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1996年8月8日にバートランド・ラッセルのポータルサイト開設  http://russell-j.com 1980年1月から「ラッセルを読む会」代表世話人

島国根性 ’insularity’

【 バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の言葉 r366-c185】

島(国)に住む人々は,大陸に住んでいる人々からこれまでずっと悪口を言われ続けてきた。そして大陸の住民は多数派であるため,彼等(大陸の住民)は自分たちの言い分を,少数派である島国の住民よりもずっと効果的に世の中に受け入れさせてきた。人が住むところとしては,世界最小の島の一つであるシリー諸島への船旅からもどってきたばかりの私としては,島の住民一般に味方して,彼等がそれ以外のことでどのようであれ,彼らは決して世間普通に言われている意味での「島国的」ではない,と立証したい衝動に駆られる。・・。
アメリカ大陸の中央部においても,これと同様ことが生ずる。大部分のアメリカ人は,アメリカの流儀は唯一自然なやり方であり,また,アメリカの統治形態は唯一自然な統治形態であると考え,(従って)アメリカ社会における弊害は,人間本性にとって不可避なものである,と感じている。同じようなことは,多分,中国大陸の中央部や,その他広大で均一な大陸の中央部ではどこでも見られるものであるだろう。 それゆえ,「島国根性」は,島(国)の住人の特徴ではなく,逆に,広大な内陸諸国の住民の間で最も普通に見られる特徴であると思わ
れる。

Men who live on islands have been much maligned by those who live on continents, and as the latter are the majority they have made their case heard more effectually than has been possible for the minority. Having just returned from an excursion to the Scillies, which are among the smallest inhabited islands in the world, I feel impelled to take up the cause of islanders in general and to argue that, whatever else they may be, they are not ‘insular’ in the ordinarily accepted meaning of the term. …
In the centre of the American continent the same sort of thing happens. The bulk of the population feels that American ways are the only natural ways, American forms of government the natural forms of government, and American abuses only such as human nature makes inevitable. The same sort of thing would be found in the centre of China or of any large homogeneous continental area. It would seem, therefore, that ‘insularity’, so far from being a characteristic of islanders, is, on the contrary, most often to be found among the inhabitants of vast inland countries.
出典: On insularity (written in Sept. 21, 1932 and pub. in Mortals and Others, v.1</em>, 1975.)]
詳細情報: https://russell-j.com/INSULAR.HTM#r366-c185
SCILLY-I

乳幼児と礼儀 infants and politeness

【 バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の言葉 r366-c184】

高等動物は全て,喜びを表現する方法を持っている。しかし,喜びを実際に感じない時に,喜び表わすのは,人間のみである。これは「礼儀(politeness)」と呼ばれ,徳目の一つに数えられている。乳幼児の(人を)当惑させる特性の一つは,彼等は本当に喜びを感じた時だけ笑うという事実である。乳幼児は,来客を真剣なまなざしで(目を見開いて)みつめ,相手があやそうとすると,大人の愚かな滑稽な動作(仕草)に対し怪訝な表情を表す。しかし彼らの両親は,即座に乳幼児に,彼とはまったく無関係で無関心な人々が出現しても嬉しいような表情をするように教えこむ。

All the higher animals have methods of expressing pleasure, but human beings alone express pleasure when they do not feel it. This is called politeness and is reckoned among the virtues. One of the most disconcerting things about infants is that they only smile when they are pleased. They stare at visitors with round grave eyes, and when the visitors try to amuse them, they display astonishment at the foolish antics of adults. But as soon as possible, their parents teach them to seem pleased by the company of people to whom they are
utterly indifferent.
出典: On smiling (written in Aug. 17, 1932 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.)]
詳細情報: https://russell-j.com/SMILING.HTM#r366-c184

ちょっとした災難 some small misfortune

【 バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の言葉 r366-c183】

ほとんどの人が(10人中9人までが),ちょっとした災難に見舞われると,なんとなく楽しくなるのは奇妙なことである。35年前(1896年)に,私がはじめてアメリカを旅行した時のことであるが,私が乗っていた汽車が大雪で動けなくなり,乗客が汽車に積んであった食料を食べつくしてかなりしてから,ようやくの思いでニューヨークに着いたことがあった。私は当初,乗客たちがくじを引いて,誰が人肉提供者になるか決めるのではないかと予想したが,それどころか,乗客は全員しごく陽気であった。

It is a curious fact that nine people out of ten become happier when faced with some small misfortune. On my first visit to America, thirty -five years ago, a train in which I was travelling became stuck in a snowdrift so that we did not arrive in New York until a great many hours after all the food on the train had been eaten up. I was
beginning to expect that the passengers would draw lots as to who should be eaten, but, far from that, everybody was in the best of spirits.
出典: Why we enjoy mishaps (written in Feb. 10, 1932 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.)]
詳細情報: http://russell-j.com/MISHAPS.HTM#r366-c183
TP-MO

「人類の歴史」 “the history of the human race”

【 バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の言葉 r366-c182】

 ある日,学校(注:ラッセルが一時期経営していた Beacon Hill School)で,中くらいの背格好の少年が自分より小柄な少年をいじめているのを見つけた。たしなめたところ彼は次のように答えた。「自分より大きな奴が自分をなぐる,そこで私は自分より小さい奴をなぐる,公平だよ。」 この言葉によって,この少年は,「人類の歴史」を要約してみせた。

I found one day in school a boy of medium size ill-treating a smaller
boy. I expostulated but he replied: “The bigs hit me, so I hit the
babies; that’s fair.” In these words he epitomized the history of the human race.
 出典: Education and the Social Order, 1932, p.32 ]

年取った急進派 The aged radical

【 バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の言葉 r366-c181】

我々はいつも変化は必要だと口癖のように言うけれども,そのことを頭のなかでは(理屈の上では)分かっていても,現実における変化には耐えられない。それゆえ,年取った急進派は,彼が無力であるかぎり幸せになれるという悲しい身の上にある。即ち,彼は,いつも行ってきたことはいかなることも,変革の唱道を含め,ほとんど一切やめることはできないが,当然のこと変革の実現自体は含まれていない。

We may remain intellectually convinced of the necessity of change since this is one of our fixed verbal habits, but we cannot bear actual change. The aged radical is therefore in the sad situation that he can only be happy so long as he is ineffective; he cannot stop doing any of the things that he always has done, including the advocacy of change, but not of course including its actual realisation.
出典: The menace of old age (written in Aug. 27, 1931 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.)]
詳細情報: http://russell-j.com/RONEN.HTM#r366-c181
BR-REVRS

価値情緒説 emotive theory of value

【 バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の言葉 r366-c180】

私は,倫理(道徳原理)は情熱に由来するという原理,及び,情熱から出発して何がなされるべきかということ(当為)に到達する論理的に妥当な方法はまったく存在しないという原理を自分の基本的な考え方(基本思想)として採用した。私は,デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)の格言「理性は情熱の奴隷であり,またただそうあるべきである」を採用した。私はこれで満足しているわけではないが,採用することができるとすればこれが最善である。批評家たちは,私がまったく合理主義的であるといって私を責めたがるが,少なくともこの格言に私が同感していることをみれば,私が完全に合理主義的であるわけではないことの証拠となるだろう・・。

I adopted as my guiding thought the principle that ethics is derived from passions and that there is no valid method of travelling from passion to what ought to be done. I adopted David Hume’s maxim that ‘Reason is, and ought only to be, the slave of the passions’. I am not satisfied with this, but it is the best that I can do. Critics are fond of charging me with being wholly rational and this, at least, proves that I am not entirely so.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1:       Return to England, 1969]
詳細情報: http://russell-j.com/beginner/AB31-260.HTM#r366-c180
David_Hume

倫理的知識などというものはない there is no such thing as ethical knowledge

【 バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の言葉 r366-c179】

 私が現在到達している結論は,倫理(学)は独立(自立)している要素ではなく,どこまでも分析していくと最後には政治(政治学の問題)に還元できるというものである。たとえば,(両)当事者(注:国,地域,民族,宗教など)が互角に対抗している戦争(の問題)について,われわれは何を言うべきであろうか。そのような情況では,どちらの側も,自分たちの側が正しい(正義であること)は明らかであり,自分たちの側(注:国,地域,民族,宗教など)が敗れるのは’人類の不幸’である,と主張するだろう。この主張を証明する方法としては,他の倫理的概念,たとえば’残酷(な行為)に対する憎悪’,あるいは’知識あるいは芸術に対する愛’といったような概念に訴える以外に方法はないであろう。セント・ピータース寺院を建立したことでルネッサンス時代を皆讃美するかも知れない。しかし中には,自分は セント・ポール寺院のほうがよいと思うといって皆をまごつかせる者がいるかもしれない。あるいはまた一方の側がついた嘘から戦争が勃発してしまったかもしれず,その嘘もついには他方の側にも同じような虚偽があったことが明らかになるまでは戦いのための賞賛されるべき根拠であるように思われるかもしれない。この様な性質の議論に対しては純粋に合理的な結論というものはまったく存在しない。もしある人が地球は丸いと信じ,他の人が地球は平らだと信じているのであれば,彼らは一緒に航海に出てこの問題を合理的に決めることができる。しかしもし,ある者がプロテスタントを信じ,他の者がカトリックを信じる場合は,合理的(理性的)な結論に達する方法というものは何一つ知られていない。そのような理由から,私は,倫理的な「知識」というものはまったく存在しないと主張するサンタヤーナと意見に同意するようになったのである。しかしそれにもかかわらず,倫理的概念は歴史的にみて非常に重要性をもってきたのであり,倫理をぬきにして人間の問題を概観することは不適切であり,かつ部分的なものになってしまうと感じないわけにはいかないのである。

The conclusion that I reach is that ethics is never an independent constituent, but is reducible to politics in the last analysis. What are we to say, for example, about a war in which the parties are evenly matched ? In such a context each side may claim that it is obviously in the right and that its defeat would be a disaster to mankind. There would be no way of proving this assertion except by appealing to other ethical concepts such as hatred of cruelty or love of knowledge or art. You may admire the Renaissance because they built St Peter’s, but somebody may perplex you by saying that he prefers St Paul’s. Or, again, the war may have sprung from lies told by one party which may seem an admirable foundation to the contest until it
appears that there was equal mendacity on the other side. To arguments of this sort there is no purely rational conclusion. If one man believes that the earth is round and another believes that it is flat, they can set off on a joint voyage and decide the matter reasonably. But if one believes in Protestantism and the other in Catholicism, there is no known method of reaching a rational conclusion. For such reasons, I had come to agree with Santayana that there is no such thing as ethical knowledge. Nevertheless, ethical concepts have been of enormous importance in history, and I could not but feel that a survey of human affairs which omits ethics is inadequate and partial.
 出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
 詳細情報: http://russell-j.com/beginner/AB31-250.HTM#r366-c179

世界が必要としているのは「愛」 What the world need is ‘love’

【 バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の言葉 r366-c178】

 コロンビア大学での最後の講義の末尾で私の言った一節(くだり)でトラブルに巻き込まれてしまった。私はその一節のなかで,「世界が必要としているのは,愛(love),キリストの愛(Christian love),即ち,思いやり(compassion)です」と言った。私がこの「キリストの」という言葉を使ったことで,自由思想家たちからは一般通説の考え方(正統主義)に従ったといって嘆く手紙が,また,キリスト教徒の側からは彼らの教会に歓迎するという手紙が,殺到した。それから10年後に,(反核デモ行進のために収監された)ブリクストン刑務所でそこの教戒師から「あなたが光明を見いだされたことを嬉しく思います。」といって歓迎された時,私は彼に,それはまったくの誤解であること,私の考えはまったく変っていないこと,また私なら’暗中模索している’と言うべきところをあなたは’光明を見いだしている’と言っているということを,説明しなければならなかった。あの時の講義で私が「キリストの愛」(Christian love)と言ったのは,その「愛」を普通の’性的な愛’から区別する意味で「キリストの」という形容詞をつけたのであるが,それはまったく自明のことと考えていた。前後の関係(文脈)からしてこれはまったくあきらかであると本当に想っていた。
(松下注:ラッセルは1929年に出版した Marriage and Morals 第9章(p.96)で次のように書いている。Love, when the word is properly used, does not denote any and every relation between the sexes, but only one involving considerable emotion, and a relation which is psychological
as well as physical. つまり ‘love’ は。’love'(愛情) は,正しく使われた場合は,男女間のどんな関係でも全て指すのではなく,肉体的であると同時に心理的である関係のみを意味する。しかし,誤解をする人もいると思われるために,コロンビア大学の講義では,男女間の愛をいうのではないことを明確にするために ‘Christian’ という形容詞をつけた,ということである。)
 私は続けて,次のように言っている。「もしこの愛を感じるならば,それは生きる目的(動機),行動の指針,勇気の理由,知的誠実のための不可欠の要素をもつことになります。もしこの愛を感じるならば,それは,誰もが宗教において必要とされる一切を持つことになります。」
 上記の発言を,キリスト教について述べていると考える者が誰かいたとしたら,私にはまったく不可解である。キリスト教徒の中には記憶している人もいるだろうが,キリスト教徒がキリストの愛を示してきたのはごく稀にしかなかったということを考えてみればなおさらのことである。私は,うかつにも疑わしい形容詞を使って不測の苦痛を非キリスト教徒たちに与えることになったので,彼らを慰めるために最善を尽くした。この問題に関する私のエッセイや講演(講義)が,ポール・エドワード教授によって,教授自身が1940年のニューヨークにおける私の事件について書いたエッセイととともに,1957年に,『なぜ私はキリスト教徒ではないか』という書名のもと,編集され,出版されている。

I got into trouble with a passage at the tail end of my last Columbia lecture. In this passage, I said that what the world needs is ‘love, Christian love, or compassion’. The result of my use of the word ‘Christian’ was a deluge of letters from, Free-thinkers deploring my adoption of orthodoxy, and from Christians welcoming me to the fold. When, ten years later, I was welcomed by the Chaplain to Brixton Prison with the words, ‘I am glad that you have seen the light’, I had to explain to him that this was an entire misconception, that my views were completely unchanged and that what he called seeing the light I should call groping in darkness. I had thought it obvious that, when I spoke of Christian love, I put in the adjective ‘Christian’ to distinguish it from sexual love, and I should certainly have supposed that the context made this completely clear. I go on to say that,
‘If you feel this you have a motive for existence, a guide in action, a reason for courage, and an imperative necessity for intellectual honesty. If you feel this, you have all that anybody should need in the way of religion.’
It seems to me totally inexplicable that anybody should think the above words a description of Christianity, especially in view, as some Christians will remember, of how very rarely Christians have shown Christian love. I have done my best to console those who are not Christians for the pain that I unwittingly caused them by a lax use of the suspect adjective. My essays and lectures on the subject have been edited and published in 1957 by Professor Paul Edwards along with an essay by him on my New York difficulties of 1940, under the title Why I am not a Christian.
 出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
 詳細情報: http://russell-j.com/beginner/AB31-220.HTM#r366-c178

愉快な経験 a pleasant experience

【 バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の言葉 r366-c177】

私が一般の通説(正統主義)に従わないのは政治問題に限ったことではなかった。1940年に私の身に起こったニューヨークでの性道徳の問題に関する揉め事(ゴタゴタ)は忘れ去られていたが,どの聴衆の心の中にも,年寄りや一般の通説を重んずる人たち(正統主義者たち)がショックを受けそうな事を私が話すの聞けるだろうという期待があった。人間の科学的繁殖(品種改良)に関する議論のなかにはそのような要素がたくさんあった。だいたいにおいて私は,以前(のニューヨークにおける事件の時)には非難排斥される結果となった話とまったく同じことを言って拍手喝采を受けるという愉快な経験をしたのである。
My unorthodoxy was not confined to politics. My trouble in New York in 1940 on sexual morals had blown over but had left in any audience of mine an expectation that they would hear something that the old and orthodox would consider shocking. There were plenty of such items in my discussion of scientific breeding. Generally, I had the pleasant experience of being applauded on the very same remarks which had caused me to be ostracized on the earlier occasion.
* ostracize (v):追放する,排斥する
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
詳細情報: http://russell-j.com/beginner/AB31-220.HTM#r366-c177
MARIAGE

コンラッド(英国の有名な作家)のものの見方 Conrad’s point of view

【 バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の言葉 r366-c176】

 コンラッド(英国の有名な作家)のものの見方は,現代人の物の見方からは,はるかにかけはなれたものであった。現代世界には,2つの哲学がある。1つはルソーから由来するもので,「規律」を不必要なものとして脇に一掃してしまう。もう1つは,--その完全な表現を全体主義のうちに見ることができるが--「規律」を外部から課せられる本質的なものと考える。コンラッドは「規律」は(人間の心の)内部から来るべきものであるという古い伝統に固執した。彼は’規律のなさ’を軽蔑し,また単なる形式的な(外部からの)規律を嫌った。
Conrad’s point of view was far from modern. In the modern world there are two philosophies: the one which stems from Rousseau, and sweeps aside discipline as unnecessary, the other, which finds its fullest expression in totalitarianism, which thinks of discipline as essentially imposed from without. Conrad adhered to the older tradition, that discipline should come from within. He despised indiscipline and hated discipline that was merely external.
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 出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 7:Cambridge Again, 1967]
 詳細情報: http://russell-j.com/beginner/AB17-100.HTM#r366-c176