バートランド・ラッセル 私の哲学の発展(松下彰良 訳)
* 原著:My Philosophical Development, by Bertrand Russelll (London; George Allen & Unwin, 1959)第18章「批評に対する若干の答弁」イントロ索引
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- 自分が一時期もてはやされた後、時代後れだと気づく(発見する)のを見ることは、あまり愉快な経験ではない。
- ヴィトゲンシュタインがいくらか似ている二人の偉大な人物が史上に存在する。
- アームソン氏の著書『哲学的分析』は非常に有益な目的を果している。
- この学派(オックスフォード学派)の著作を読むとき、私は、もし仮にデカルトがライプニッツとロックの時代に奇蹟的に生き返ったとしたら抱いたであろう(抱いた可能性のある)奇妙な感情を抱いている。
- アームソン氏の私(の哲学)に対する(種々の)批判は、一部は誤解によるものであり、一部は真に(純粋な)哲学的不一致(哲学上の見解の相違)によるものである。
- 数学についても物理学についても知覚についても言語の事実に対する関係についても、私自身が言わなければならなかったことは、常にある一定の方法によって進んできた。
- 経験科学に関しては、純粋数学に関して(は)生じない、様々な問題(疑問)が生ずる。
- けれども、アームソン氏は二つの異なる種類の反論(異論)をあげる。
- 原子的事実(の存在)を主張することをやめたことで(やめたからといっ)て、原子的な文を認めることをやめることには必ずしもならない。
- この点と関連して、明確にしておかなければならないもうひとつの混乱があり、それは完全な論理的言語に関するものである。
- 新しい哲学(注:オックスフォード学派の哲学)が、分析的な取り扱いに服する(submitted to 従う)ことを(見るのを)好まない問題のひとつは、経験的証拠の性質である。
- 特に、ある程度もっともらしく見えるけれども注意深い吟味(精査)には耐えられない(ところの)ひとつの議論(論証)がある。
- 経験が経験命題に対してもつ関係は全て いつも誤解されている。
- (しかし)ここでひとつの区別をしなければならない。
- 結論として、アームソン氏が主張する視点について言っておいたほうがよい一般的な見解をいくつかある(ので述べておく)。
- 私は分析の重要性を強く感ずるが、それは私が新しい哲学(注:オックスフォード学派の哲学)に対する異議(異論)の最も深刻なものではない。
- この論文における私の目的は、まずウォーノックの論文「論理学における形而上学」 (アントニー・フルー教授(編)『概念的分析論集 を論じ、次に、同じ問題について、自分自身のために、私自身の主張を少し述べることである。
- 昔々、とても遠い昔のことですが、ある川のほとりにある部族が住んでいました。
- の寓話はウォーノック氏の存在記号(注:∃)についての議論についてのパロディでは決してない(。
- ウォーノック氏は、自分が取り扱う(論ずる)と公言している問題を明らかにするために(これまで)論理学者達のしてきたことを全て、故意かつ意識的に無視している。
- ここで、私は「存在」 という特有の問題に行きつく。
- 論理学の存在論に対する関係は、実際、非常に複雑である。
- この問題が解けたと仮定すると、我々には(次のような)存在論的問題が残される。
- 普遍者は存在するか」という問いは多用な解釈が可能である。
- 理論理学(記号論理学)がなすことは、存在論的地位が疑わしい可能性があるようなところで存在論を確立することではなく、 むしろ、ひとつの対象を指示するという直截的な意味をもつところの語の数を減らすことである。
- ストローソン氏 (Peter Frederick Strawson、1919- 2006:オックスフォード大学モードリン・コレッジ教授) は,1950年の「マインド」誌に、「(外的)指示について」 (On Referring) と名付けられた論文を発表した。
- ストローソン氏の論文には、私がかつて自己中心的語について考察したことを示すような言葉は一語も見当らない。
- 私はまた、(同書p.101以下で)私が論じている事例 - その事例では、私は暗い夜にある友人と一緒に歩いている - にも言及しなければならない。
- 私は、固有名の問題に関するストローソン氏の立場をどう理解したらよいか迷っている。
- このことは、私をさらに別の論点に導く。
- 哲学において、修正されなければならないのは、語彙よりも構文(統語法)である。
- 語(言葉)には、不変の正しい使用法があり、いかにそれが便利であったとしても、いかなる変更も許容されるべきではない、という確信をストローソン氏が示すのは、単に固有名及び(命題の)偽に関してだけではない。
- 細かい事はさておき、ストローソン氏の議論とそれに対する私の返答は、次のように要約してよいだろう。
- ライル教授(Gilbert Ryle, 1900-1976)の著書『心の概念』(The Concept of Mind, 1949年)は非常に独創的であり、また、もし真ならば非常に重要な説(テーゼ)を持っている(述べている)。
- そこで、ライル教授の主な主張をとりあげよう(come now to ・・・に入る)。
- 私は、同様な論理的地位をもつ他の形容詞がどうしてライル教授によって「心的」であると考えられないのか、理解することができなかった。
- 私的データ(訳注:特定の個人固有のデータ)の否定によって引きおこされる困難のいくらかは、彼はたしかに多少扱っている(訳注:"he does deal with" が直前の句全体を修飾している構文に注意)。
- ライル教授は内観( introspection 内省)を知識のひとつの源泉として否定する(認めない)という点で行動主義者とつながる。
- ライル教授の科学に対する態度は奇妙である。
- 知覚の問題は昔から(ごく初期の時代から)哲学者を悩まして来た。
- 同じような考えが色にもあてはまる(適用できる)。
- ライル教授は、オックスフォード学派(←その学派)とともに、生じる諸問題に対して言語的な形態を与えるという情熱的な決意を飾り立てている。
- ライル教授の著書の主要目的は「心的(mental)」という形容詞に新たな定義を与えることであると言えば、彼も同意してくれるのではないかと思う。