッセル『自伝的回想』)に収められている。題名の通り、彼自身の若いころからの文章修業の話や、また文体上の影響を受けた学者、作家たちのことを、ごく気やすく回想風に述べたものだが、その中に、次のような愉快な挿話が出る。
     まず社会学の著作になら現われそうな文章の一例として、以下のような一文を挙げるのである。とりあえずまず邦訳してみよう。
     生まれつきなり、あるいは環境のせいで、なにか偶然ともいうべき幸運な事情が集中したおかげで、現実例としてはきわめて稀な少数者だけにしか満たされぬようなある種の先行約諸条件が、たまたまうまく結び含い、多くの因子が社会的に有利なように基準から逸脱しているという個人でも創り出さないかぎり、人間というものはすべて、望ましからぬ行動様式から完全に免れうるものはいない。
     これがとにかく一文章なのである。実はこの試訳をやってみるのに、わたしは小半時ばかりも脳味噌を搾り上げたが、もちろん自信はないし、おそらくわかっていただける読者はいまいと思う。だから、やはり原文を引いておく。志ある方はよりよい名訳を試みていただきたい。(ただし、これを二つ、三つの文に解きほぐすのでは問題にならぬ。ぜひとも原文同様、一文章で願いたいのだ。)  
    Human beings are completely exempt from undesirable behaviour-patterns only when certain prerequisites, not satisfied except in a small percentage of actual cases, have, through some fortuitous concourse of favourable circumstances, whether congenital or environmental, chanced to combine in producing an individual in whom many factors deviate from the norm in a socially advantageous manner.
     さて、以下がこの一文に対するラッセルの批評だが、自分ならこの文章をこう書くというのだ。
    「人間というのはすべて、いや、少なくともほとんどすべては、悪人である。そうでない人間というのは、その生まれと育ちにおいて、よほど稀な幸運に恵まれたものにちがいない」
    (All men are scoundrels, or at any rate almost all. The men who are not must have had unusual luck, both in their birth and in their upbringing. と。)
     そしていうのだ。この方がはるかに短くて、わかりやすい。しかも、まさに同じことをいっているはず。ただし(とラッセルは付け加える)、もしこんな後者のような文章を書いていれば、おそらくその教授は大学をクビになるのではないか、と。(なおついでにいえば、この文章、ラッセルは「社会学の著作なら現れそうだ」と書いたり、「果たしてうまく英語になるだろうか」などと空トボケているが、案外現実に彼がぶつかった誰か実際の学者の文章だったのではなかろうか。)

  • 野口悠紀雄『「超」整理日誌-地動説を疑う』(ダイヤモンド社,2004年9月)* 野口悠紀雄(のぐち・ゆきお、1940.12~):元官僚、経済学者。早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授、一橋大学名誉教授など。

    (pp.22-23)「部分の観察で「敵・味方」と認識する誤り」
    (p.22)・・・。集団の場合には構成員を悉皆調査するわけにはゆかないから、ごく少数の事例で判断する。それが全体に対する評価となる。つまり、部分から全体を評価するという誤りを犯すことになる。たとえば、役所の窓口の応対に腹を立てたのがきっかけで、その役所が、あるいは官庁全体が、「向こう側」に行ってしまう。
     人間の判断能力はまことに低い。多次元の要素を考慮したうえでの是々非々の判断は難しい。一次元的な尺度を用い、しかも多段階の評価でなく、単純な二分法しかしない。
     多くの場合、「こちら・向こう」というより、「好き・嫌い」の区別だ。さらに刺激的にいえば、「敵・味方」である。
     こうした単純極まりない二元論的世界把握は、哲学者バートランド・ラッセルの指摘を待つまでもなく、未開的・原始的なものだ。理性的な判断というよりは、動物的な感覚である。・・・。

  • 樺山紘一(他・編)『生きること/死ぬこと』(岩波書店,2001年5月/20世紀の定義第7巻)
    (pp.67~96)「近代兵器の変遷と戦争の性質と変容」

    (p.83) 原爆の爆発力を1000倍も上回る水爆の登場を目のあたりにして英国の哲学者バートランド・ラッセル卿が物理学者のアルバート・アインシュタイン、湯川秀樹ら10人の著名科学者(うち7人がノーベル賞受賞者)とともに1955年7月9日にロンドンで発表した宣言の一節で「全体的破滅を避けるという目標が他のあらゆる目標に優位せねばならない」としたこの宣言はアインシュタインの死の直後に発表され直ちに米英ソ、フランス、中国、カナダの首脳に送られて世界的に大きな反響を呼んだ。死の科学の容赦のない発達が人類の存続に結びつけられて警告されたのはたぶんこれが初めてで、この宣言の背後には科学の成果が科学者の意思に反して冷戦の推進力になってきたことに対する苦い思いが秘められていた。「全体的破滅を避ける」という目標は地球の気侯の改変で21世紀の後半に予想される緩慢だが深刻な危機にも当てはまる。・・・。中略・・・。
    (p,84) 宣言の考え方は宣言の言葉が示しているようにごく明快で、バートランド・ラッセルは著書の『常識と核戦争』(ロンドン、1959年)のなかで「必要なのはあれやこれやのイズム(主義)にではなく常識に訴えることだ」と述べている。この宣言は「科学者の社会的責任」を強調したものでもある。歴史的にみて科学の重要性は最初は砲術や築城など戦争に関連して認められ、その後も戦争での科学者の役割が絶えず高まり、原水爆の開発でたぶん最高潮に達した。バートランド・ラッセルによると科学の技術化とともに巨大組織や力(権力)への衝動が生まれ、「(それが)かつて見られなかったほどのひろがりをもつにいたった(中略)そこから発想の源を得た諸哲学は、権力哲学なのであり(中略)目的はもはや考慮の外にあり、過程の巧妙さだけが評価されるのである。これもまた狂気の一形態であり、現代ではもっとも危険な形態」になった(『西洋哲学史・第2巻』市井三郎訳、みすず書房、1970年、p.488)。この宣言の呼びかけに応えて1957年にはカナダ、ノバスコシアのパグウォッシュ村で科学と国際問題に関する会議(パグウォッシュ会議)がスタートし、この一連の会議は東西間の非公式のコミュニケーションの場として一定の役割を果たすことになるが、その後の地球環境問題を含めて現代の狂気を解毒するような新しいモラルはまだ十分に育ったとはいえない。//

  • 五百旗頭真(他・編)『菅直人-市民運動から政治闘争へ』(朝日新聞出版,2008年6月/90年代の証言シリーズ)(2010.8.24)
    (pp.11-16)学生運動にかかわった東工大時代」

    (p.14~)--秩序派ってどういうグループですか?
    :ストライキなんかやめて、ちゃんと勉強しましょう」というグループですね。東大だと自民党の町村信孝さんがやっていたようなグループですよ。一方、私がつくった改革派グループはゲバ棒は持たないが大学の改革はやるべきだという方針で、一時期、学生大会でわれわれの提案が賛成多数で採択され主導権をとってしまった。それで卒業しそこなったというか、しづらくなって、5年生をやったわけです。

    --学生時代は、将来、どういう道に進もうと思っていたんですか。
    :当時は、アインシュタインとか湯川秀樹さんとかバートランド・ラッセルらがやっていた核兵器廃絶や科学技術の平和利用を推進する「パグウォシュ会議」という運動(ラッセル・アインシュタイン宣言)に強い印象を受けていました。東工大は技術系の学校でしたから、私もそういう技術者の道に進もうと思ってました。ただ技術の発展が社会に与える影響は必ずしもプラスだけではないという問題意識がありました。

    --菅さんは学生時代にカウンター・カルチャーの流れの中にいたわけですね。戦後秩序主義とか近代文明礼賛に対する批判が1968年ころ世界的に起こりました。アメリカの場合はそれが反ベトナム戦争の運動という形で出たわけです。
    :全体から言うとそうでしょうね。私の場合、技術の発展と人間らしい生き方は必ずしも予定調和的ではないんじゃあないかと考えていた。大きく言えば、最初から近代文明に対する疑問みたいなものを持っていたんですね。

  • レナード・ムロディナウ(著),田中光彦(訳)『たまたま-日常に潜む「偶然」を科学する』(ダイヤモンド社,2009年9月)(2010.8.22)
    * レナード・ムロディナウ
    (Leonard Mlodinow, 1954~ ):カリフォルニア工科大学教授。

    (pp.9-12) 不確かを前に人間が使う「二つの戦略」

    (pp.11-12) 。'不確か'を前にして、「賢い評価と選択」をすることは至難の業(わざ)だ。しかしすべての業がそうであるように、それは経験とともに改善される可能性がある。私は以後の頁で、身近な世界における偶然の役割を、そしてその役割を理解するために何世紀にもわたって練り上げられてきた概念を、そしてわれわれをしばしば誤らせる要素を吟味していこうと思う。
     かってイギリスの哲学者で数学者のバートランド・ラッセルは次のように書いた。
    われわれはみな「愚直なリアリズム」から、つまり、ものごとは見えている通りという信条から出発する。われわれは草は緑で、石は硬く、雪は冷たいと考えている。しかし物理学がわれわれに断言していることは、草の緑、石の硬さ、雪の冷たさは、われわれが自分自身の経験の中で知る草の緑、石の硬さ、雪の冷たさではなく、それらとはひどく異なるものであるということだ。(Bertrand Russell, An Inquiry into Meaning and Truth, 1940/邦訳書:『意味と真偽性-言語哲学的研究』(文化評論出版,1973年)
     以下では'ランダムネス'という接眼鏡を通してこの世を覗き、日常の出来事の多くがこれまた少しも見えている通りではなく、それらとはひどく異なるものであることを見ていこう。

  • デニス・ブライアン(著),鈴木主税(訳)『アインシュタイン-天才が歩んだ愛すべき人生』(三田出版会,1998年12月)(2010.8.18 掲載)
    * デニス・ブライア
    (Dennis Brian, 1923~?):ノン・フィクション・ライター。
    (pp.586-600)「第39章:ローゼンバーグ夫妻の減刑を嘆願」
    (p.589) ・・・。二人が会った少しあとに、アインシュタインは英語で論文を書こうとした。カミンズはそのときのことを覚えている。「彼は私の夫に電話で頼んだ。『サックス、手伝ってくれないか? 構文がまったくひどいんだ』。そこで、サックスが行って文章を直した。
     「夫は当時、ランダム・ハウスの編集長で、ニューヨークから帰宅する列車をアインシュタインの家の近くにある駅で降りて、彼が読みたい本を届けていた。そのころはちょうどバートランド・ラッセルが執筆中で、アインシュタインは彼の作品が読みたいと言っていた。(松下注:この第39章はアインシュタイン73歳(1953年)のことを扱っているので、アインシュタインが読みたいといった作品は、ラッセルの小説、Satan in the Suburbs, 1953 あるいは Nightmares of Eminent Persons, 1954 の可能性がある。)少しだけ寄るつもりでも、たいていは長くなった。二人は小学生のように、たがいの家へ歩いて行き来していた。・・・。

    (pp.594-595)・・・。アインシュタインはジョージア州オールバニーで、一人の記者にローゼンバーグ夫妻にたいする見解を説明したが、記者は彼の態度が不思議だった。アインシュタインは次のように語った。「私が判断するかぎり、ローゼンバーグ事件で決定的な証拠は何もなかった。もし決定的な証拠が提出されたとしても、法の趣旨から見て死刑は正しくない。この二人の人物は、政治的な感情の犠牲にされた。」(松下注:ローゼンバーグ夫妻は1951年4月5日に死刑判決を受け、1953年6月19日死刑が執行された。)

     また、バートランド・ラッセルには、アメリカのおおよその状況を説明したうえで、若い学生も含めてすべての知識人が政治家におびえていると話した。ロシアとアメリカの共産主義者はアメリカの脅威であると、政治家が人びとに信じこませたというのだ。そしてラッセルに、「政治家がはまりこんだ、こうした不条理に異議を唱えられる」有名人はあなたしかいないと訴えた。「話をおおげさにすればするほど、政治家に誤った考えを信じこまされた国民が、彼らを再選する確率はますます高くなる。アイゼンハワー[大統領]がローゼンバーグ夫妻を減刑しなかった理由もこれで説明できる。彼は、二人の処刑が海外におけるアメリカの名前をどれほど傷つけるか、よく知っていたにもかかわらずだ。」

  • 池澤夏樹『叡智の断片』(集英社,2007年12月)
    * 池澤夏樹
    (いけざわ・なつき, 1945~ ):作家。

    (pp.47-52)「愛国心について」

    (p.50) なぜか愛国心には命がかかる。そこがばかばかしい。バートランド・ラッセルは「愛国心とは、些細な理由のために喜んで死にたがることだ」という。幸い、竹島・独島ではまだ誰も死んでいないけれど、日韓関係全体から見てあの小さな岩礁が些細なことであるのはまちがいない。
     国というと熱くなる人がいる。政治家はそれを利用する。唯一の祖国なのだから愛せと叫ぶ。民族や国籍は選択の余地がないのだから愛さなければ損だ、という奇妙な論法。・・・。

  • 小野修『政治における理性と情念』(世界思想社,1982年1月)
    *
    小野修(おの・おさむ、1931~ ):大阪大学で経済学、同志社大学大学院で政治学を学んだあと、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに留学。現在、同志社大学名誉教授。
    (pp.69-70)「二人のラッセル」
     論理分析の哲学者が、政治に論及するとき、必ずしもつねに、ウェルドン(Thomas Dewar Weldon, 1896-1958)のような態度をとるとは限らない。たとえば、バートランド・ラッセルの場合、彼が、自ら生み出した論理分析の方法を社会理論の中で、ほとんど用いようとしないために、あたかも冷静な論理学者であるラッセルと情熱的な改革家である社会改革家であるラッセルとの「二人のラッセル」が無関係に存在するかのように言われている。このように一個の人格の中にほとんど相容れないのではないかと思われるほどの強烈さで、科学的気質と宗教的気質が併存し、きわめて高い次元において、それらが結び合わされているのを見ることができるのはごくまれなことである。しかし、ラッセルのような高さを示すことはできなくとも、われわれは多くの人々において、そうした混合的性格(注:「情熱の懐疑家」)を見ることができる。それは決して珍しいことではなく、むしろ、それが一般に'常識人'と言われているタイプなのである。ラッセルの場合、科学的と宗教的な志向が並みはずれた才能と努力を通じて極端に発揮されたと見るべきであって、決して「二人のラッセル」がいるのではなく、われわれが見るのは「ラッセルの二面」なのである。あくまで一人の情熱的な学者の多領域での活躍がわれわれの眼を眩ませるのであって、ラッセルはヤヌス(ローマ神話の門の守護神で、前後を見る二つの顔をもつ。)でもなければ二重人格者でもない。
     '当為'については何ひとつ言うまいと決意するとき、あるいは決意しつづけるとき、それから生まれ出る哲学者のタイプは一時期のウィットゲンシュタインのようなものである。検証可能なものは科学に委ね、自分はただ一途に、言語と論理そのものの分析に徹しようとするとき、彼らの眼に映ずるものは単に'生命のない血の気を失った世界'にほかならない。彼らが、早晩そのような死んだ世界から、生き生きとした現実世界へ参与しようといつか引きもどされるのは、人間としてごく自然なことである。

  • 米盛裕二『アブダクション-仮説と発見の論理』(勁草書房,2007年)
    * 米盛裕二
    」(よねもり・ゆうじ、1932~):オハイオ州立大学博士課程修了、PH.D。琉球大学名誉教授。

    (pp.129-135)「仮説と帰納」
    (p.129~)
    「帰納の論理学」を創設し、'帰納法'を科学の方法と考える帰納主義(inductivism)の方法論的思想を確立したのは F・べーコン(Francis Bacon, 1561-1626)ですが、そのべーコンの帰納法の考え方について、バートランド・ラッセルはこう批判しています。
    「べーコンの帰納法は'仮説'というものに十分な強調をおいていないことで欠陥のあるものになっている。かれは秩序正しくデータを整理するだけで正しい仮説は明らかになると考えていたようであるが、しかしこのようなことは稀である。一般には、仮説を形成することが科学的な仕事のなかでもっとも難しいのであり、'偉大な能力'が不可欠となる部分である。これまでのところ、仮説を規則にしたがって発明することを可能にするような方法は見出されていない。普通は、'何らかの仮説'が諸事実を集める際に必要な予備条件となっている。なぜなら諸事実を選択するには関連性のあるものを決定する何らかの方法がなくてはならないからである。この種の何ものかがなくては、諸事実をただ'寄せ集めて'みてもどうしてよいかわからないのである。」
     ここにラッセルがべーコンの帰納法の欠陥として指摘していることは、べーコンの場合に限らず、かれ以降の、つまり帰納法を科学的探究の方法と考える帰納主義の方法論的思想について一般的にいえるでしょう。このラッセルのべーコン批判の要点は、すなわち、科学的方法には帰納法のほかに仮説の提案が必要であり、仮説の提案なしには帰納法を正しく用いることはできない、ということです。帰納主義の所見では、帰納法が科学的諸法則や理論の発見および正当化の両方にかかわる方法であり、帰納的推論が経験的実在の世界に関する知識を拡張するための唯一の拡張的推論と考えられています。・・・。
     ・・・。ラッセルがいうように、仮説は観察データから帰納的に導かれるというものではなく、むしろ逆に、観察データは仮説にもとづいて集められなくてはならないのであり、実際、あらかじめ何らかの考え(仮説)がなければ、どういう事実を集めたらよいか、関連性のある事実をどのようにして選んだらよいか、あるいはそれらの事実をどのように相互に関連づけたらよいのか、わからないでしょう。まえもって何の考えも仮説もなく、ただ手あたりしだいに事実を寄せ集めてもどうしてよいかわからないのであり、そのような無方針の帰納法は役に立たないでしょう。・・・

    (p.134~)
     ふたたびまえに戻って、ちなみに、「仮説の形成」ということに関してラッセル自身はどのように考えているのかということについて付言しておきたい。ラッセルはべーコンの帰納法の欠陥は仮説というものに十分強調をおいていないところにあると批判し、仮説を形成することは科学的な仕事のなかでもっとも重要な部分である、と論じています。しかしラッセルは仮説の形成が科学的活動の際立った特質であることは認めますが、かれは仮説の形成という問題をとくに科学方法論上の、あるいは論理学の問題として重視しているわけではありません。ラッセルによると、仮説の発案は論理的な推論によるものではなく、仮説を発明するための論理的規則というものは存在しないのであり、したがって仮説の形成は論理分析が不可能であり、それは論理学の域を超えている、というのです。ラッセルは別のところで、仮説を発案する働きを「超論理的な提起」と称し、「科学的な推論は、帰納とは異なる一種の超論理的な提起を要するというのが結論である」と述べています。ですから、ラッセルが仮説を形成することが科学的な仕事のなかでもっとも難しく、「偉大な能力が不可欠となる部分」であるという場合、かれのいう「偉大な能力」とは超論理的な能力を意味しています。・・・。

    (pp.231-255)「常識知について」
    (p.234~)
     一方、哲学においても、たとえばB.ラッセル(今世紀最大の論理学者の一人で、科学的知識の論理分析において中心的な役割を果したイギリスの哲学者)の見解にみられるように、特に相対性理論や量子論による知的革命を強調する知識論者たちの間では、やはり「常識と科学」は相容れないものとみなされ、科学的知識が実在についての真の知識であるとしたら、常識は素朴実在観または謬見であり、否定されなくてはならない、と考えられてきた。ラッセルは言う、
    「われわれはみんな、<素朴実在観>--すなわち、事物はそれらが見える通りのものであるという教義--から出発する。われわれは、草は緑で、石は堅く、そして雪は冷たいと思う。しかし物理学は、草の緑とか石の堅さとか雪の冷たさは、実は、われわれがわれわれ自身の経験において知るような緑色、堅さ、冷たさではなく、それとは非常に違うものである、と教える」。つまり、物理学は常識の素朴実在観から出発するが、しかし'物理学'は、もし真ならば、素朴実在観が偽であることを教える。「素朴実在観は物理学に到る。そこで物理学は、もし真ならば、素朴実在観が偽であることを明らかにする。ゆえに素朴実在観は、もし真ならば、偽である。よって、それは偽である」
     さらにラッセルに言わせると、常識の素朴実在観は偽であるだけではなく、それは「甚だしい迷妄」である。「常識は、それがテーブルを見ているとき、本当にテーブルを見ていると思っている。これは甚だしい迷妄である」。・・・。

    (p.251) われわれがこの章の冒頭に引用したブリッジマンやラッセルの常識拒否の見方も、知覚的対象用語法と超越的対象用語法の混同によるものである、と言えるであろう。「極微の領域における事象について、それらを日常経験の対象を考える場場合同じ仕方で考えようとすると、<論理的矛盾>に陥る」から、常識は拒否されなくてはならない、というブリッジマンの間違った常識観は、知覚的対象用語法と超越的対象用語法を明確に区別して考えれば、直ちに解消する。「草は緑で、石は堅く、雪は白い」という知覚的対象用語法が、素粒子論の超越的対象用語法とは違うという理由から、常識を「甚だしい迷妄」と考えるラッセルの見方も、それこそ「甚だしい迷妄」と言わなくてはならないであろう。(松下注:ラッセルがここで「常識」を批判しているのは、あくまでも精密科学や認識論の領域の話であり、社会科学や人文科学の領域の話ではない。また、論理学を記号論理学に限定しているからといって、精密科学以外には「科学的」な方法論や論理がないと言っているわけではない。従って、米盛氏の批判も、的外れではないだろうか。→ ラッセル『人間の知識』(Human Knowledge, 1948 を参照))

  • いいだ・もも『<主体>の世界遍歴-八千年の人類文明はどこへ行くか』(藤原書店,2005年11月)
    *
    いいだ・もも(本名は'飯田桃'、1926~2011.3.31):東大法卒。日銀を退職後、作家・評論家・活動家。'ベ平連'の設立にも関わる。(著者の肖像写真

    (pp.503-513)「バートランド・ラッセルとウィトゲンシュタイン」
    (p.503) 前節に述べたような第一次大戦後状況下にラッセルは、ドロシー・リンチに命じてウィトゲンシュタイン『論考』の活字化を依頼し、1921年秋に『論考』はようやく日の目を見ることとなった。誤植の多いこの独語版をウィトゲンシュタインが「海賊版」と呼んで嫌ったために、ラッセルはR.オグデンに相談して、イギリスのキーガンポール社から「独英対訳版」を出す企画をとりつけ、オグデンとラムゼイによる英訳が付された決定版の『論考』が、1922年11月に刊行されたのである。・・・。
    (p.504) そのようなウィトゲンシュタイン『論考』を日の目を見させるために百方奔走して実現させたラッセルは、その直後に洩らした感想では「この本は全部正しいか全部間違っているかどちらかであることは確かで、それは良書のしるしだ」ということであった。わたしの本書での鑑定では「全部間違っている」とあえて断言するが、そのようなわたしは全部問違っているような書物を「良書」であるとはさらさら考えない。・・・。
    (p.505) 『論考』による、ラッセル『プリンキピア・マテマティカ』の論理体系に対する批判目標は、三点にわたっていた。
    -(1)<階型理論>のような、形式的な体系に付加される「論理外的道具立て」は無用・有害である。
    -(2)公理の方法は、真理表の方法による「論理学のいかなる命題も他の命題より原初的ではない」という証明的事実を、隠蔽してしまう。
    -(3)論理定数-命題結合子、限量子、同一性記号等々のラッセル的概念は、定義され(て)ない原始的記号の使用である。
     これが『論考』の提起する<語られず示されるもの>の具体的中身であって、そうしたウィトゲンシュタインの「数は概念ではなく、人は一般化によって数に達することはない」という立場性は、ラッセルの『プリンキピア・マテマティカ』の基本方法である「一般化によって数に達し」ようとした<階型 stage>理論に対する基本的・原理的反対の論理哲学であるのみならず、かれ自身が「フレーゲ=ラッセルの論理学体系の根底にあるのは、まさしく概念と形式の混同である」という断言にあきらかにされたように、フレーゲ=ラッセルの論理哲学=言語哲学に対する原理的拒絶なのである。わたしが、ウィトゲンシュタインはその実はフレーゲ=ラッセルの本道から逸れてしまっている、とすでに述べた所以である。
     先にわたしが、「フレーゲ-ラッセル-ウィトゲンシュタイン」といったような世間一般の大雑把な一からげを、けっして鵜呑みにすることはできない、と警告した根本的理由はここにある。後代のタルスキーなどは、ウィトゲンシュタインのこうした<示されるもので語りえず>という神秘主義的哲学に反対して、逆にラッセルがほかならない『論考』へのかれの「序文」のなかで示唆していた「言語の階層性 hierarchy」を採用し、むしろ<階型 stage>理論の方向で、「真理論」における「形式的正しさ」の問題も処理し、真理の定義がそれに適用される当面の研究対象である「言語L(object language 対象言語)と、そのLについて語り、Lに関する真理定義をそのうちで構成する「メタ言語L(metalanguage メタ言語)とは、相対的に区別されなければならない(その二つを「L」というだけで、同一化し混同してしまうウィトゲンシュタインとは、反対に)と提議したのである。これは正しい腑分けである。・・・。
    (p.507) クルト・ゲーデルの「完全性定理」ならびに自然数についての「不完全性定理」が、無矛盾性による数理的体系形式の原理的不可能性を証明した今日では、ラッセルの古い夢であったプラトニズムによる形相の演緯的公理体系としての「数」の定義の可能性は、根本から粉砕されてしまったことは疑いないところである。だからと言って、ウィトゲンシュタインがラッセルに理論的に勝利したということにはならないのだ。・・・中略・・・。
     このような現代論理学におけるゲーデル的事態について、わがウィトゲンシュタインはなんら関与も関知もしていない。したがって、ラッセルの論理主義的な数学基礎論の演繹的定義の根本的破産はそれはそれとして、そのことはけっしてウィトゲンシュタイン『論考』が明示的・隠示的に主張していた、ラッセルが「言語論的転回」を知らなかったのだとか、論理、数理への言語学的負荷が分からなかったから「数が形式である」ことを理解できなかったのだとかいう主張が、ほとんどデマゴギー(注:政治的効果をねらって、意図的に流される虚偽の情報)に等しいものであったことは明々白々である。・・・。
    (p.508~) バートランド・ラッセルが『プリンキピア・マテマティカ』につづく本格的な数学的・論理学的展開を志向した『認識論』の草稿をウィトゲンシュタインに見せた時、ウィトゲンシュタインからにべもなくその見解を峻拒されたこと、自己の知的・論理的能力についての自信を根底からゆるがされたことは、当時の現場でかれラッセルがモレル夫人に書き送っている書簡でこれを確認することができる。
    「わたしにはかれの批判が理解できませんでした。・・・しかしわたしはかれが正しいに違いないこと、かれはわたしが見落としていた何かを見て取ったのだということを直観しました。もしわたしにもそれを見て取ることができたとしたら、わたしは何も気にしなかったでしょう。しかし実際にはそれはわたしにひどく気になり、わたしの書く喜びをすっかり破壊してしまいました。」と。
     ラッセルはその数年後にこの「事件」をふりかえって、「わたしの生涯で第一級の重要性をもつ出来事であった」と再確認し、それ以降というもの哲学で基本的な仕事をする望みをかれラッセルが絶たれてしまってすっかり絶望に陥ったこと、かれの情熱が哲学よりも「反戦運動」へと向かったのも、このウィトゲンシュタインの批判がきっかけであった、とありのままに正直にあきらかにしている。
     この「事件」でのラッセルの対応.・反応が、ラッセルにとっての重大な'心理的事件'であったことは、疑うことはできない。しかしわたしに言わせるならば、当時ラッセルは、ウィトゲンシュタインによるかれの『認識』草稿に対する批判の趣旨なり学識なりが理解できた上での根底的な動揺や絶望であったのではないのであって、現代数学・論理学がかかえこんでいた大問題の自重にかれ自身が押し潰されてしまった結果であるように考えられる。
     『プリンキピア・マテマティカ』以来の数学的論理を「公理」から演緯的に体系化しようというヒルベルト・プラン的な理論的野心は、まもなく潰れてしまい(これはこれで、二〇世紀初頭の現代数学の危機の核心間題である)、そうした論理哲学的志向が数学的にも成り立ちえないことについて、やがてクルト・ゲーデルの「完全性定理」ならびに自然数についての「不完全性定理」による証明がされたことは、ウィトゲンシュタインのラッセルに対する批判の正当性を何ら意味してはいないのである。
     この最初のラッセル・ウィトゲンシュタイン事件に触発された、ラッセルの「哲学」から「反戦運動」への転進(身)が、具体的には1914年7~8月のことであったという平明な事実を再確認しておかなければならない。第一次世界大戦勃発に対する反応であったのである。・・・。
     「徴兵反対同盟」の委員をつとめていたラッセルは、反戦パンフレットの執筆者として告発され、1916年6月に有罪判決を受け、それに続いてトリニティ・カレッジの講師の地位を「満場一致」で免職されてしまった。
    (p.510) そうした当面の処置に対して挑戦を敢えてしたラッセルは、さらなる告発をよびおこし、被告として禁固刑に処せられ、同年5月でブリクストン監獄に「囚人二九一七号、姓名B.ラッセル」として送致されるにいたったのである。
     ラッセルがトリニティ・カレッジに復職できたのは、ようやく1944年になってからのことであったが、トリニティ・カレッジヘのかれの復職に反対票を投じた一人が何とウィトゲンシュタインであった。ただし、かれウィトゲンシュタインのごとき、第一次大戦の経過と動員に何の疑問も不安もいだくことなく東部戦線へと志願して出動したというような社会的に無智を極めた知識人にあっては、ラッセルの反戦の意志や行動やそれによってラッセルが受けた迫害等々については、何の了解もありえなかったのも当然のことにすぎないとも言えるのである。・・・。
     ラッセルは自分の生涯をユーモラスに要約して、自分は「頭の一番いいときに数学をやり、少し悪くなると哲学をやり、もっと悪くなって哲学もできなくなったので、歴史に手をつけた」と称したが、かれにその頭が少し悪くなった時期の「哲学」研究において、ウィトゲンシュタインとの問に『認識論』草稿事件もふくめた論理哲学関係をもったにすぎないとも言える。
     その論理哲学的関係において、共通する現代言語学・論理学的問題講制(プロブレマティーク)に導かれて、ラッセルが「論理的原子論」を哲学的立場として、あるいはまた世界観的立場として、ウィトゲンシュタインと共有したことは、疑いないところである。だがラッセルの「論理的原子論」の方法が、命題の究極的な構成要素としての「原子的命題」の真偽--つまりその命題とそれが記述している「原子的事実」との対応(真)ないし不対応(偽)の問題は、経験的に知覚するよりほかにないとするラッセルが、「分子的命題」については先験的(ア・プリオリ)であるが、「原子的命題」については後験的(ア・ポステリオリ)である、としていたのに対して、ウィトゲンシュタインの極端化した独我論的方法が「原子的命題」についても先験的方法を主張し、しかも原子化される要素関数と全称命題化される「分子的命題」の全体関数との区別を全くもたない要索関数一辺倒の立場にあったことは、今日のわたしたちから看るならば明々白々である。・・・。
    (p.512) ・・・。わたしとしては、本章において、単純な年誌的事実から言って、両者の関係についての通俗的叙述・理解とは違って、ラッセルとウィトゲンシュタインの極初期の「親密な友情」に終止符が打たれたのは、『論理哲学論考』公刊以後の両者の意見の食い違いからではなくて、すでに1911~1913年のことであり、とりわけウィトゲンシュタインがラッセルと知り合ってから2年後の1922年10月に、かれがケンブリッジを離れて一人でノルウェーに旅立って、あらゆる知人から例によって隔絶(逃避)して論理学に専念しようとしている間に、ラッセルとの手紙交換を通じて両者の価値観の根本的相違が埋められないと感じて、ロンドンのラッセルあて「訣別の手紙」を送ってからのことである、ということを再び確認できればそれで足りる。本性上「忘恩の徒」であるウィトゲンシュタインが、その当時もその後年も感得も自覚もできなかったことであろうが、ラッセルが第一次大戦中も「天才」ウィトゲンシュタインの運命を心痛して見守り、終戦後に『論理哲学論考』の出版にあれほどの時間とエネルギーを傾注したのも、ラッセルの人柄を偲ばせる一方的な'嘉話'なのである

  • 寺島実郎『われら戦後世代の「坂の上の雲」-ある団塊人の思考の軌跡』(PHP研究所,2006年)
    *
    寺島実郎」(てらしま・じつろう、1947~):早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。現在三井物産戦略研究所所長、早稲田大学アジア太平洋研究センター客員教授。
    の画像
    拡大する!(enlarge)

    (pp.148-153)」
    (p.152)
     英国の思想家バートランド・ラッセルは、1922年に実に興味深い予言とも洞察ともいえる所論を展開していた。1922年(大正11年)といえば、第一次大戦後の世界秩序再編期であり、ワシントン海軍軍縮会議が行なわれた年であった。実際に1921年の来日および北京大学客員教授としての経験を踏まえて考察した『中国の問題』と題する著作において、ラッセルは約言すれば、次のように述べている。

    王権の神授を信じる産業国家日本と、商業の神授を信じる自由主義のアメリカとは、中国の原料をめぐって、いずれは衝突する。その結果、日本は敗北し、異色あるその文明は地上から消え去り、アメリカをして汎世界的な軍事帝国主義へと歩みださせるだろう。
     この予言が気味の悪いほど的中したことは歴史が証明している。「王権の神授を信じる産業国家日本」とは、近代化・産業化の過程で近代科学の合理性を導入したかに見える日本が、宗教・倫理や精神性においては極端な前近代性をアンバランスに内在させており、とくに政治において非合理的熱狂に傾斜することの悲劇を予感させるというものであった。ラッセルの予言どおり日本は敗北し、米国の傘の下での復興と成長の中で、どっぷりと米国による支配秩序の枠組みに組み込まれてきた。

  • 大熊信行『日本の虚妄-戦後民主主義批判(増補版)』(論創社,2009年7月)(2010.5.6)
    *
    大熊信行」(おおくま・のぶゆき、1893~1977):東京商科大学(現在の一橋大学)卒、経済学博士。英独米に留学し、1944年東北帝大講師、戦後、山形県地労委会長、富山大学教授(経済学部長)、神奈川大学、創価大学教授を歴任。有名な著書に、『国家悪-人類に未来はあるか』。

    (pp.271-330)「国家とは何なのか-核時代における重ねての問いかけ(1967年)」


    (p.303)・・・。あの前後から約半年の間に、わたしの心をとらえた文献が3つあった。わたしはそれらを、日本の多くの読者とともに、日本語で読んだのであった。第1が、1957年の『ニュー・ステーツマン』11月22日に発表されたB.ラッセルの公開状である。第2が、1956年以降多くのドイツ語放送局を通じて放送され、あとで小冊子として刊行されたという K.ヤスパースの講演である。そして第3が、1957年4月28日から3日間にわたり、ノルウェー放送局から放送されたA.シュウァイツァーの3題の論文である。それはいずれも最初にあげた3つの想定のうち、第3の想定にたつ文献である。原子戦争は起らないという楽観的な想定をとっておらず、また、それは不可避だ、という絶望的な想定にも囚われていない。いずれも原子戦争勃発の危険をひしひしと感じながら、しかもこれは回避しなければならず、回避することができるだろう、という一縷の希望をたもち、そしてその方向をそれぞれ示していたのである。・・・中略・・・。
    アイゼンハワーとフルシチョフにあてたラッセルの公開状は、『ニュー・ステーツマン』誌上でその後、応酬を産んだ。わたしはこの事件を、近代における政治と知識人との一連の対決史に、新たな一齣を加えたものだと考えたい。ナポレオンとゲーテとの関係をひとつの頂点として、知識人は次第に政治に対する譲歩の一途をたどってきた。そう説いたのは、20年前の竹山道雄氏であった。しかしラッセルは、現代の知識人が政治の超越的批判者であることを、あの応酬によって示したものといえるのではあるまいか。現代政治の最も根本的な問題の解決について、世界の代表的な知識人が、超強大国の最大の権力者と対等に意見をたたかわせたというのは、ひとつの新しい歴史的出来事であったといえるのではあるまいか。
    の画像  が、ヤスパースとなると、その哲学が何であるにせよ,かれの地点はラッセルほどの高さに到達したものとはいえないように思われる。かれは政治的に西欧陣営の人であり、そして「自由か然らずんば原爆を」という恐ろしい二言をもらしかねないように思われた。相互査察制度を媒介として、世界連邦政府の実現にまで到達しなければならない、とする構想は、納得がいくのであるけれども、その論調はあくまで西欧世界を主体としたものであって、ラッセルに見られるような寛容はみとめがたい。したがって、ソ連およびその人民にたいして、説得力をもつものとはとても思われなかった。しかし幸いにもシュウァイツァーにおいて、わたしはふたたび政治を超越したひとつの精神に、遭遇したことになる。かれはこれより1年前の4月23日にも、ノルウェー国営放送局から、核実験中止を訴えるメッセージを放送したのであったが、それは放射能の人類におよばす影響を論じたものにすぎず、シュウァイツァーをまたねば他に聴くことのできない、といった内容のものではなかった。わたしはそのときの失望を、小著『国家悪』の終章の最後の一行に、書きしるしたことを思いだす。・・・中略・・・。
    (p.306)・・・。ここで注意をしたいのは,哲学者ヤスパースには,ラッセルの公開状にみられるような,実践的な訴えの態度に欠けていることである。かれには,現実政治家との対決の態度がみられないのみならず、政治的には無力な知識人にも,なお最後に残されているかもしれない行動様式について,なんらの示唆をあたえることもないということである。 

  • 白洲信哉『白洲スタイル』(飛鳥新社,2009年8月)(2010.4.28)
    * 白洲信哉
    」(1965~ ):白洲次郎及び白洲正子の孫。母方の祖父は小林秀雄。細川首相の公設秘書を経て執筆活動に入る。
    * 茂木健一郎(1962~ ):脳科学者。


    (pp.105-153)「第2章 茂木健一郎と白洲信哉との対談」
    (p.132)
    茂木: あのね、困った時に戦えるかっていうのはさ、最近、俺、アインシュタインのこと本にしたくて調べててさ、アインシュタインの有名な言葉があるんですよ。「偉大な精神は、常に凡庸な精神たちによって揶揄され、批判され、虐げられてきた。」って。それがね、どのタイミングで言った言葉なのか、知らなかったんですよ。それはバートランド・ラッセルが、ある地位に就くときに、ものすごい反対運動(注:バートランド・ラッセル事件)が起こって、そのことについてアインシュタインに問い合わせがいって、それでバートランド・ラッセルを擁護するために言った言葉だったとわかった。激しい人なんだよ、アインシュタインって。その言葉が、友達を擁護するために出てきたっていうのも、すごくいいやつなんだなと思って。ある意味では、それが公になるわけだから、自分も危険な立場になるわけだからさ。

    白洲: 人との出会い、付き合いっていうのは、そこまで引き受けると覚悟した上でのことですから、そんな人はごくわずかに絞られますよね。だれもかれもみんな、どうぞというわけにはいかない。みんなどうぞというのは、やはり、みんなどうぞという関係であって、無関係に近い。T.S.エリオットに「だれもかれもみんな愛しているというのは、だれひとり愛していないということだ。」という言葉があって。・・・。

    小野寺健『英国文壇史-1890~1920』(研究社出版,1992年2月)(2010.4.27)
    小野寺健(1931~ ):横浜市立大学名誉教授(英文学専攻)

    (pp.341-351)「若き日の T.S.エリオット」
    (p.346-348)・・・。この1915年に彼T.S.エリオット,1888-1965:1948年度ノーベル文学賞受賞)は結婚した。相手はヴィヴィアン・ヘイ・ウッドといって、風景画や人物画を描く画家だが大きな収入は所有地から得ている人物の娘だった。・・・。快活で神経質なまでに自意識のつよいこの英国女性は、絵やバレーを習ったことがあったが、その頃はケンブリッジのある家で家庭教師をしていた。エリオットより半年年上だったが、2人とも26歳だった。・・・。1915年6月26日にハムステッドの登記所に結婚を屈け出た。満足に親に知らせる暇もなかったので、立ち会い人はヴィヴィアンの叔母だけだった。2週間の予定でイーストボーンヘ新婚旅行にでかけた夫妻は、6日目にヴィヴィアンの兄にひきもどされ、ヴィヴィアンの両親が住んでいるハムステッド駅に近いコンペイン・ガーデンズの家に連れて行かれた。エリオットはこのとき(彼女の)両親から新妻の神経症の病歴を知らされて、早くも後悔したらしい。・・・。
     おそらく性的にもうまくいかず、経済的にも困ったエリオットは、バートランド・ラッセルに助言を求めると、ラッセルからボンド・ストリートに近いラッセル自身のフラットに同居をすすめられ、夫妻は9月にそこへ移った。ラッセルはエリオットに3,000ポンドの社債も提供したが、エリオットがロンドン西北郊ハイワイコムのグラマー・スクールの教師となって週に幾晩か家をあけるようになると、その留守に同じ家にいるヴィヴィアンと浮気をした。2人の関係はその後も続いて、ヴィヴイアンが病気になるとラッセルは彼女をデヴォンの保養地、トーキーへ療養に連れていった。エリオットはますます経済的に困窮した。グラマー・スクールを一学期で辞めた彼は、市内の北部にあるハイガット小学校の教師になり、同時に大学の夜間講座の講師を務めたり、書評を手がけたりするようになった。ラッセルは彼を『ニュー・ステイツマン』誌に紹介して、書評を書かせた。・・・。
     これもラッセルの紹介で、エリオットがオットリン・モレル夫人に初めて会ったのは、オットリンの回想が正しければ1916年の3月である(アクロイドは1915年としている)。そのとき、オットリンは夫フイリップとともにガーシントンからロンドンのベッドフォド・スクェアの邸宅へ出てきていて、ソーホーのレストランで、ラッセルをまじえてエリオットと夕食を共にしたのだった。オットリンは回想する。
    「エリオットはバーテイー(バートランド・ラッセル)が1914年にハーヴァードにいたとき出会って、とても賢く、教養がありすぎると思った若いアメリカ人だ。すでに幾つか詩を書いていてアメリカの小雑誌に載ったのを、バーティーは読めといって私にくれたが、すばらしいと思った。最近結婚したばかりだったが、夫人とはまだ会っていなかった。バーティーは彼女のことを手紙に書いていたが、彼女に関心を持っていることはあきらかだった。彼は、エリオット夫婦はあまりうまくいっていないが、自分がちょっと操ればうまくいくだろうと信じていた。彼の話を聞いていると、私にはそうは思えず、むしろはるかに悪化させるのではないかと思った。エリオットは学位のためにアメリカヘ帰るはずだったが、夫人が潜水艦を怖がって同行を断った。夕食はあまり成功とは言えなかった。T.S.エリオットはとてもあらたまっていて礼儀ただしく、夫人は『甘やかされた子猫ちゃん』タイプの、二流の超女性的な女で、いたずらっぽく野暮ったく見え、バーティーが(→は)自分のものだということを見せようというのか、レストランを出ると彼と腕を組んで、さっさと一人占めにして先に行ってしまった。その不作法ぶりは、いささか不愉快だった。」
     ・・・後略・・・。

  • ジル・ドスタレール(著),鍋島直樹・小峯敦(監訳)『ケインズの闘い-哲学・政治・経済学・芸術』(藤原書店,2008年9月)(2010.4.26)
    * ジル・ドスタレール
    」(1946~ ):現在、カナダのケベック大学モントリオール校教授。
    (pp.144-147)「学位論文から書物へ」

    (p.144) 1907年12月、ケインズは確率の原理』という表題をもつ学位論文の最初の版を、フェロー資格の獲得を希望してキングズ・カレッジに提出した。・・・。
    (p.145-146)・・・。ケインズは学位論文の第2版にもとづいて、キングズ・カレッジのフェローに任命された。彼は数カ月前にインド省での職を辞しており、フェローの地位を得ることが確実ではないままにケンブリッジで教え始めていた。1910年に彼は、自分の学位論文の改訂版を出版する契約を、ケンブリッジ大学出版局と結んだ。その契約は1912年にケインズの意向で取り消され、彼はそれ以降、自分のすべての著書をマクミラン社から出版することになった。彼は学位論文の改訂にかなりの努力を捧げたが、その努力は人々との意見交換のなかで一歩一歩進められていったのである。彼のその後の諸著作と同じように、この努力は一人でなされたものではなかった。ケインズは自分の書いた諸章を友人や同僚に送り、それらについて議論した。とりわけラッセルは、それに貢献した。ケインズは学位論文の執筆のさいに友人〔ラッセル〕の『数学の原理』に大きな刺激を受けたと述べている一方で、ラッセルは1912年に出版した『哲学の諸問題』(序文)において、初めてケインズの学位論文の存在を公にした一人であった。
    「G.E.ムーアとJ.M.ケインズの未刊行の著作からは、貴重な支援を受けた。ムーアからは感覚与件(センス・データ)と物質の関係について、ケインズからは確率と帰納に関してである。」(Russell, The Problems of Philosophy、1912、p.5)。
      ケインズは、1914年7月19日に父に宛てて書いた。
    「金曜日には五時間半をジョンソンとすごし、いくつかの実に有益な批判と示唆を得ました。ラッセルやブロードとの会話からは、それほど多くのものを得られませんでした。ジョンソンとラッセルが私の帰納理論を受け容れてくれたことは、私を大いに勇気づけてきました。彼らは二人とも非常に称賛してくれます。私はこれを2,3年前に仕上げましたが、今まで誰もそれを読んでいません。」
      ラッセルは、彼の自伝で次のように書いている。
    自分は、ケインズの政治的・経済的な仕事に関しては彼との接触がなかったが、「彼の『確率論』には非常な関心をもった。そして、その多くの部分について詳細にわたって彼と論じ合った。」(Russell, Autobiography, p.71)・・・。

  • 高橋哲哉『歴史/修正主義』(岩波書店,2001年/「思考のフロンティア」シリーズ)(2010.4.22)
    *
    高橋哲哉(たかはし・てつや、1956~ ):現在東京大学総合文化研究所教授。哲学専攻。

    (pp.93-96)「女性国際戦犯法廷」
    (p.95-96)・・・。いうまでもなく,これ(=女性国際戦争犯罪法廷)は「法廷」とは言ってもあくまで「民間法廷」であり,法的実効力をもたない. いかなる国家主権とも無縁であり,people(ピープル,民衆,人々)の「主権」による「法廷」とされる. 「判決」も,過度の法的形式主義にとらわれることなく,「象徴的・道義的」な「審判」をめざす. 本来,日本政府が協力して法的実効力ある国際法廷が開かれれば理想的なのだが,目下のところそれが困難なので,次善の策として構想されたのである. その点でこの法廷は,1967年にバートランド・ラッセルの呼びかけで,ジャン・ポール・サルトルを議長として,ベトナム戦争におけるアメリカの侵略と戦争犯罪を裁くために開かれた「ラッセル法廷」に似ている(第1回法廷5月2日~10日,ストックホルム,第2回法廷11月20日~12月1日,コペンハーゲン郊外ロスキルド). サルトルはこのとき,ラッセル法廷は法的強制力をもたないが,法的強制力が前提する国家権力から完全に自由であり,「普遍的」であることが,逆にラッセル法廷の「正当性」の源泉になる,と主張した(「開廷にあたって」,ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会(編訳)『ラッセル法廷-ベトナムにおける戦争犯罪の記録』人文書院,1967年,34頁).
     事実,ラッセル法廷の「判決」が世界のベトナム反戦運動に与えた影響は無視できない. そこで採用された「ベトナム人民の民族基本権」という概念は,1973年のパリ停戦協定にも明記される結果となった. たしかに,戦犯法廷の判決は法的実効力をもつことが望ましい. しかし,法的実効力をもつためには,この法廷は単数もしくは複数国家権力を前提としなければならない. 「力なき正義は無力であり,正義なき力は横暴である.〔中略〕だから,正義と力を同時に働かせなければならない. そしてそのためには,正しい者が力をもつか,力ある者が正しいのでなければならない. 人は,正しい者が力をもつとすることができないので,力のある者が正しいとしたのである.」(パスカル『パンセ』). このアポリアを見据えながら,「女性国際戦犯法廷」は,さしあたり強制力より「正義」の判断を明確にしようと望んだのである.

  • G. H. ハーデイ(著),柳生孝昭(訳)『一数学者の弁明』(みすず書房,1975年4月)(2010.4.20)
    *
    G.H.ハーディ」(1877-1947.12.1):イギリスの著名な数学者。
    (p.25)・・・。しかし、このような利点がいろいろあるにもかかわらず、(学者として)失敗するかもしれないと心配するのは何と心が痛むことだろうか。私は、バートランド・ラッセルが私に言った'恐しい夢'のことを記憶している。その夢の中で彼は、2100年頃、大学の図書館の一番上の階にいた。図書館の助手が大きな寵(かご)を持ち、本を次々と取り出して一瞥し、棚に戻したりまたは寵の中に捨てたりしながら棚から棚へまわっているのだった。最後に彼は三巻の部厚い本)の所に来たが、ラッセルが見ると、それは最後に残された『数学原理(プリンキピア・マテマティカ)』であった(注:「最後」というのは「この地球上で最後に残っているもの」という意味と思われる)。助手はその一巻を取り出し、数ページをパラバラとめくってみて奇妙な記号にしばらく困惑し、本を閉じ、手の平に載せ、そして(廃棄すべきかどうか)ためらった・・・。

    (p.69)・・・。実際はそれ以上のことが言える。というのは、純粋数学が戦時に果たしうる目的がとにかく一つある。世界が狂っている時、数学は数学者にとって、他に比較できない鎮静剤となる。なぜなら、あらゆる芸術や科学の中で、数学は最もいかめしく、最も現実から遠いものである。「私たちの心の高貴な衝動の少なくとも一つが、荒れ果てた流浪の地である現実の世界から最もうまくのがれうる。」とバートランド・ラッセルが言うように、あらゆる人の中で数学者は最も容易に'避難場所'を得られるはずである。残念ながら、一つ非常に厳しい留保をつける必要がある。つまり、彼は余り年をとっていてはいけない--。数学は瞑想の学問ではなく、創造の学問である。創造する力や意欲を失った数学者は、数学から'慰め'を引き出すことはできない。そして、これは数学者に思いのほか早くやってくる。それは悲しむべきことであるが、もしそうなれば、彼はどのみち重要でなくなるし、彼のことを心配することは愚かなことである。

  • 森川金寿『昭和人権史への証言』(時事通信社,1980年3月刊)(2010.4.18)
    *
    森川金寿(もりかわ・きんじゅ、1913~2006.10.16):東大法学部卒。1947年自由人権協会設立とともに事務局長、1965年家永教科書検定訴訟弁護団長、1966年ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会事務局長、バートランド・ラッセル国際戦争犯罪法廷メンバー、1973年日本弁護士連合会沖縄問題調査特別委員会委員長、1976年横田基地騒音公害訴訟弁護団長。

    の画像 (p.187)・・・。ベトナム戦争が日をおってエスカレートしてゆくにつれて、日本でも多数の集会がもたれ、抗議や非難の声が高まっていった。そして昭和41年(1966年)10月には来日中のサルトルも「世界の労働者の模範」とほめた総評等による大規模な「反戦ゼネスト」も行われた。丁度この頃、自由人権協会理事の帆足計議員がタス通信(ソ連)からの情報として、英国の哲学者バートランド・ラッセル卿がアメリカの戦争犯罪を裁く「国際戦争犯罪法廷」を提唱していることを伝えた。それで私は同議員や若干の人々と相談してこの国際法廷を支持する運動に取り組むことになった。そしてまず日本人としての主体的組織として同年10月13日、多数の社会科学者、自然科学者その他各界の人々(約600人)による「ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会」が設立され、私は事務局長に選ばれた。・・・。

    (p.190~)「裁判ごっこ、模擬裁判か?」

     初めて私が昭和41年9月頃から、ラッセル法廷支持のための日本の組織づくりに足をふみいれようとしたとき、実のところ当惑してしまった。それまでバートランド・ラッセルの名はきいたことはあっても、その研究者でも何でもない私には、どこから手をつけてよいものか皆目見当がつかなかった。が、とにかくラッセル卿の提唱なのだから、この運動はこれまでラッセル研究に従事してきた既成の団体などにやってもらうにしくはないと考えて、かねて知合の共同通信杜の新井直之氏に相談したところ、日本には「ラッセル平和財団」の支部のような立派な組織があることが判った。またそのほか研究組織として「ラッセル研究会」や大衆組織のようなものもあることが次第にわかってきた。そこで早速「平和財団」の幹部の方々に相談したところ、意外にも、個人としてなら賛成だが、団体としてはどうも、という答えであった。なるほど事情をきいてみると、財団のロンドン本部には何名かの理事がいて、重要な決定については日本の支部などに何らの相談もなしにこの一握りの幹部がきめており、日本で責任を負うこれらの著名な人々としては、こんどの「ラッセル法廷」の提唱にもただちに賛成しかねる、というようなことであった。私にもこれらの人々の社会的地位からみてもっともだと思われた。ラッセル研究の関係者にも声をかけたこともあるが、それは主にアカデミックな研究のようで、進んでアメリカ大統領以下を「戦争犯罪」で裁く法廷などという'恐ろしい企て'にはとてもついていけない、というような雰囲気であるらしいことがわかった
     それで私はやむをえず若干の親しい友人たちと駈けまわって「ラッセル法廷」支持の組織づくりに取り組まざるをえなかった。この当時のベトナム情勢は、同年6月には米地上軍は26万6人から28万5千人という大軍に増強されつつあり、6月29日、米空軍機はついに'聖域’ハノイ、ハイフォン爆撃にふみきり、北爆は日をおって激化し、全世界に抗議の嵐をまき起していた。ところが北ベトナムの政府が米パイロットを「戦犯裁判」にかけるとまで主張しているというのに、日本の国会では椎名外相がハノイ爆撃を容認し、ついには「安保条約上、日本はアメリカに協力する義務」があり、ベトナム戦争に対して日本は「中立的な立場ではない」とまで放言するようなしまつであった(昭和41年7月18日衆院予算委員会)。・・・。

    (p.198~)「バートランド・ラッセルと「沈黙の罪」
    の画像 昭和41(1966)年11月12日、私は一人で寒風の吹き荒れるロンドンのヒースロー空港に降り立った。ベトナム戦犯調査日本委員会から送られて、ラッセル提唱のアメリカのベトナムでの戦争犯罪を裁く「国際戦争犯罪法廷」((「ラッセル法廷」)の設立会議(11月13日~15日)に参加するためであった(右写真出典:『昭和人権史への証言』)。・・・。空港には財団のクリストファー・ファレー理事とTという大学助教授でこんどの法廷に協力している若い日本人が迎えにきてくれていた。会場兼私たち外国からの客の宿舎はニュー・アンバサダー・ホテルで、会場は曲りくねった廊下の端の奥まった部屋があてられていた。
     翌13日午後、会議が始まるというので、私はT氏と一緒に他の多くの人々のあとについてホテルの奥の会場へ向って歩いていった。途中私の前に、両側から2人の若者に扶けられてゆっくりと静かに同じ会場に入ってゆく痩せた小柄の老人の後姿がみえた。当時94歳のバートランド・ラッセル卿であった。さして広くもない会場に並べられた細長いテーブルに私たち各国からの参加者20名位が着席すると、ラッセル卿は立上って眼鏡をかけ、用意した原稿を静かな声で読んだ。「ラッセル法廷」の設立会議に各国から集まった私たちに対するメッセージであった。10分位のメッセージの終りで、「願わくばこの法廷が沈黙の罪を防止できるように」と結んだ。・・・。

     ラッセルの出発点--ニュルンベルゲ裁判
    の画像  バートランド・ラッセルがアメリカ政府・軍のベトナムに対する残虐戦争、とくにその化学兵器の残虐性を強く非難したのは世界の人々にさきがけていた。ラッセルはすでに昭和38(1963)年3月頃から、『ニューヨーク・タイムズ』紙などにアメリカのベトナム戦争の残虐性について投稿しており、これらは当時としては数少ない指摘として、ベトナム側から高く評価された。・・・。特に1964年3月13日『ワシントン・ポスト』紙に掲載されたラッセルの「ベトナム戦争と残虐行為」(『世界』昭和39年8月号)は徹底的な残虐性の指摘、糾弾であった。ラッセルは昭和40(1965)年10月14日「青年反核兵器運動」の集会で「労働党政府の外交政策」について演説し、アメリカの南ベトナム支配と、「アメリカのいうことなら事のいかんを問わず支持する」イギリス労働党政府を激しく非難し、その終りに「私はもはやこのいわゆる'労働'党の党員として留まることはできない、51年間の党員を辞退する」といって、「労働党党員証」を引き裂いた。このできごとは全世界に報道された。・・・。

    (p.202)「「ラッセル法廷」のメンバーたち
     このロンドンの法廷設立会議には、ラッセルから特に指名して招かれた各国の著名人が来ていた。ドイツ語なまりの流暢な英語を話す謹厳なアイザック・ドイッチャー。容貌魁偉、6尺豊かの大男でもとパルチザン隊長当時の弾丸が頭の中に残っていて、会議中も時々変調をきたすという英仏語に巧みなユーゴスラビアのウラジミール・デディエ教授。パリ大学の数学教授でフィールズ賞(数学でのノーベル賞に相当)受賞者で、実直謹厳なローラン・シュワルツ教授。そしてかねて日本訪問中の写真で見覚えのあるジャン・ポール・サルトルは会議第2日目の朝せかせか入ってきて、ちょうど私の席と向いあって着席した。議長席にいたドイッチャーがサルトルにあいさつした後、第一日目からの例にしたがい、改まった口調でサルトルに対し、「あなたはラッセルからの法廷メンバーとしての招待を受諾しますか」と質問し、サルトルは一こと「ウイ」と答えた。オーストラリアからは、1933年ナチスから逃れたドイツ人で、温厚な哲学者、作家で日本にも来たことのあるギュンター・アンデルス。イタリーからは古代ローマから抜け出てきたような、いかにも法律家らしい白髪のローマ大学教授、イタリー上院議員のレリオ・バッソー。トルコ国会議員(トルコ労働党党首)で温厚篤実な国際法教授マーメッド・アリ・アイバール。激するとわれがねのような早口の英語でしゃべり、よくサルトルと衝突したパキスタン最高裁判所所属弁護士の肩書をもつマームド・アリ・カスリなど。・・・。

    (p.204)・・・。ラッセル法廷の第一回「公開審理」集会はもともとパリを予定していたのだが、ド・ゴール大統領が、裁判長であるデディエの入国を拒否したため、法廷はフランスでは開けななり、急拠ストックホルム(スエーデン)に変更せざるをえなかった。このド・ゴールの態度に対してサルトルが激怒して出した抗議の書簡が『ヌーベル・オプセルバトール』紙にのった。サルトルとしては「執行会長」として自国政府の仕打に深い恥辱感を覚えたにちがいない。
     それだけにサルトルの力の入れようはすさまじく、ストックホルムの第1回ラッセル法廷公開審理、コペンハーゲンの第2回公開審理と、各回10日間以上サルトル、ボーヴォワール、シュワルツその他フランス勢が会場に釘づけになって文字通り法廷の活動に専念した気迫の激しさには感心した。ヨーロッパの会議では夕食後徹夜の会議が少くなく、法廷の判決(結論)言渡し前夜にはきまって朝の4時頃まで議論をしたが、サルトルとボ女史はいつもこれに参加し、主導的役割を演じていた。コペンハーゲンの第2回法廷でも、ジェノサイド(集団殺害罪)のたんなる法的な解明でなく、近代戦争の必然的帰結が「ジェノサイド」にならざるをえないことの解明についての結論を判決の中に入れるため、サルトルが畢生の力をこめて書いた草案を徹夜のメンバー会議で論議したりした。・・・。

    (p.207)「ラッセルのおもかげ」
    の画像 昭和45(1970)年2月3日、ラッセルが97歳の輝かしい生涯を終えたとき、日本人で晩年のラッセルに会ったのは私だけということで、いくつかの新聞社から原稿依頼があり、私の方が面くらったくらいである。私がラッセル卿に会ったのは、この1966年11月の「ラッセル法廷」設立会議のときであった。私たちへのメッセージをよんだり、記者会見でメッセージをよんだりした老ラッセルの姿はもちろんみたが、会議終了後ロンドンの私邸にT助教授の案内で訪ねたことがある(写真出典:森川金寿『昭和人権史への証言』)。バッキンガム宮殿の近辺であったかと思うが住宅街のなかに、他の家と同じ構えのこじんまりした邸がラッセル邸であった。同じ時間に約束してあったらしい北ベトナムの「通商代表」シャオ氏と共に玄関に入った。玄関のすぐ隣室に案内されたところ、さして広くもない応接間にラッセル卿夫妻が正面のソファーに着席してこちらを真直ぐ見ていたので一瞬まごついた、それに紹介役のシェーンマンがまだ来ないので、やむなく自己紹介してソファーに腰をおろした。日本から南廻りで30何時間かかってやってきたことを話すとずいぶん遠いと驚いていた。そのうちシェーンマンがかけつけて多少話もでたかと思うが、儀礼的な訪問なので内容はほとんど覚えていない。私は日本から持参した小さな「柿右衛門」(13代)の花びんを差上げたり、色紙にサインしてもらったりした。私の差出した日本製のサイン・ペンを使いにくそうにしながらも独特の枯れたようなサインをしてくれたラッセル卿の横顔をいまでもおぼえている。ベトナムの客もいるので私は一足先に辞去したのだったが、「花びん」についてはよほど気に入ったらしく、帰国後わざわざ署名入りの手紙で「カキエモン・スクール」の花びんについての丁重な礼状がきた。それでこのことを一文にして『佐賀新聞』に「ラッセル卿と柿右衛門」という題で載せてもらった。厳めしい「戦争犯罪法廷」のかげにこのようなエピソードもあることを知ってもらいたかったからである。・・・。
     私が会ったロンドンの私邸には、ラッセルはめったに来ないらしく、ふだんは列車で6時間もかかるウェールズの片田舎。ペンリンドゥドラスの邸宅に起居していたようである。帆足計氏夫妻が1966年秋、私よりも少し前にこのウェールズの邸宅を訪れたときの印象を「尾崎咢堂(注:憲政の神さまと言われた尾崎行雄)さながらの風格」と評している。そして夫人のおみやげに京の舞扇をあげると卿は懐しがって「おお美しい」とつぶやきながら1921年頃日本を訪れた思い出話からはじめたという(『社会新報』昭和41年11月13日)。生前こよなく愛したというこのウェールズの北の海と山の険しい風景は、ラッセルの孤高な心境を表わしているように思われる。・・・。

  • 『丸山眞男集第9巻(1961-1968)』(岩波書店,1996年)(2010.4.16)
    *
    丸山眞男(まるやま・まさお、1914-1996.8.15):日本を代表する政治学者。

    (1)(pp.11-44)「現代における人間と政治」(初出:丸山眞男(編)『人間と政治』(有斐閣,1961年9月刊)

    (pp.15~16)・・・すでに度々の新聞報道で知られているように、イギリスのCNDを中心とする核武装の一方的廃棄運動は、今年(1961年)の二月に至って、アメリカのポラリス潜水艦の基地貸与協定にたいする嘗てない規模の抗議集会にまで発展し、デモ隊は会場のトラファルガー広場から行進して国防省前に坐り込み、数百の逮捕者を出した。終始この運動の先頭に立っていたバートランド・ラッセルは、この時も88歳の老躯をさげて冷たい舗道に坐り込むという「異常」な行動をとったが、この著名な哲学者の述べるところによると、
    「例えば日刊新聞のなかで一番公平だと考えられているある新聞の労働党関係の通信員は、一方的核廃棄論に対する反対こそが「正気の声」だ、と述べた記事を書いた。私はそれに答える手紙を書いて、むしろ逆に、正気は一方的核廃棄論者の側にあり、廃棄論反対者の側こそヒステリーにおちいっている、と論じたのであるが、この新聞はそれを印刷することを拒否したのである。ほかの一方的核廃棄論者たちも同様の経験をもっている。」
     つまり、言論の自由の祖国でも、一方的核廃棄論は、'気狂い沙汰'というイメージを通じてしか大多数の国民の耳目に入らず、また入ることを許されないというわけである。アメリカでも、広島の原爆投下に関係したクロード・イーザリーが、罪責感からはじめた核兵器反対のための行動が「その筋」によって'狂人扱い'され、精神医学者の「証明」付でついに精神病院に入れられたが、これまたラッセル卿によれば、イーザリーが自分の動機を説明したいくつかの声明は、完全に正気であり、すくなくも、原爆投下の正当性をあくまで弁護する当の責任者トルーマン(大統領)よりは、はるかに正気なのである。こうしてラッセルは沸々とした憤りをかれ独特のソフィスティケーションにまぶして投げつける--「今日のさかだちした世界では、人類全体に対して生殺与奪の権を握っている人たちは、名目上は出版や宣伝の自由を享受している国々のほとんどすべての住民に、誰れであれ人類の生活を守ることを価値ある事柄と考える人は狂人でなければならぬということを、説得するだけの力(権力)をもっているのである。私は私の晩年を精神病院で過ごすことになっても驚かないだろう。そこで私は人間としての感情をもつことのできるあらゆる人たちとの交際を楽しむことになるだろう。」(New Statesman, Feb. 17, 1961. 『世界』1961年4月号訳載)

    (2)(pp.185-200)「国際危機と世論-イギリスの場合」(初出:『岩波講座「現代」別巻2』の月報16(岩波書店,1964年11月刊)所収)
    (p.192)
    -しかしいくら一流紙でも、やはりニュースの選択自体にある種の偏向がないわけじゃなかろう。
    (私) そりゃ事件にもよるだろうね。たとえばほとんど時を同じくした中印紛争の報道ぶりはあまり感心しなかったから・・・。それからキューバ危機の場合で思い出すのは、例のラッセル卿の活動ぶりの扱い方だ
    -冷淡だったというの?
    (私) いや、もちろん大きく報道されたさ。ただそのタイミングが問題なんだ。ラッセルの活動については、『オブザーヴァー』が(1962年)11月3日号で、キューバ危機の経過を総括しているのが便利だから、これによって紹介しよう。ラッセルは10月22日、ケネディの封鎖宣言を深夜放送できいてすぐに米英ソ首脳とウ・タント国連事務総長に電報を打ち、そのコピーを同時にイギリス各紙に送っている。ところがこの時はどの新聞もこれを黙殺して報道しなかった。その翌日から、ラッセルはさらにアフリカにいるA.シュヴァイツァ、プエルトリコにいるP.カザルス、アメリカの変わった億万長者でフルシチョフの「友人」といわれるサイラス・イートンなど、ちょっと面白い顔触れにアピールを発すると同時にパグウォッシュ科学者会議の緊急招集を呼びかけている。24日(水)になって、突然モスクワから、フルシチョフのラッセル宛長文の返電が放送された。そこではじめてワッと報道陣が色めき立ったわけだ。『オブザーヴァー』によると、「プラス・ペンリン--ラッセル卿の別荘--の(報道陣による)ボイコットは突如として包囲に変じた。彼の最初のメッセージの原文をたずねる世界中からの電話で、電話口はふさがれてしまった。・・・。朝には36人のジャーナリストが(ウェールズの)彼の家に詰めきりになった。一時はラッセルはワシントン・モスクワ・国連の三角形の真中に立っていた」というわけだ。
    -なるほど、フルシチョフの返事ではじめて遡及的にニュースとして扱われたというのは面白いね。
    (私) しかも自分の新聞も含めて'黙殺から包囲へ'と取扱いが一変した次第を正直にまたユーモラスに「告白」しているところが二重に面白い。ついでにいうと、この時各国首脳のなかでもっとも冷たい態度をとったのは地元のマクミランだった。ケネディでも遅ればせながら親電で答えたが、マクミランは秘書に「貴殿の見解を拝見した」と答えさせたきりだった。

  • 中見真理『柳宗悦-時代と思想』(東京大学出版会,2003年11月)(2010.4.11)
    *
    柳宗悦(やなぎ・むねよし/orそうえつ、1889 年-1961年5 月3日):民芸思想家・民芸運動実践家。1957年に文化功労者。
    * 中見真理(なかみ・まり、1949~ ):一橋大学法学研究科博士課程単位取得退学、清泉女子大学文学部教授。

    (p.199)・・・。一方、かつて「絶対の非戦論の信者」であった武者小路実篤(『武者小路金集』v3,p.366)は、第一次世界大戦には反対していたものの、後述するように、この時期には、すべての戦争を否定する観点を放棄しつつあった。がその後も一貫して、日本のアジアヘの侵略に否定的な姿勢をとり続け、しかも十五年戦争下に戦争を煽り立てる行為を抑制することができた背景には、白樺派のなかでの柳独白の思想的営為があった。そのひとつとして、クエーカーやバートランド・ラッセルの平和思想を通じて、「パッシヴ・レジスタンス」という概念を的確にとらえていったことを指摘することができる。

    (pp.200-207)「パッシヴ・レジスタンスの意識化とその実践」
    (pp.202~) ・・・。柳が「パッシヴ・レジスタンス」の概念を明確に意識していたことは、さらに「柳旧蔵書」中の、バートランド・ラッセルの著書 Justice in War Time (Chicago & London; Open Court, 1916)への、柳による書き込みにも示されている。丸善から購入されているこの本を柳がいつ読んだのかは確定できないが、これを「戦争と平和」の問題に強い関心を抱いていた、第一次世界大戦末期から終戦直後にかけての時期に読んだであろうことは、まず間違いない(注:柳は、1921年7月29日に慶應大学大講堂で行われたラッセルの講演を聴きに行っている。参照:『柳宗悦全集』v.21上,p.240)。というのも柳は、後述の一九一八年八月二十三日にバーナード・リーチに宛てた手紙のなかで、戦争反対運動に言及しながらラッセルの名前をあげており、その頃にはラッセルの反戦活動について、すでに知識を持っていたことが明らかだからである。
     この本の冒頭にかかげられた 'An Appeal to the Intellectuals of Europe' は、知識人が自国の政策から距離を保って、真実を語るべきだと訴えたものだが、柳は、その文章の最終頁(p.19)に, 'Splendid!' と書き込んでおり、興奮しながらこのアピールを読んだ様子がうかがわれる。・・・中略・・・。
     またラッセルは、同書において、'防衛のための戦争'とみなされない戦争がほとんどない現状において、防衛のための戦争が正当化され続けるならば、今後も戦争は避けられないだろうと述べ、non-resistance は、単に宗教的態度として優れているばかりでなく、このような事態を打開していくために、実際政治のうえでも非常に賢明な政策だ、ただし問題は、人々にそれを行なう勇気があるかどうかだ、と説いている(pp.34-36)。そして、力に対して力によってではなく、passive non-resistance で対抗することは、力で立ち向かうよりもいっそうの勇気を必要とする(p.44)。しかし、現在戦争に投入されている'勇気'を、教育によってパッシヴ・レジスタンスの側に振り向けていくことは可能だと、指摘していた(p.48)。なお同書においてラッセルは、 non-resistance をクェーカーやトルストイにみられるような、たとえ防衛のためであれ、いかなる場合にも武力に訴えない主義だと説明しており(pp.34&40)、それを passive non-obedience や passive resistanceと同義で使用している。後述するように、ラッセル自身は、あらゆる状況において武力の行使を否定していたわけではなかったが、柳は、ラッセルのこのようなパッシヴ・レジスタンスについての考え方から、多くを学んだに違いない。
     実際柳は、この本の 'war and non-resistance' というタイトルの章の最終頁(p.59)に、'doctrine of passive resistance' (not non-resisitance)、doctrine of passive non-obedience' と書き込んでおり、パッシヴ・レジスタンスについてラッセルの本を読みながら考えを深めたことが明らかである。そして柳のこの書き込みは、当時の日本において「無抵抗主義」と邦訳され、単に何もしないことだとみなされがちだった 'passive resistance' を、まったく抵抗しないということではないこと、すなわち、それは非暴力的方法による「不服従」あるいは「抵抗」を意味するのだ、ということを柳が的確にとらえていたことを示している。・・・後略・・・。
    (p.210)・・・。加えてラッセルの著作から、「優越」感を持つということが、'平和実現への障害'になっていることに気づいていった可能性も考えられる。たとえばラッセルは、 Justice in War Time において、征服者が文明の程度において「優越」していた時代には、植民地戦争を正当化しえたが、今日においては、白人が黄色人種に対して明らかに「優越」しているとはいえないので、もはやそれを正当化することはできないと説いていた(pp.29-30)。柳はこのような文章に接した結果、優越感というものが、戦争や支配の正当化の要因になる、と知るに至ったのかも知れない。柳は晩年にも、戦争は自国だけが偉いとみなした時に勃発するものだとみており、戦争を「聖戦」として正当化する見方については一貫して否定的だった〔『柳宗悦全集』v.18,p.460)。

  • 高畠通敏『政治の論理と市民』(筑摩書房,1971年11月)(2010.3.29)
     *
    高畠通敏(たかばたけ・みちとし、1933年-2004年7月7日):政治学者。
    (pp.204~209)「政防法反対市民会議」の構想(初出:『週刊読書人』1961年10月2日)

    (p.207)・・・。私たちは、政党の打算を考慮に入れないで率直に行動する。このようにして、つくられた諸条件の上にどのような政治的解決をもたらすかこそが、政治的リーダーシップの問題なのである。
     同時に、私たちの提唱は、イギリスでバートランド・ラッセルらをはじめとする百人委員会の仕事と方法とに深く刺激されている。トラファルガー広場での大集会とラッセルらの検挙のニュースは、私たちの「呼びかけ」と前後して届いたのだが、私たちは、市民の抵抗運動というものがかくも大規模かつ徹底的に行なわれうるということのなかにイギリスの「政治的伝統」の本質をみると同時に、ラッセルらの計画の周到さのなかに、政治的叡智にまで昂められた市民原理の定着を学んだのだった。非暴力ではあるが非合法を辞せずという原理のたて方、参加者個人の自発的責任を明らかにするために事前に署名を求めるという徹底性、デモ参加者が負うべき責任の範囲と運動の目的・方法を明確に周知させそれに応じて多様な隊列をくむという委員会側の指導責任のとり方、これらすべてが、参加者の数よりも何よりも、私たちにとって範とするに足りるものである。・・・。

    (p.209)・・・。この「会議」の提唱者の誰もが、勿論バートランド・ラッセルのように有力でもないしましてや「叡知」などというのにほど遠い存在にすぎない。シナリオ・ライター、つくだに問屋、エレクトロニクス技師、子どもの絵の先生等みな無名・無力の日本人である。私たちが「百人委員会」まがいの運動を起こそうなどというのは、まさにドン・キホーテなみの勇気であるということは提唱者たちが誰よりも熟知している。・・・。

  • 三浦俊彦(作)『エクリチュール元年』(海越出版社,1998年2月) (2010.3.16)
    * 三浦俊彦(1959~ ):分析哲学者,作家。
    (pp.151~225)「朧々一九九五」

    ★小説ですので、以下、余り文字どおりの意味にこだわらずにお読みください。

    (p.166)・・・。咋日まで周りに何か足りないと思っていたが欠けていたのは熱狂だ。真珠湾奇襲のときも日露開宣のときも大熱狂が日本中の街角を包んだはずだし第一次大宣時(ママ)英国が対独宣宣布告した日はロンドン中が老若男女大歓声に包まれたとバートランド・ラッセルもなぜか苛立たしげに書いていた。
    (p.168)・・・。反宣運動(ママ)の持久力の方だって心配で、いま日本中でどれだけの反宣運動が沸騰しているか知らないがああいう暖簾に腕押しの中で、反宣運動特有のしかるべき熱精と充血を保ち続けられるだろうか殆ど齢九十八死の前々日まで反宣反核叫びおおせたバートランド・ラッセル並みの根気を小市民の誰もが持てるわけではないぞ。第一次大宣中四十代壮年のラッセルはドイツに降伏せよとロンドン中で叫び続けて、だんだんやる気をなくしてやめようかと思った矢先に逮捕され投獄されて、自分は政府に圧迫を確かに与えていたのだ、ホッとしたと述懐しているが。・・・。

    (p.177)・・・。Q君は宣時(ママ)にこうして敵国に住むことによって情勢を客観的に見ることができる自分は超幸運ですと言った。なるほどそうなのか。第一次大宣では徹底して反宣論だったバートランド・ラッセルが、第二次大宣のときはアメリカにいて宣教完遂を唱えたのも母国を離れて客観的になれたからだろうか。あのときラッセルがドイツか日本に住んでいたとしたらもっと客観的になれてさらに奥床しい態度をとっていたのかもしれないけど、それにしても開宣二力月目に入るのに僕はまだわからない開宣の理由を客観的な敵国人Q君からなら自然に聞き出せるような気がして・・・。

    (pp.182-183)・・・。そういえばまだ宣時には間があった大正十年夏にバートランド・ラッセルが奥さんを英国に置いて愛人連れて来日したときずうっと片時も暇なく刑事の尾行がつきホテル隣室は常時警察官でいっぱいだったそうだけれどあれはやっぱりラッセルが前年レーニンに会ってきた社会主義者との触れ込みだったからだろうかそれとも近く英国と一宣交えるとの予測が動いていたろうかいやはやまだ日中宣すら十五年も先という時節に本気で仮想敵国の一介の数理哲学者の尾行に熱中できた古き良き日本保安当局の頼もしさが誠に羨ましいけれど今だって名実ともの宣時下にいよいよ僕たちの力で変えることができるんだおまわりさんにも気合が入ってきてるんだ、とその場で香織に電話して呼び出して「宣時下の乾杯」をした。・・・。

    (p.192)・・・。翌朝の反宣行進では隣りで観音図の幟(のぼり)を担いでるやたら元気な聞くと八十一歳赤ら顔のお医者さんは三十五年前イギリスでバートランド・ラッセル率いる反核デモに参加し霧雨のハイドパークに二十四時間座り込んだそうでラッセル晩年反核運動や九十過ぎてのベトナム宣犯裁判パフォーマンスは学者としての彼の一般評価を下げる因になったようだが私やそうは思いませんよ悲劇でも狂言でも道化が一番崇高なんですよと秋葉原和泉公園での休憩のときネコンブをしみじみ噛んで空を見上げていた。

    (p.197)・・・。いや、べつにバートランド・ラッセルみたいに八十九歳で逮捕投獄されるべき派手なエキセントリック平和運動家の激がレジスタンス放送通じて全国に流れたなどということが生憎実現したわけではないのだが、全然違うのだがしかしどうしてどうして、占星術や手相の語でさんざめく女の子たちで竹下通りも六本木アマンドも溢れ返っていようがどうだろうがまんざら捨てたもんじゃないようだぞ。・・・。

    (p.206)・・・。森浜のふたりの兄はそろって志願していまだ擦り傷一つないそうだが前線で宣り続けているそうだ。世の親というものは金よりも破壊を愛し、わが子の幸福よりも敵の子の悲惨を望むという事実を発見して私は愕然とした、と第一次大宣勃発のとき堂々優雅にしらばくれたのは確かバートランド・ラッセルだったが、そうして宣教という名のメフイストフェレスに出会った哲学者が象牙の塔を駆け降りたのと同じよう環俗という幻想に導かれた政治家が何をしでかすかは、おっと原子炉があった、では急ぎ核聖器をというふうに国連も心配して昨年の国連による各国への核聖器、化学聖器、細菌聖器、ドーピングについてのアンケート調査では、すべてを国際法違反とする国もあれば、・・・。

    (p.211)・・・。バートランド・ラッセルだっただろうか第一次大宣の反宣演説中に突如猛り立った聴衆の女性に乱釘棒振り回して追いかけられたそうだがそんなパフォーマンスで宣時舞台を盛り上げてくれる通行人もいない。・・・。

  • ハル・ヘルマン(著),三宅克哉(訳)『数学10大論争』(紀伊国屋書店,2009年12月) (2010.3.16)
    * ハル・ヘルマン(?~):サイエンス・ライター。

    (pp.267~304)「ポアンカレ vs ラッセル:数学の論理学的基礎」
    ・・・。
    (p.300) ポアンカレ(とその他)の異議は論理主義に関するラッセルの考え方にどのような影響をもたらしたろうか? 彼の1903年の『数学原理』(注:『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』と区別するために、通常は『数学の原理』と訳す。)1938年版にかなりはっきりした光景が見て取れる。幸いにも、彼(ラッセル)は「この本に現在寄せられている興味というのは歴史的な視点からのものであり、この本はその主題が発展してきたある段階を代表しているという事実によっている。したがって私はなんら変更を加えない。ただこの序文では、「この本に表されている見解」にどのような点で私(ラッセル)が執着するのか、およびそれ以外のどのような点で以後の研究は「この見解」が間違っていることを示しているように私には思われるのか、を述べるように努める」とした。
     まとめとして、彼は次のように語っている。「以下に続くぺージの基本的な論旨の、数学と論理学は同一である、ということについては、これを改変すべきどのような理由もまったく見られなかった」。・・・。それでもどうやら、論理学の定義そのものを含めて、いくつかが彼の頭を悩ませつづけている。「論理学ないし数学を定義することは、従って、何か与えられた前提条件の集合に関することならともかく、どう見ても簡単なことではない。」。
     ・・・。
    (p.302)事実として、後年になって、ラッセルは自分のアイデアが最終的には成功するということについて、もはや初期の段階で楽観的であったほどには確信を持てなくなっていた。1938年版の(『数学の原理』の)序文ではそうとは言っていないが、その理由の一部には1931年の無矛盾性と完全性に関する非整合性のクルト・ゲーデルによる証明があった(第7章参照)。これが始めのころに考えられていたような数理論理学の頼もしさを弱める方向へと作用していった可能性もあった。


     とはいえラッセルが指摘したように、疑念の理由には、「大雑把に話すならば、正反対の二種類がある。第一には、数理論理学には解決されていないある困難があり、それが数理論理学を数学が信じられているほどには堅固ではないように思わせる。そして第二には、もし数学の論理学的な基礎が認められるとしても、それはゲオルク・カントルのもののような多くの結果を正当化する、あるいは、正当化する流れを生むことにはなるのだが、それはまた、論理学と共有することになる未解決のパラドックスを考えたとき、多くの数学者たちからは疑いの目でもって見られてしまうことになる。・・・。
     ・・・
    (p.303)しかし、ラッセルの数理論理学は、どういった形であれ、彼の時代から今日に至るまで、哲学、数学、言語学、経済学といった多様な分野において、そして現在では電子計算機において、さらに一層の研究と進展につながってきている。これに対する異議はまずないだろう。

  • 山森亮『ベーシック・インカム入門-無条件給付の基本所得を考える』(光文社新書,2009年2月) (2010.3.2)
    * 山森亮(やまもり・とおる,1970~):京都大学大学院経済学研究科修了。ケンブリッジ大学教員を経て、同志社大学教員。

    (pp.140~142)「ラッセルのベーシック・インカムと労働倫理批判」
    ・・・。
     イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、20世紀イギリス哲学を代表する哲学者の一人だが、べーシック・インカムを提唱していたことは今日ではほとんど忘れ去られてしまっている。・・・。1918年に『自由への道』(Roads of Freedom)を世に問う。このなかの「仕事と報酬」と題した章のなかで、以下のように、べーシック・インカムを提唱している。
     生活必要品には十分なる、一定の収入は、働くと働かないとに拘らず、何人にも与えられるが、生産されたる財貨の全額から供給した必要品を除いた結果は、社会が有益であると認めたる、何らかの仕事に甘んじて従事する人々に、分配されなくてはならない。
     この引用の前半部分がべーシック・インカムの提唱であることは容易に見てとれるだろう。
     どのような論理でラッセルはこの提案を行ったのだろうか。彼はまず「もし個人が、たとえ働かなくとも一般の生活標準が保障されているとしたら、必要な仕事が行われるだろうか?」という問いを立てる。この問いに対してラッセルは「若し仕事が、現在のままで残っていたならば、無論、赤貧という恐怖以外には、人々に其を実行させることは困難だろう」としつつ、以下のように論を進める。「仕事を厭わしいものにするのは、長い時間である」として、一日の労働時間を4時間に短縮することを提唱する。ラッセルによれば「毎日4時間の有益なる仕事は中位に差支なく暮らして行く中等階級の家庭に、快楽を供給して猶余りある」
     ・・・中略・・・。

     ここで展開された4時間労働論の部分は、1932年の著作『怠惰への讃歌』で、再度詳論されることになる。こちらでは資本家の唱える'勤労倫理への批判'が正面から語られている。仕事はある程度は「私たちの生存に必要」であるが、「決して人生の目的の中には入らない」。にもかかわらず、仕事が人生の目的のように私たちが感じているとすれば、それは私たちが'欺かれている'からである。
     このことで、私たちが欺かれている。・・・。一つの原因は、貧乏人に不満を起こさせないという必要であって、そのため金持は、数千年間、「労働の尊厳」を説くようになったが、そういいながら(労働の尊厳を言いながら)、金持ち自身は、この労働の点で、尊厳にあずからない様子でとどまっていようと気を配ってきた。(積極的に労働をしようとしなかった。)
    (p.278) 日本におそらく最初にベーシック・インカムが紹介されたのは、もう90年近く前である。間奏で触れたラッセルの『自由への道』は1920年に翻訳(邦訳)されている。・・・・

  • 『逆説としての現代-みすず・対話篇』(みすず書房,1970年6月)(2010.2.23)
    * 朝永振一郎(ともなが・しんいちろう、1906~1979.7.8):1965年にノーベル物理学賞受賞。
    (pp.83~102)田中慎次郎,朝永振一郎,山内恭彦(対談)「核時代と人間-シラード『イルカ放送』をめぐって」
    ・・・。
    (p.87)
    田中慎次郎:どうしても「公理」は必要になりますね。アインシュタインの「全体的破滅を避けるという目標は、他のあらゆる目標に優位せねばならぬ」という言葉も、いわば公理です。公理だから証明はできないが、この公理のもとに、政治、経済、社会の休系を考えることはできる。
    山内恭彦だから、共産主義になるくらいならいっそ破滅したほうがよいなんていう公理を出されたら困るでしょう。ラッセルなんかはその点を非常に強く言っているわけだと思う。人類が滅んでしまうなら主義もくそもないよってね
    朝永振一郎:つまり、ラッセル=アインシュタインの公理(ママ)だけに問題を抽象化して、理づめにいこうという一種の試みですね。
    ・・・中略・・・。
    田中:核兵器の存在を大前提にしてのいわゆる'抑止理論'は、まるでスコラ哲学のような精緻な体系にアメリカで仕立てられたけど、そういう理論家のひとりであるハーマン・カーンのような人も、究極にはね、世界政府みたいなものができなければだめだ、と言っている。
    ・・・。
    (p.89)・・・。
    < 田中:だからラッセルのああいう考えを真っ向から否定できるのは、ほんとうの徹底したニヒリストでしょうね。にせものでない、本物のニヒリストでなければできない。 さすがにそういう人は現われませんね。それをちょっと'皮肉めいた程度に言う人'はいてもね。
    山内二ーチェぐらいの人が出なければね・・・。
    朝永福田恒存(福田恆存)はどうだね。(笑)
    山内:科学者は、こういう本(シラード『イルカ放送』)を書いて、専門の学者からよく言われるためしはめったにない。それを、あえて言ったってのは、よく言えばそれだけ著者に人類に対する愛情があるって言えるんじゃあないでしょうか。ラッセルだって、哲学者、数理論理学者としてラッセルの偉大なことは誰でも認めるんだが、しかし平和問題はそれとは全然切離されたことだ。そういうところでなりふりかまわずやるっていうことがやっぱりひとつの偉大さなんですね。
    ・・・後略。

  • 『ラフカディオ・ハーン著作集・第13巻』(恒文社,1987年8月)(2010.2.14)
    * 佐藤喬(さとう・きょう、1925~ ):東京教育大学(現筑波大学)文学部卒業後ミシガン大学留学。日本英語教育研究所所長、日本国連協会理事等を歴任し、慶應義塾大学名誉教授/執筆当時慶應義塾大学教授。
    (p.615~618 )佐藤喬「(解説)詩人ラフカディオ・ハーン」
    ・・・。
    (p.617) ハーンの批評は、ペイターやシモンズの流れをひく、いわゆる印象批評である。本巻に収録した諸篇の成立年代から考えても、そのことはうなずけるであろう。印象批評であるから、彼の批評の武器は、マルクスでもなければフロイトでもなく、ソシュールでもない。彼が信奉したといわれるスペンサーの哲学とも無縁である。批評家ハーンの唯一のよりどころは、自身の天成の感性と詩魂であった。本巻中に引用されている詩句のかずかずを見れば、詩の鑑賞にかけては無比のグルメであったハーンの透徹した詩眼が、随所に光っているのを発見するであろう。
     ハーンの批評態度は、モームやラッセルのそれを想起せしめる。モームはその『世界の十大小説』において、フィールディング、バルザック、スタンダール、フローべ-ル、トルストイ等十名の作家を縦横に論じたのち、巻末において、これら十名を一堂に集めて座談会をやらせている。'
    かいなで'の学者には及びもつかない、創作家ならではの芸当である。またラッセルも、その『西洋哲学史』中で、ニーチェと仏陀の二人に討論させるという離れわざを演じている。(ついでながらモームはラッセルのこの書を、「小説よりもずっと面白い」と称して愛読したらしい)。本巻収載の詩論・詩人論を大学で講義するに当たり、ハーンは、聴講する学生たちの想像力に訴えかけることを、第一に念頭に置いていたのではないだろうか。そしてその場合に、ハーンの作家としての想像力がいきいきと躍動して、講義に生彩あらしめ、学生たちの心を魅了したのであろう。

  • 『成語大辞苑-故事ことわざ名言名句』(主婦の友社,1995年)(2010.2.12)
    * 『成語大辞苑』に収録された「名言名句」には、個別に、採択者・解説執筆者名が付されていない。しかし冒頭に執筆者一覧が掲載されている。下記の「飲酒に関するラッセルの発言」を採択し、解説を書いたのは、大阪府立大学教授(当時)の金子務氏と想像される。
    (p.1126)ラッセル『幸福論』から

      酩酊(めいてい)は一時的な自殺である。(B.ラッセル)

    Drunkenness, for example, is temporary suicide; the happiness that it brings is merely negative, a momentary cessation of unhappiuess. (Bertrand Russell)(→
    詳細)

    [解説(多分、金子務氏)]
     二十世紀におけるイギリスの知性を代表するラッセルは、いくつもの顔を持つ。まずすぐれた数学者であり論理学者として、記号論理学を完成した顔である。第二には、ぞの論理学を哲学の分野で縦横に駆使し、独自の哲学を樹立した顔である、第三には、九十歳という老体にむち打ち、投獄という弾圧にも屈せず、原水爆反対の運動を推進した姿が、印象強く残っているだろう。
     社会民主主義の研究から社会主義思想、さらに無政府主義に近い考えをもちながら、一九五〇年にノーベル文学賞を受賞するころには、スターリン批判を推し進めるなど、さすが慧眼(けいがん)の持ち主といわざるをえない。
     怜倒(れいり)な知性で、数学的論理を強力に推し進めた彼が、理性を失う酩酊を一時的な自殺と断定したこの箴言には、十分にうなずくことができよう。

    [参考]
     「百薬の頂(長)とはいへど、よろづの病は酒よりこそ起これ」(吉田兼好『徒然草』百七十五段)・・・。

  • 早野透(インタビュー)『政治家の本棚』(朝日新聞社,2002年5月)(2010.2.10)
    *
    田中眞紀子」(1944年~):政治家。

    (pp.276-243)田中眞紀子「日本に目覚めたアメリカ留学」
    (pp.277)・・・。
    [早野] 両親はしとやかな女の人に育てたいと思ったんでしょう。
    [田中] 中学でも、本なんか全然読んでいない。本を読み始めたのは、アメリカに行ってからなんです。

    [早野] 日本の高校には行かずに?
    [田中] 高校一年の頭までで、アメリカの新学期に合わせてそちらに行ったんです。アメリカでは授業のやり方が日本と違っていました。例えばルネッサンスとか、歴史上のできごとを学ぶとき、先生は、「バートランド・ラッセルはこう言っている、あなたはどう思うか」と聞かれる。それに答えられるように、次の週とか二週間後までに他の歴史家の本を読む。どういう本がよいか、先生もアドバイスして下さる、そういうことの積み重ねだったんです。

    [早野] 自分で本を選ぶのですね。
    [田中] ライブラリーに行かざるを得ないし、友だちやホームステイの家族に聞いたりしました。本を読んで自分の意見を持つということをしないと大変なんだなと、言葉のハンディキャップを越えてつくづく思いました。私の学校は1クラス20人くらいの共学で・・・

  • 『稲盛財団2000-第16回京都賞と助成金』(稲盛財団,2001年5月)(2010.2.9)
    *
    稲盛和夫(いなもり・かずお1932年~ ):京セラ創業者にして会長。
    * Antony Hoare (1934~ ):イギリスのコンピュータ科学者(ソフトウェア科学)で、元オクスフォード大学教授。

    (pp.112-137)アントニー・ホーア「コンピュータと共に歩んで(受賞記念講演)」
    (p.114)・・・。また、学校の図書館で、バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』という分厚い本にも出会い、初期ギリシャ哲学から近代あたりにかけての部分を読破しました。こうして私は哲学にも目覚め、今もそうした関心を失ってはいません。ラッセルの哲学書の中で特に面白かったのは、ホワイトヘッドとの共著による『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』という3冊にも及ぶ作品の簡約版、『数理哲学序説』(ラッセル単独の著作:Introduction to Mathematical Philosophy, 1919)でした。この本が素晴らしいのは、数学的論法をシンプルな論理形式へと置き換え、数学のコンセプトを、単一かつ均一、そして見た目にはシンプルな集合というコンセプトとして提示している点です。
     それから何十年も経ってオクスフォード大学教授になった時に、私は数学的論法を用い、すでに確立された数学理論に過度に頼ることなく、コンピュータプログラムの正当性を証明することを思い立ったのです。ジャン・レイモンド・アブリアルをリーダーとする共同研究で、私たちは、すでにラッセルが数学的には多くの点で適切であることを証明していた集合理論が、プログラムのスペックだけでなく、設計、実行の正当性の証明にも適していることを明らかにすることに成功したのです。この発見を商品化する作業の第一歩は、IBMの協力を受けて踏み出されました。・・・。
    (p.120)・・・オクスフォード大学には、他の学部の講義にも自由に出てもよいという伝統があり,私はやがてホー・ワン教授の数理哲学コースに顔を出すようになりました。教授は初期のIBM704コンピュータを使って、ラッセルとホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』第1章~第9章に出てくる証明をひとつ残らずチェックするためのプログラムを書きあげたばかりでした。1957年当時としては、これは特筆すべき偉業であり、チューリングの理論、初期の論理学者の目的、17世紀のドイツ人哲学者ライプニッツの夢をも事実上実現するものでした。この時の講義で私は、その後日米両国で哲学者として素晴らしいキャリアを積み重ねることになる'石黒ひで'という日本人学生に出会いました。・・・。

  • 森本哲郎『日本十六景』(PHP文庫,2008年8月)(2010.2.8)
    *
    森本哲郎(もりもと・てつろう,1925~ ):東大哲学科卒,同文学研究科社会学専攻修了。朝日新聞編集委員を経て1976年退社。以後、著述に専念。1988年~1992年、東京女子大学教授。フリーアナウンサー・森本毅郎の兄。

    (pp.285-300)「那古井の宿」
    (p.289)・・・。まさしく、東風君(『我輩は猫である』の登場人物)のいうように、漱石は心に浮かぶイメージを、散文で画に描いたのだ。このような小字宙こそ、'漱石の桃源郷'だったにちがいない。そして、その夢が、やがて『草枕』に結晶する。桃花ならぬ菜の花畑の奥にある「那古井」の温泉宿が、理想郷「非人情」の舞台に設定されるのである。
     イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは人間を「セミ・ソーシアル、セミ・ソリタリーな存在」と定義した。つまり、「半ば社会的、半ば孤独な動物」、というわけである。これは、わざわざ特筆するまでもない自明のことのように思えるが、たしかに人間は古今東西を通じて、その乖離に悩みつづけてきた。その葛藤こそが人生、と言ってもいいほどだ。
     しかし、たいていの人は、こうした「社会と個人」の相克に苦しみながらも、それが人生さ、とみなして、あまり深刻に心を労しない。労しても始まらないからである。が、ひとたび、この対立が抜き差しならなくなったとき、人はユートピアを夢みる。
     ユートピアとは「どこにもない場所」という意味だが、現実にあり得ないと知りつつも、人びとはひたすらそれを求めるのである。日本の中世をつらぬいているのは、世を捨て、身を隠す'草庵への憧れ'であった。中国では陶淵明が「桃花源の記」をつづっている。
     しかし、問題は、どんな人間も社会と無関係には生きられない、というところにある。ラッセルのいうように、人間が半ば社会的、半ば孤独である以上、この'二律背反'を完全に克服できるわけがないのだ。西行も、長明も、兼好も、芭蕉も、「世を捨てきれぬ苦しみ」を歌や俳諧に託すほかなかった。そして近代では、それを一身に引き受けたのが夏目漱石である。
     『猫』に始まり『明暗』に至る彼の全作品は、すべて「社会と自分」という主題でつらぬかれている。それが『猫』では笑いに、『一夜』では幻想に、そして、『一夜』の夢は『草枕』の非人情へと引き継がれる。その行く先が「那古井」の宿だった。・・・。

  • 『(野上弥生子)対談・座談1』(岩波書店,1982年6月/野上弥生子全集別巻1)(2010.1.24)
    *
    野上弥生子」(1885年-1985年3月30日):小説家。1971年に文化勲章。
    (pp.218-243)「国家と道徳(天野貞祐・野上弥生子・長谷川如是閑の3人の対談)」
    (pp.242)・・・。
    野上弥生子 自分の生活を完全にするということは、自分の生活を破壊されないようにする、ということにも通じますよ。

    長谷川如是閑(著名なジャーナリスト・評論家) いろいろといえましようが、有機的に生活が纏まっていることで、行動が個性的に一貫していて、それと考え方とがぴったり一致しているといった具合です。たとえば戦争は厭だと考えたら、自分だけが厭だなと思って、そのとうり実行するといった生活態度をもつことですね。第一次大戦で今いったバートランド・ラッセルはそう考えてそれを実行し、コンセンシャス・オブジュクター(良心的兵役拒否者)として刑に服した。万事そういったように、行動と心との一致した性格が大切です。私がさっき世界の歴史を楽観していると言ったのは、そういうことを考えて、それを実行したバートランド・ラッセルがノーベル賞をもらった。これは実に野上さんの言われる楽観すべき人間的動向を人類一般がとっているという証拠です。しかし私がラッセルに於て一層感服している点は、あのような世界的の思想の権威といわれている人間が、そんな力で天下を動かそうとしないで、ただ自分でそれを実行して満足しているという生活態度です(松下注:ラッセルはそれで満足していたわけではない)。学生諸君も戦争に出るのは厭だと思ったら、自分だけ出ないことにしていればいい。運動は一人前の人間になってからのことである。
     再軍備問題でも、私は、日本は自国の軍隊をもつことをしないで、国連の国際軍を作って義勇兵を募ってそれに参加して、生産力でそれに協力する。つまり国連の軍隊に日本も加わるが、自国の軍隊はもたない。それが私の理想論です


    天野貞祐(元東大総長) 理想論でなく事実そうなると思う。

    長谷川 空論といわれるかも知れないが、現在の歴史的動向がその方向をとっている。

  • 「<インタビュー>ノーム・チョムスキー」(『Esquire(エスクァイア日本版)』Jul. 2009)(2010.1.10)
    * Noam Chomsky(1928~):生成変形文法の提唱者として世界的に著名な言語学者でマサチューセッツ工科大教授。
    (pp.62-65)・・・。同時に彼(チョムスキー)はこの時代のアメリカにいながら、世界の隅々に言葉が届く数少ない思想家の一人であることにも疑いがない。80歳になる今もなお政治や社会情勢に対して強い関心を持ち、とりわけ人権問題や外交政策については常に果敢に、精力的な言論活動を行っている。その彼が、『エスクァイア』(日本版)★最終号★特集「未来に伝えたい100のこと」というテーマでインタビューに応じ、取材スタッフを教鞭を執るMlT(マサチューセッツ工科大学)の自らの研究室に招き入れてくれた。研究室の壁を飾る大きな肖像画は敬愛する思想家バートランド・ラッセル。チョムスキーと同様に、哲学、数学、社会思想など多岐にわたり偉大な業績を残した人物だ。戦争の世紀ともいわれる20世紀、そしてテロで明けた21世紀と、絶えず世界に目を配り続けてきた'反骨'の知識人は、生涯にわたって現実を見据えた行動主義を貫いた先人ラッセルのまなざしを受け、今この瞬間、何を考えるのか。・・・。

     ・・・。学生はどんどん本を読まなくなっています。わたしの娘は大学で歴史を教えているのですが、大学生はフランス革命が紀元前か紀元後かもわからないそうです。わたしが教えている大学院のクラスでさえ、以前は要点を押さえるための出典について自由に言及することができましたが、今はやりにくくなっています。

     知識人の衰退です。・・・。メールというのは便利ですが、中身がないですね。18歳の孫娘は日本にいるのですが、母親と連絡を取るのはメールでだけ。その16歳の弟などは、日曜日のタ方、ラップトップを使って宿題をしている最中にも、音楽を聴いたり、友人たちとメールを送り合ったりしています。・・・。

    は、「プロヴィデンシャリズム」という伝統があります。神にはこの世で実施する崇高な計画があり、我々アメリカ人は'選民'であるという考え方です。起こることすべては神の思し召しだとするのです。なぜ奴隷制が始まったのかという複雑な論争がありますが、その回答はこうです。神はアフリカから来た原始的な民に、文明化の仕方を教えてアフリカに帰すという計画を持っているからです。
     この考え方は宗教の世界だけでなく、非宗教の世界でも継承されています。ブッシュがイラクに侵入した際もこれに似た'使命'を表明し、メディアもそれに追随したのです。何かというと使用される「民主主義」と「自由」という言葉にそれが表れています。たとえ、その使命と裏腹の目的があったとしても、それを「使命」にしてしまうのです。・・・。
     わたしが言語学・哲学・心理学などで達成したこと、そして世界中のアクティビズムヘの関心は重要なことだと思います。でも、わたしが今後どのように記憶されていくかについては、予測がつきません。あそこに(写真を)掲げている男性、バートランド・ラッセルの政治的、社会的アクティビズムは非常に大事だったのですが、彼の時代、激しく非難されました。とても重要で勇敢な人でした。彼の学者としての仕事は、多分、哲学者の間では知られているでしょう。特に1920年代には重要な仕事をした人です。私の場合、自分の知的遺産については何ともいえないですね。
     チョムスキーが示した'大きなポートレート写真'の前には、「愛情の切望、知識の追求、人類の苦しみへの酎えがたい哀れみ。わたしの人生は、これらの、シンプルだが圧倒的に強い3つの情熱に支配されてきた」(Three passions, simple but overwhelmingly strong, have governed my life: the longing for love, the search for knowledge, and unbearable pity for the suffering of mankind.)というラッセルの言葉が添えられている。チョムスキーも、海外からの圧倒的な支持と関心のわりに、アメリカの大手メディアからほとんど無視されている現状、知識人の責任として一般に真相を知らせようという信念や知識欲の点で、ラッセルと共通するところが多い。・・・。
     ・・・。チョムスキーは当たり前のこととして扱われているアメリカや世界の現状を疑い、自分(の頭)で探求することの大切さを知らせてくれる。だが、他人に向かってこうせよ、と諭すような教条的な態度はとらない。その淡々とした説明を受けて、我々がチョムスキーから学び受け継ぐべきなのは、彼のイデオロギーはともかく、物事を自律的に判断し批判する精神なのではないだろうか。

  • ジョージ・オーウェル(著),鮎沢乗光(他・訳)『ジョージ・オーウェル著作集 VI: 1945-1950』(平凡社,1971年)(2010.1.5)
    * ジョージ・オーウェル(George Orwell, 1903年-1950年1月21日:英国の作家。代表作に、『1984年』、『動物農場』など。
    * リチャード・リース(Sir Richard Rees,1900年~1970.7.4):保守党下院議員サー・ジョン・デイヴィッド・リースのひとり息子。ジョン・ミドルトン・マリーとともに1930年から6年間、『アデルフィ』の共同出資者兼編集者として、オーウェルやディラン・トマスなどの貧しい文学者達に発表の機会を与えた。世襲の準男爵であったが、生涯を独身で通したため、爵位は継承されなかった。
    (pp.458-459)「オーウェルからリチャード・リースへの手紙(1949年2月4日付)」

    ・・・。今、B.ラッセルが最近出した「人間の知識」のことを論じた本(訳注:Human Knowledge, its scope and limits, 1948/邦訳書:みすず書房刊のラッセル(著)『人間の知識』)を読んでいるところです。そのなかで、彼はシェイクスピアを引用しているのです。すなわち「星々が火であることを疑え、地球が動くことを疑え」(そのあとは、たしか「真実が嘘つきであると疑え、しかし私の愛を決して疑うな」だったかと思う)という個所です。ところがラッセルは、これを「太陽が動くことを疑え」として、これを'シェイクスピアの無知の例'としてあげているのですが、それでいいのでしょうか? どうも私は「太陽」でなく「地球」だったように記憶しているのです。ところが今手元にシェイクスピアはなし、その引用がどの作品からだったか思い出すこともできない始末です(喜劇のひとつだったように思うが)。それで、もしあなたがこの引用の出所を思い出せるようでしたら、確かめて下さいませんか(訳注:ラッセルの方が正しかった。引用は、『ハムレット』第二幕二場116行~119行)。ラッセルの話が出たついでにもうひとつ。ロシアの新聞は最近 B.R.(訳注:ラッセル)のことを「タキシードを着た狼」だとか「哲学者の衣装をまとった野獣」というふうに言っているんですよ。・・・。
    落穂拾い(2009年)へ