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(座談会) バートランド・ラッセル, ヴァン・ドーレン及びポーターと『不思議の国のアリス』を語る(1942年)


 ラッセルは1942年に,アメリカのCBSラジオ番組 'Invitation to Learning'で,『不思議の国のアリス』について,Katherine Anne Porter(1890-1980,アメリカの小説家)と Mark Van Doren(1894-1972,アメリカの詩人・批評家)の3人で対談(注:二人ではないので「座談」?)しました。(New Invitation to Learning, New York, Random House, 1942,p.208-220)この対談(座談会)のテキストは Collected Papers of B. Russell, v.10 にも収録されており,以下はその全訳です。

★対談の原文(全文)★

(参考)ドナルド・キーン(著)『私と20世紀のクロニクル』(p.32)から引用:「(コロンビア大学の)必修科目の一つに古典文学研究があり,これはホーマーからゲーテに至る偉大な文学作品を英訳で読む授業だった。かつてマーク・ヴァン・ドーレンに師事していたタンネンバウム先生は,彼こそコロンビアで最高の先生であると言っていた。私はなんとかヴァン・ドーレン教授の古典文学研究のクラスを受講する権利を手に入れた。・・・。)



 以下は,清水眞理子氏にお願いして邦訳していただいたものですが,清水氏の了解を得て,一部松下の好みにより,表現を変えてあります。清水氏は L.キャロルの作品に長い間親しんでおられ,松下はアリスについては新参者ですので,誤訳してるかもしれません。清水氏の訳をお読みになりたい方は,Alice Workshop のホームページ(https://www.geocities.jp/sstst716/index.html)をご覧ください。← 残念ながら、geocities はサービスを終了してしまいました!

ヴァン・ドーレン ポーターさん,今朝は『不思議の国のアリス』を論じるように依頼されたのはなぜかと思われたかもしれませんね。私が挙げることの出来る理由の一つというのはこうです。つまり,貴方も他の私の知り合いの女性たちと同じように,少女の頃,この本を読んで幸福な気分になるより怖いと思ったのかどうか知りたいのです。

ポーター 怖いと思いましたよ。私にはホラー・ストーリーでしたね。とても怖いと思いましたが,当時は,絵が恐怖を起こさせるのかそれとも文字面なのか,分かりませんでした。読み直してみると,文章だということになりそうです。

ヴァン・ドーレン テニエルの挿し絵がなくても怖かったということですか。

ポーター ええ,そうなんです。苦痛,残酷,粗暴,歪んだ論理,無垢な子供を落としいれる罠,これらが混ざり合っており,本当に怖く思いました。

ヴァン・ドーレン 怖いと思われたのは,一つは物語が本当だと信じたからに違いありませんね。

ポーター  頭から信じてしまいました。あの本と他の童話の違いというのはですねぇ,(とっても暗くかつ身の毛のよだつホラーを読みたがるのが私たちですしね,それに昔は子供向けに書かれた物語というのは怖いものだと殆ど決まっていて,そうした怖い話は本当ではないと分かっていたので,怖い話が大好きだったのですよ。実際には有り得ない,単なるお話ですからね。)アリスの物語の場合,日常のありふれた生活の中で設定されているということです。小さなガラスの机があって,上には鍵がのっているとか,家具も庭も花も,時計も,全ては私たちが知っているものですよね,それなのに,馴染みのあるこうしたものが恐ろしく場違いだったわけで,私を怖がらせました。

ヴァン・ドーレン えぇと,ラッセルさん,貴方もここに何故よばれたのかと思われたかもしれませんが,それは全く違った理由からなのです。それでも,[ポーターさんの仰ったことに]似た経験をされたかどうかお聞きしたい気になります。

ラッセル そうした経験をしたことはありませんね。怖いと思ったことは微塵もありませんでした。他の女の方が同じことを,アリスの物語は怖いと思ったと言うのを聞いたことはありますよ。なぜ私が怖いと思わなかったかというと,結局のところ,こんな大変な目に遭うのは女の子であり,男の子は女の子が大変な目にあっても気にしないからなのですよ。

ポーター 残念ながらそれは真実ですね。

ヴァン・ドーレン 男の子は女の子が乱雑に扱われても気にしない,と仰るのですか。

ラッセル 全く気にしませんよ。気にせず,女の子が受けなければならない当然の報いだと思うのですよ。

ヴァン・ドーレン< それは,男の子は,仕返しをすることも出来ずに,女の子に粗暴に扱われるのが普通だからでしょうか。あなたは幼少の時にこの本を読まれたのですか。

ラッセル
ええ,そうです。『不思議の国』と『鏡の国』を読んで育ちました。『鏡の国』は私が生まれた年に出されましたし,どちらの本も私が若い頃はまだかなり最近に出されたものだったのです。私は子供部屋でどちらも初版本を読んで育ちました。誰も初版本が価値あるなんて思いもせず,古くなって褪(あ)せるのに任せていました。小さい頃から暗記して知っていました。

ヴァン・ドーレン あなたの世代の子供たちは,皆,暗記していたのですよね

ラッセル そうです。暗記して憶えていましたね。でも,誰も怖がっていた記憶はありません。それで,ポーターさんが仰ったことを聞き,少しビックリしています。憶えている限り,誰もあの話が本当に有り得るなんて思っていなかったと思います。

ヴァン・ドーレン 最近,知り合いの男性の一人と話していたところ,その人が言うには子供の頃には怖いと思わなかったのに,今は怖いと感じると言っていました。アリスが小さな家[=メリーアンというお手伝いさんと間違われたアリスが白兎に命じられて手袋と扇子を取りに入った家]で身体があまりに大きくなってしまい片腕を窓から出して,片足を煙突から突き出してしまう場面を憶えていらっしゃいますよね。あそこで,あのちっぽけなトカゲのビルは,[白ウサギに命じられて] この緊急事態に対応しようと煙突を下りてきたのに,突然,アリスに蹴り上げられてしまい,[花火のように]パッと打ち上げられたかと思うと,ひどく負傷してしまうのに,アリスは,皆が家の外で「ビルがイッちまうぞ」と言うのを聞くのです。この私の友人ですが,子供の頃は,これを読んでお腹を抱えて笑い転げたのです。友人もその兄弟たちもこれは最高に面白いことだと思ったというのです。でも,今はビルが負傷したことは面白いとは思えないのです。というわけで,明らかに全く違う見方が生じることもあるんですね。

ラッセル それは本当に有り得ることですね。今の人たちは昔の人たちより優しくなっていると思います。それで,昔は面白いと思われていたものが今ではむしろ残酷だと感じられるのだと思いますね。いずれにしても,昔は酷いなどとは感じられなかったのですよ。

ポーター  トカゲのビルは大して気にしているようには思えませんでしたから,残酷さというのも奇妙なものですね。子供としてスンナリ読んで受け入れてしまったもので,今は本当に辛辣だと思うのは,眠りネズミを急須に入れるというものです。子供心にも,眠りネズミは眠っているのだから[苦痛は感じないだろうし,]大丈夫なのだと自分に言い聞かせていたのを思い出します。

ヴァン・ドーレン 大丈夫なんですよ。それに,眠りねずみはどう見ても温かくて湿っぽいところにいたいように思えますしね。

ラッセル 眠りねずみが[急須に押し込められるのを]嫌がるなんて一度も考えたことはありませんね。急須は小さ過ぎるということだけが頭に浮かびましたけど。

ヴァン・ドーレン 眠りネズミはつねられて鳴き声をあげても,代わりに貴方が傷つくことはなかったのですね。あなたにとってこの本は,児童書として完全に満足のいくものだったということになるのでしょうか。そして,恐らく今でもそうなのでしょうか。

ラッセル 当時はそうでしたね。現在は,完全に満足のいく子供の本とは見ていません。この放送のために『不思議の国のアリス』を再読してみましたが,子供向けの本として異議が沢山あると思いますね。実際のところ,この本は「成人指定」というラベルを貼りたいですね。若い人向けの本ではないと思います。

ヴァン・ドーレン 今の若い人たちは,昔の子供たちが好きだったように,この本を実際に好きなのでしょうか。

ラッセル  [私が創設したビーコン・ヒル・スクールなどの]子供たちを観察した経験から判断すると,今の子供たちはこの本を好みませんが,それは,今では昔よりも余りにも沢山の本があるからだと思いますし,私が子供の頃は,教訓が盛られていない唯一の子供向けの本でした。本のなかの教訓には,みんなとてもウンザリしていたんです。

ヴァン・ドーレン この本は教訓を盛り込んだ子供向けの本をからかっていますね。女王はいつも「これの御教訓は…・」と言ってばかりいるかと思うと,「[ことばの]意味に注意しなさい。そうすれば,[ことばに対する]音は自然と出てくるのよ」といった順番が転倒したと思われる途方もない文が出てきますね。

ポーター でも,それは子供は実際はもっと現実的であるからだとも思われませんか。つまり,子供たちは,写実的な,事実に基づいた(ような)お話が好きだからではないですか? 子供向けのファンタジーでさえ,今見ると殆ど全てがグロテスクで深みがなく,心の琴線に触れないのです。漫画のような感じですよね。それに子供向けの本というのは皆,ごく普通の子供が登場しているようなのです。どんな子供に起きても不思議はないちょっと毛代わりした冒険は起こりますが,鮮やかで華やかなものは起こらないのです。

ヴァン・ドーレン わたしにとってそれはとても残念です。現代の子供たちが,いずれにしても現実に即した物語を好むと思われるとあなたが仰るのは当たっていると私も認めます。しかし,時としてメリー・ポピンズのような無味乾燥でない物語が子供たちの間で非常な人気を博したりもします。そうした本も読まれましたか。

ポーター えぇ。まぁ,私としても子供たちが実際のところ現実的な物語というものを好むかどうか断言できかねるのです。多分,大人と同じように,子供たちも他にないから与えられたものを読んでいるだけなのかもしれません。

ヴァン・ドーレン 『不思議の国のアリス』は残酷なために童話として読まれなくなったというのが実際に仰りたいことなのでしょうか。

ラッセル  理由の一つは,そうだと思いますが,また一つの理由として他の本との競争があると思います。大人というのは子供を'あどけない'ものとして軽視しがちであり,子供たちはそれを本の中に見つけると反撥を感じるのです。子供を'あどけない'ものとしない本に出遭うと嬉しいのです。しかし,子供が大人を諭(さと)さない限り,大人はいつも子供を'あどけない'ものだとする(前提とする)本を買い与えるのです。

ヴァン・ドーレン ラッセルさん,『不思議の国のアリス』は子供を'あどけない'ものとしていると仰るのですが,アリスはかなりいたぶられていますよね。それに粗暴に扱われたり,中断されたり,はねつけられたりしています。

ラッセル  そうです。しかも,アリスは常に>笑いを誘う格好の人物になっているのですが,誰もあんなに嘲笑されたくはないものなのです。

ヴァン・ドーレン そうですね。アリスは,宿題のことを思い出すと,自分が入り込んだ新しい世界に持ち込もうとして,自分に話しかけたり,自ら理屈をつけたり,一人で二人分の会話をしたりする子供っぽい習慣を持っているので,御馬鹿さんだとされているのですね。ネズミと出遭ったときのアリスを思い出してください。ラテン語の'呼格'を習っていたため,「おお,ネズミよ」と言う呼びかけでしか,話しかけられません。

ラッセル それも全てちょっと馬鹿馬鹿しいと思いますね。実際のところ,アリスは極めて典型的なヴィクトリア時代の子供で,私の知る現代の大多数の子供は誰一人として「ネズミよ」と呼びかけるなど考えもしないでしょうから,全く違います。そもそも,現代の子供たちはそんなことを思いつきはしませんよ。ヴィクトリア時代の家庭で学ぶことは,現代の子供たちが学ぶものと全く違いますしね。

ヴァン・ドーレン その通りですね。それに,時々ないし恐らく定期的にちょっとこまっしゃくれた子供として,自分が体験したこと以外はどんなものであれ想像することはこれっぽっちも出来ない少女として扱われています。しかし,この本のメリットの大半は,子供向けの本としてであろうと大人向けのものとしてであろうと,そこにあると思うのです。自分が体験したことだけに想像力を限定する者たちを戒めているのですよ

ポーター 自分に起こったかもしれないこと以上のものを体験する機会を与えられずに,現代の子供たちは余りにも沢山の現実的なものに飽食していると仰いましたね。

ヴァン・ドーレン 言いました。まあ,例えば私にとってはですね,子供が「なぜなの」と決まりきったように訊ねると,健康的な回答というのはアリスに与えられた完全に説明を省いた「なぜそうではいけないのかね,いいじゃないか」というものなのです。この説明なしの回答で本当に沢山のことを学ぶと私には思えるのです。

ラッセル この本は「成人指定」にされるべきだという少し前の発言に戻ってもよろしいですか。推薦されているのは成人にはとても相応しい教育ですが,子供には難しすぎます。この本の全体が若い人には難しすぎます。形而上学的なことや非常におもしろい論理学のことも挙げていて,熟考する人には有意義ですが,幼い子供たちには混乱しか起こしません。

ヴァン・ドーレン もちろん,アリスはいつも混乱しています。でも,ラッセルさん,あなたが仰るのは,大人というものは,今日でも,またいつの時代でも形而上学的な教えや論理的に正したり,すっきりさせることを必要としているということですね。

ラッセル 職業柄,私はそう考えざるをえませんね。

ヴァン・ドーレン 実際のところ,ご意見には完全に賛成です。論理学や哲学から御覧になって,この本はまだ興味をかきたてるものでしょうか。

ラッセル
この本は,もちろん,哲学講師が気が利いていると思わせる話題を提供しています。話を活き活きさせたい哲学講師にとってはとても役に立ちますし,哲学を勉強する学生向きの哲学的なジョークが満載されています。しかし,15歳前に読むべきではないと思いますね。

ポーター  さぁ,どうでしょうか。恐らく,仰る通りでしょう。'あどけない'ものとして子供を見る感傷的なヴィクトリア時代の態度について話されておられましたね。ルイス・キャロルはアリスや他の子供たちに捧げる詩で'あどけない'子供たちに対する態度をかなりはっきり示したと,私は思います。自分の本音はとても暗い,とこの物語の中で,キャロルは言っていたと思うのです。

ヴァン・ドーレン お二人とも,恐らく,最高の児童書は常に「成人指定」というレッテルを付けられるべきだという私の考えに同意されないでしょうね。私自身が子供たちと経験したのは--自分の子供たちとの経験も含めて--子供というものは全て理解できなくても,恐らく少しは面食ってしまうでしょうが,面食らったとしても,それでも子供向けの本を楽しむということなのです。

ラッセル まぁ,子供たちは大人が成人に限定する本を何冊か読むべきだと思いますが,それは大人たちがいつもこれに関しては間違っているからなのです。大人が子供に適切なものだと考える本は実際のところそうではないのです。

ヴァン・ドーレン そう仰るのを聞いて嬉しいですよ。

ポーター 子供は大人の本を,年相応以上のものを,冷酷に書かれたもの以外なら読むべきだと,私はずっと思ってきたのです。

ヴァン・ドーレン そうですね,大人には子供がどんなものなのかこれまで一度も充分に明らかにされてきていませんからね。大人は子供はこんなものだといつも想定しているだけですからね。大人がもっとも確信しているときにもっとも間違っている見こみがあるというご意見には,実際,賛成です。ラッセルさん,この本の価値の問題に戻ってですが,形而上学的に,あるいは数学的なレヴェルにおいて,価値があるのかどうかということなのです。気の利いたことを紹介しようとして哲学者が引用すると仰っているのはおもしろいと思いました。まぁ,それでは,結局のところこの本を誉めたことにはなりませんがね。それともなるのでしょうか。

ラッセル 誉めたことになるんですよ。私が,筆頭に挙げる一番勉強になると思うものは,ジョークです。ジョークで出されると,辛いことでもそれほど苦にはならなくなるので,沢山の大事なことがジョークになっているのです。例えば,登場人物たち全てが赤の王様の夢になっているため,赤の王様の目が醒めたら,登場人物たちは皆,消えうせてしまうのかと皆で論じている場面ですよ。

ヴァン・ドーレン それは『鏡の国』の方ですね。

ラッセル  そう,そうなのです。これは哲学的にみて大変有意義な議論です。しかし,冗談混じりに出されないと,あまりにも辛いものになるでしょう。

ヴァン・ドーレン しかし,それが本当に有意義だと仰るのですか。

ラッセル そう,考えるだけの価値があると思われるからですよ。

ヴァン・ドーレン 一つの見方を分かり易く説明するだけに留まらないのですね。見方そのものを問題にしていますからね。

ラッセル その通りです。キャロルは論理学のパズルを創案するのが巧みだったと思いますね。かなり歳をとってから,学術雑誌の『マインド』に自作の二つのパズルを回答をつけずに載せました。回答を出すのは一苦労でした。少なくと私はそう思いました。

ヴァン・ドーレン どちらかのパズルを憶えてらっしゃいませんか。

ラッセル
パズルの一つはとてもよく憶えています。ある少年が二人の叔父さんと外出しようする時に,叔父さんの一人が髭を剃ってもらいに行くと言います。そうして,アレンとブラウンとカーの[3人で]やっている店に行こうとします。その叔父さんは言います。「アレンに髭を剃ってもらうつもりだ」 [これに対し]もう一人の叔父さんが「どうやってアレンが店にいることが分かるんだい」と尋ねます。すると,床屋に行こうとしている方の叔父さんは「論理によって証明できるよ」と応えます。[これに対して]もう一人は「そんな馬鹿な!」と言います。「どうやって証明できるというんだい?」。
 「店番をする者が一人は常にいないといけないというのは分かるよね。そうすると,仮にアレンが外出していて,ブラウンも出ていると,カーが店にいることになるよね。だけど,ブラウンは最近体調が悪いので,一人で外に出られないんだよ。それにブラウンはアレンと喧嘩状態なので,ブラウンの奴,カーと一緒でないと外出しないのさ。そこで,ブラウンが外出していると,カーもいない。ところで,アレンが外出していて,ブラウンもいないと,[ブラウンはカーと一緒でないと外出しないので]カーもいないことになる。また,[アレンが外出していて,]ブラウンがいないと,[一人は留守番が必要なので]カーは店にいることになる。これは不可能だ(注:カーが「いないと同時にいる」ということは不可能)。したがって,アレンは決して外出できないのさ」

ヴァン・ドーレン 三段論法のようですね。

ラッセル もちろん,この論法は間違っているが,どこが間違っているのか示すのは難しい。

ポーター  アリスが二つの本で終始,嵌(は)められる論理の罠,本来の論理から逸れて間違った論理の罠が巧みに描かれていますね。

ヴァン・ドーレン
『不思議の国』にはぶっ飛びの三段論法が沢山ありますね。例えば,骨子だけ言うと,「アリス,お前は卵が好きだ,蛇は卵が好きだ,ゆえにお前は蛇だ」というのがあります。他にも重要だと思われる論理のお遊びがあります。それは,ルイス・キャロルが命題の主語と述語を入れ替えて遊んでいたものです。これは,[論理学で]換位と呼ぶものですよね。なぜ言いたいこと(←言おうとしていること)を言わないのか,とアリスは尋ねられます。「えぇ,少なくとも私が言っている言葉どおりのことを言おうとしている(←意味している)つもりなのよ」とアリスは言っていますね。そこで,アリスは猫と鼠という語を入れ換えるのです。猫は鼠を食べるの。多分,鼠は猫を食べるわ。どっちが本当なの。こうして,遂にどちらの問いがより重要なのか忘れてしまうのです。ニヤニヤ笑いのない猫をしばしば見たけれど,猫なしのニヤニヤ笑いを見たことはない,とアリスは言います。[こうした入れ換えについて考えると,]この本のタイトルにも入れ換えを行うことが出来るのではないかという気になってしまうのではないかと思えてきてしまうほどです。この本のタイトルは『不思議の国のアリス』(Alice in Wonderland)です。しかし,アリスはいつも自分のいるこの特定な世界で全く驚く必要のないことに驚愕している状態にあるから,『アリスの不思議な国』(Wonderland in Alice)とすべきだと思います。例えば,20~30頁進んでからですが,ケーキを食べますが,突然,「このケーキを食べても少しも大きくならないのは変じゃないの」と自問するのですね。自分自身を適合ざせることが出来ない,この新しい世界の関係を憶えることがどうしても出来ないのです。

ラッセル それは当たっていますが,キャロルの本には子供たちのために相応しいものと意図されたのに,そうなっていないものが沢山あります。「鉄道株でスナ-クを脅せ」(注:snark とは,ルイス・キャロル作の The Hunting of the Snarks, 1876 の中に現れる不思議な動物)とかね。子供にはこの意味はチンプンカンプンですよ。

ヴァン・ドーレン しかし,また思うのですが,子供たちが読書好きでないなら,今のように読書が好きでないなら,それだけのことですが,子供だった頃の私自身の経験と現代の子供たちとの私自身の経験からいうと,子供というものはよく分からないことでもするものなんですよ。鉄道株のところまで読むのです。まぁ,鉄道株が何なのか知りたいと思って,それが何か理解するのです。さもないと鉄道株のイメージが何かグロテスクなもの,それもかなり魅力のあるものになってしまうのです。大学生は相対的に自分の能力を少し超えた講義が一番気に入るのです。

ラッセル それはもっともですが,そうなると子供たちを当惑させるのは真面目なもの,理解したとき,真剣なものだと分かるようなものでなければならなくなります。単なるジョークであってはならないのです。

ヴァン・ドーレン
しかし,仰るように,そのような冗談がしばしば哲学的,ないしは形而上学的な問題を偽装しているものだとしたら,この本は本質的に真面目なものなのですね。この本が本当は真剣なもので大変ためになると言おうとずっとしていたと思います。アリスは常に学習していて,経験することは思ったより大したことはないのです,グロテスクだと思ったものが,実際は,グロテスクではないということを学んでいるのです。芋虫,あの茸(きのこ)の上のですね,芋虫にアリスは言います,「身体の形がいつも変わってしまうのは本当にゾッとするわ」と。芋虫は言うのです,「全然,ゾッとなんてしないさ」と。そこで,私たちは芋虫が少なくとも3回,姿を変えることを思い出すのです。

ポーター そして勿論,アリスも実際に変わりますね,一つの形から他の形へと全く違うものになるわけではないのですが,常に変化して成長を続けます。今日のアリスは決して昨日のアリスではないのです。でも,アリスにはそのことが分かっていません。

ヴァン・ドーレン 公爵夫人の赤ん坊を抱きながら,暫く,その赤ん坊の鼻が豚の鼻のようだと思うのです。それから,赤ん坊は豚だと決めると,今度は鼻がかなり美しいと思うようになります。

ポーター
その豚の鼻はとても似合っていて,アリスは見目形の良い豚だと喜んでいます。でも,アリスが混乱したのは経験の論理を全て度外視したことによると考えていました。なぜなら少しは頼りになるような経験があるのに,それなのに,アリスがこの不思議の国に落ちたとき,お分かりでしょう,そうした経験の経過が彼女から取り除かれてしまうのです。確実なものとして言及することが出来るようなものは一つもありません。それと,他にもとても大事なことがあります。僅かの準備しか与えられずに大人の世界を理解しようと子供たちはしており,アリスの精神状態は,そうした子供時代の不確実さと不安の恐ろしさというものを典型的に表わしていますよね。現在より当時のほうがこれはずっと当てはまっていたのです。現在は子供を中心に家族で計画を恐らく少し立て過ぎではないかと思います。

ヴァン・ドーレン 私自身もそう思います。

ポーター でも,アリスは恐ろしく不利な立場に置かれていて,大人や異質で明らかに憎悪を催させる世界と悪戦苦闘していました。この憎悪で一杯の世界がアリスに罠を仕掛けていたからです。あるいは,故意に罠を仕掛けたと思えました。

ラッセル 恐らくそのためにこの本は今よりも昔により好まれたのですよ。そうした特殊の困惑に当時の子供は慣れていたので,現在ほどショックを受けなかったのです。しかし,今はというと,現代の子供たちはそうした困惑に簡単に参ってしまい,あぁ,これは酷いや!と感じるのです。少なくともそう感じる子供たちが今はいるのですよ。

ヴァン・ドーレン 人類にとっては,どちらのやり方がより良いのか,子供たちに大人たちを理解させようと努力させるのが良いのか,それとも大人たちに子供たちを理解させるように努力したほうが良いのか,思案します。

ポーター 実は,あまりにも多くの人が苦労していることの一つは,理解しようと必死にもがいているということだと思います。少しリラックス出来たらなぁと思うのですが。

ラッセル とても賛成ですね。子供をもっと自然にそして自発的に理解して,子供の心理に拘泥しないように出来たら,もっとずっと良くなると思いますね。

ヴァン・ドーレン その通りですね。同様に,子供たちは大人の心理を理解しなければならないという責務から解かれるべきです。

ポーター  まぁ,私が聞いた悲惨なことの一つは,少年に関するもので,4歳くらいの男の子が一人でシクシク泣いているという話なんです。両親は泣いているこの子を見つけて,何が起こったのかつきとめようとするのです。少年は暫く泣いていたのですが,遂に,「あぁ,ぼく幸せになりたいんだよ」と叫んだのです。

ヴァン・ドーレン ラッセルさん,論理学と数学の領域で優れた業績を残されている貴方にお訊ねしたいのは,キャロルは実際に現在,この分野でとれほど重要だと考えられるかということなのです。

ラッセル

キャロルの著作はまさにあなた方のお考えの通りのものです。キャロルはパズルを編み出すのにかなり優れていて,非常に独創的,それにかなり愉快です。しかし重要だとは言えません。例えば,キャロルは形式論理学の本を出していますが,これは他の大部分の形式論理学の本よりもずっと楽しいものです。退屈な「全ての人間は死ぬ運命にある」と言うかわりに,「大部分の腹の空いた鰐(わに)は怒りっぽい」と愉快な命題を言って,話題を面白くしています。それから,キャロルは幾何学の本も書いていますが,楽しいものですが,重要ではありません。彼の著作には重要なものは一つもありません。論理学の領域で彼の最高の業績は,先ほどお話した二つのパズルです。

ヴァン・ドーレン 二つのパズルは論理学的に『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』の論理学的なものよりも優れているのでしょうか,つまり,貢献していると恐らく考えられるのでしょうか。

ラッセル ええ,もちろんです。『不思議の国のアリス』にも『鏡の国のアリス』にもそのような貢献と考えられるようなものは恐らく何もありませんからね。この二つは,粘着気質になりたくない人向きの軽快なものだけを与えてくれています。

ヴァン・ドーレン でも,子供たちにとっては,果たしてどうなのでしょう。つまり,子供はこの2冊を読むことで少し論理的になれるとは言えませんか。

ラッセル そう考えたことはありませんね。

ヴァン・ドーレン そうなると,先ほどの質問は気が重いものですし,そんな質問をした私は叱責を受けてしかるべきだったことになります。しかし,(論理的なのかどうか分かりませんが,)バターは時計に塗ってはいけなかったと言われたときにおかされた有名な誤謬,そして,「でも最高のバターだったのに」という応答は,子供にとって愉快ではないでしょうか。

ポター それはとっても面白いですね。いつ聞いてもおかしい。

ヴァン・ドーレン  あるいは,犬は幸福だと尻尾を振るから狂ってはいない,そして,犬は喉をウォーと唸らせるとき不幸だ,ゆえに,幸福なときに尻尾を動かして唸る猫は狂っている,という証明も面白いですね。

ポーター  それ[=キャロルのノンセンス]は,皆とってもよく分かっていたと思います。

ラッセル 蜂蜜の井戸はどうですか。

ポーター えぇ,蜂蜜の井戸も気に入っていました。

ラッセル 三人姉妹が蜂蜜の井戸から蜂蜜を汲み揚げていたのを憶えていますか。「でも,私には分からないわ」とアリスは言いました。「井戸の中に住んでいたのさ。」「そういうことさ」と眠りネズミ,「いとも深くにね。」

ポーター それも面白かったですね。

ヴァン・ドーレン
三人姉妹は井戸(well)から蜂蜜を汲み上げ(draw)ていました。さらに続けて,眠りネズミは(三人姉妹に代わって)説明します,「えぇ,私たちはちょうど,線描画(デッサン)を描く(draw)のを習っていました。上手く(well)描けませんでした。」 そうして,突然,「絵」(カラーあるいは白黒の塗り画)を描くことを話しています,Mの文字で始まる名前がついたものの「絵」を描くことについて話していますね。「なぜMの文字なの。」「なぜ駄目なんだい。」

ポーター でも,どんなレッスンを受けていたか憶えているかしら。うなぎだったかしら,それとも海中の生き物だったかしら,ゆっくり話したり drawling,延ばしたり,とぐろを巻いて気絶するレッスンを受けていたのは。分かるでしょう,どう訳せばいいのか一度も教えられなかったけれど,その必要もなかった。こうした仕掛自体が愉快だと思います。

ヴァン・ドーレン それによろめいたりreeling,もがいたりwrithingする練習もね。

ポーター [読んだりreading,文字をかいたりwriting,だということだと]理解するまで時間がかかりましたね。

ラッセル 私の息子,幼い息子(注:3番目の妻との間の子供,コンラッド)が本当に好きなのはウィリアム父さんの詩だということが分かったのですよ。真顔で私を見ると言いました,「ウィリアム父さんは歳をとっているけど,とても利口だね。」

ヴァン・ドーレン ご子息はちなみに何歳なのですか。

ラッセル 4歳半です。

ヴァン・ドーレン 鋭いことを言いますね。
ところで,『不思議の国のアリス』には幾つも有名な詩,勿論パロディなのですが,パロディの詩があることを充分に話題にしませんでしたね。ウィリアム父さんの詩が最高におもしろいと思います。同意されますか。

ラッセル しますね,はい。

ヴァン・ドーレン ポーターさん,この詩を読んでくださいませんか。

ポーター 子供のとき読んだときによくしたようにスウィングしながら読んでみますね。


「お年寄りだね,ウィリアム父さん」と若者は言ったのさ,

「それに御髪はとても白くなったね

それでもひっきりなしに逆立ちをしているね

そのお歳では良くないと思わないのかな」

「若い頃は」とウィリアム父さん息子に応えたのさ

「おつむを駄目にすると思ったもんさ

でも,今はもうおつむはゼロりんこって信じて疑わないもんさ

何と,逆立ちは何度も何度もやるものさ。」

「お年寄りだね」と若者は言ったのさ,「前にも言ったけどね,

しかも並外れて御太りになられたね,

それでも,戸口のところで宙返りをしたね,

ねぇ,教えてその理由は何なのか」

「若い頃は」とこの智者は言ったものさ,灰色髪の房を揺らしつつね

「両腕,両足をとてもしなやかに保っておったのでね

一箱千円のこの軟膏を塗ってね

二箱買わんかね」


「お年寄りだね」と若者は言った,「それに顎も弱すぎだね

固い脂肪より固いものを噛むにはね。

それでも鴨は,骨と嘴(くちばし)も一緒に平らげたね,

ねぇ,どうやってそんなことが出来たのかな」

「若い頃は」とお父さんは言った,「法律を好んでな

そして妻とどんな判例も議論したものさ

そうやって筋肉の力が顎に加わったのさ

ずっと我が人生の残りも続いておるのさ。」

「お年寄りだね」と若者は言った「誰も想像だにしないさね

相変わらず視力がちゃんとしていることをね,

それでも鼻の天辺にうなぎを乗せて落とさないのさ

何がそんなに恐ろしく御利口さんにしたのだろうか。」

「3つの質問に応えたよ,それでもう充分だろうさ」

とお父さんは言った。「もったいぶらないでくれよ!

そんなことを一日中,聞いていられると思うのかい

とっとと失せろ,さもなければ階下に蹴っとばしてやるぞ!」

桑原『図説・不思議の国のアリス』の表紙画像