以上引用した文章は、ラッセルの批判者たちの主張を私なりに集約し、やや誇張して代弁してみたものであって、必ずしも、特定の批判者の所説を紹介したものではない。「バートランド・ラッセルという人は2人いる。1人は冷静な科学者であり、今1人は熱情的な社会運動家である。両者は互いにほとんど無関係なかたちで、ラッセルのうちに存在しつづけてきた。ラッセル自身、自分の政治的主張は自分の哲学上の立場とは(理論上は)何の関係もないとのべている以上、ラッセルがこうした2側面を持つと主張して間違いない。彼の学問と実践は全くそれぞれ別箇の領域にあって独立しており、彼の哲学上の立場の研究を通じて彼の政治的実践の理論に迫ろうとすることは不可能であるばかりか徒労である。彼の哲学理論そのものが、もともと実践上の指針を呈示することを拒んでいるからである。このことから、ラッセルの実践運動には、信念はあっても、何か確固とした理論的な裏付けが存在しないことが明らかになる。ラッセルは自己のつくり出した哲学理論を一向に自己の社会的実践の上に用いようとしない。そればかりか、彼は社会運動家たるために哲学者たることをわざとやめた人である。」
ラッセル協会会報_第6号
「もし、ラッセルの政治、社会的著作に歴史的法則の洞察に欠けるところがあるとすれば、それはほかならぬ彼の依って立つ分析哲学の帰結にほかならない。そこに見られるものは、科学と道徳にかんする頑固な二元論であり、人間を社会から切りはなし、孤立した現象としてしかとらえ得ない極端な個人主義的見解である。しかも、科学を単に手段にすぎないと見る彼の見解からは、およそ未来に対する希望など生れてくるはずもなく、そこにはつねに厭世観がつきまとっているのである。彼のとる倫理学説が、価値はすべて主観的情緒的なものによってきまるにすぎない、という見解に立っている以上、そこには客観的な指標は何も示されておらず、彼の言動は、判断の基準を求めるわれわれを徒らに迷妄に導いてゆくばかりである」
「哲学に導入して利益のあるのは、科学の結果でなくて方法である」こうした点から明らかなように、ラッセルの二元論も、それは事実と価値という対象の二領域の性質の違いにもとづくのであって、真理へのアプローチの方法においては共通している。従って、ラッセルの見解を、デカルトなどの、物質と精神の二元論などと混同することは避けねばならない(注3)。
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「科学者は科学のもたらした恐るべき諸結果に対し、責任を担わねばならない。科学の力が悪用されないように努めねばならない。今後科学は人間をより協力的なものへと改造してゆくために用いられねばならない。鎖につなぎとめるべきものは、人間の破壊的情熱である」
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