「ラッセル徒然草」では、(あくまでもラッセルに関したものという限定のもと)ラッセルに関するちょっとした情報提供や本ホームページ上のコンテンツの紹介、ラッセルに関するメモや備忘録(これは他人に読んでもらうことを余り意識しないもの)など、短い文章を、気が向くまま、日記風に綴っていきます。 m
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(説明文)当館所蔵の明治期・大正期刊行図書を収録した画像データベースです。平成19年7月現在、約143,000冊を収録しています。収録されている資料は、児童図書と欧文図書を除いたもののうち、著作権保護期間が満了したもの、著作権者の許諾を得たもの及び文化庁長官の裁定を受けたものです。
ラッセル著書解題 |
「でもねえ、会社が大きくなって、そのあとで急に図書館を建てるとか、美術館をつくるとか、そんなことは他の人がだれでもやっていることだわ。お金さえあれば、それで簡単にできるようなことなら、わざわざあなたが一生を賭けることもないわ。子どもを育てるときだって、毎日毎日面倒を見てあげなきゃ、いい子に育たないでしょ。10年も20年も子どもを放っておいて、お金儲けをして、さあお金ができたから今度は教育してやろうと思ったって駄目じゃないですか。ゲーテ図書館も毎日育てなくちゃ。建物はお金さえあればりっぱなものができるでしょうけど、中身は一朝一夕で充実したものにならないのと違いますか。どこかのお金もちがやるようなこと、私、嫌いです。」粉川氏がいつ亡くなったかGoogleで調べても検索できなかった。そこで、昨日地元の公共図書館に行き、『20世紀日本人名事典』で調べたところ、1989年7月17日に亡くなったことがわかった(因みに、『20世紀日本人名事典』には、昭和63年に西ドイツ功労勲章一等功労十字章、平成元年に吉川英治文化章受賞と書かれている。)。1975年の夏に、粉川氏(1907.6.19~1989.7.17)にお会いして2時間ほどいろいろお聞きしたことが懐かしく思い出される。(なお、『夜の旅人』読後の成果として、1月22日から1月27日の「ラッセル徒然草」の記述について、数箇所、追記または表現の訂正を行っている。)
・・・。手探りで習作を続けているうちに、私はふと粉川忠さんのことを思い出した。--もしゲーテの熱狂的な蒐集家のところに、ゲーテそっくりの人物が訪ねて来たらどうなるだろうか。蒐集家はその男を剥製にしてひそかにコレクションに加えたいと思うのではあるまいか--。・・・。これをヒントとして私は一篇の小品(注:「ナポレオン狂」)を書きあげた。主人公をゲーテの収集家にしてしまってはあまりにも粉川さんにくっつき過ぎるし、あとでトラブルが生じるかもしれない。そこでゲーテをナポレオンに変え、主人公をナポレオンの蒐集家とした(この作品で直木賞受賞)。・・・。受賞直後のあわただしさが一段落したところで、ゲーテ記念館に赴いて、「実は粉川さんをモデルにして小説を書いたんです。」と告白すれば、粉川さんは、「存じております。知人に、'あんたそっくりの人が出てくるぞ'って言われて、読みましたよ。直木賞をお取りになったそうで、おめでとうございます。」と祝福してくださった。・・・。現在、1/3ほど読み進んでいるが、以前書いた文章(例:ゲーテを読んで感銘を受け、結核がなおったため、ゲーテ資料の収集を生涯の仕事にすることを決意)は、間違ってはいないがニュアンスが多少違うので、「書き方」を少し修正する必要がありそうである(読み終わったら、修正の予定)。なお、『夜の旅人』の詳細は、この「ラッセル徒然草」に関係のないことであるため、読書メモ(抜書き)として、別ファイルとする。興味のある方は、 「→ 抜書き」 をどうぞ。)
やっぱり、この人は小説の主人公となるべき人だな。「ナポレオン狂」のような作品ではなく、もっと真正面からこの人の生涯と事業を書き残しておくべきではあるまいか--その考えを具体化したのが、この『夜の旅人』である。・・・。ところで、『夜の旅人』は、私の初めての長編小説である。・・・。現存する人物の伝記を書く作業は、便利な面もあるが、むつかしいところも多い。筆者が資料を充分に調査し、'この時粉川はこう考えたにちがいない'と判断し、その判断が充分に妥当性を持つものがあったとしても、当人が現れて「いいえ、私はそうは思いませんでした。」と言えば、それで話は決まってしまう。・・・。作品の中に粉川さんの侵入を断じて許さない、私自身の判断を、それとわかる形で挿入する必要を感じ、「私A」と「私B」の対話を挿入してみた。
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・私の知るところでは南沢金兵衛氏は明治の末年に福井県の貧しい農家の三男坊として生まれた。 ・16歳の時、彼はたまたま長瀬鳳輔の「ナポレオン伝」を読んで強烈な啓示を受けた。 ・で、せめてナポレオンについて一切合切どんな知識でも集めてみようと思い立ったのです。(こうして南沢金兵衛氏のナポレオンに関するコレクションが始まった。 ・一方、南沢金兵衛氏は薬問屋に奉公するかたわら、薬包機についてちょっとした工夫を凝らし、これが特許を取り、実用化されるにつれ、経済的にも躍進するチャンスを見出した。 ・南沢金兵衛ナポレオンを除いてほとんどなんの趣味も持たなかった。タバコは吸わず、酒は少々、それも宴会の席などで勧められてわずかに口をつける程度である。結婚はしたが子供には恵まれなかった。 ・彼は収入のほとんどを-妻と自分が生活できるほんのわずかなものを除いて、他の一切をナポレオンのために消費し続けた。 ・東京世田谷の郊外にナポレオン記念館と呼ばれる4階建ての城館がある(館は往時の古城のように深い木立ちの中にあって、秋風だけが時折窓を叩く)。財団法人の形を取っているが、ことごとく南沢氏のコレクションであることは疑いない。老夫婦は4階の片隅に自分たちの住居を作り、あとの3階はすべて南沢金兵衛氏が生涯を賭して集めたナポレオン関係のコレクションで埋まっている。 ・記念館には雑務を担当する女子職員と掃除婦が一人ずつ雇われているが、コレクションの内容についてはまったく知識がない。収集も整理も南沢氏が一人で取り仕切っている。 ・その収集には今で月額百万円以上の費用が当てられている。 ・南沢氏いわく、「ええ、それはもうナポレオンに関するものはなんでも集めますよ。・・・。とにかくナポレオンという字が書いてあれば雑誌でも新聞でもみんなファイルにしてあります。 ・今では記念館のコレクションはフランス政府が勲章を与えるほどのものになっている。 ・話の順序が逆になってしまったが、私(作者)が南沢氏と知り合ったのは、大学の恩師の紹介でほんの一時期フランス語の個人教授を勤めたからである。・・・ |
・粉川氏は水戸出身。粉川家は代々村長の家系。 ・若いころ結核にかかり、長い間病床にあったが、ゲーテを読んでいるうちに直ってしまった。(2008.01.27追記:『夜の旅人』には「結核」とは罹れていない。) ・生きがいを持って一生続けていける仕事はないか考えるため、約2年間徒歩旅行。旅行期間中にいろいろ考えたあげく、ゲーテのおかげで元気になったので、ゲーテに関して何かやろうと決心(後にゲーテ関係資料の収集をすることにした)。 ・ゲーテ資料集のためには資金がいるというので、会社を興して儲け、その利益をゲーテ資料収集につぎこむことにした。 ・睡眠時間を4時間に減らし、一年365日無休で資料の収集・整理 ・(財団法人)東京ゲーテ記念館の建物は、渋谷区神泉の街中にあり、地上7階、地下1階 ・当初は一人でやっていた。1975年現在、職員は5名(その中の2名は、粉川夫婦か? ・経費:維持費だけで月75万円 ・以前は網羅的に収集していたが、1970年頃からは、ゲーテ死後のもので、東洋(西パキスタンから以東、オセアニアを含む)におけるゲーテ文献すべてを収集(西パキスタン以西は某貴族が収集しているとのこと) ・東大教授の木村謹治氏に、昭和15年から20年の5年間、ドイツ語の教授を受ける。 |
設立:昭和26年 |
住所:渋谷区神泉町9番1号(以前は北区にあった。渋谷区神泉の建物は昭和39年=1964年に完成したようである。/→ 平成19年現在、北区にもどっている。) |
建物:地上7階、地下1階(右上写真 拡大する!) |
蔵書等:約8万件 |
資料収集範囲:以前は網羅的に収集していたが、1970年頃からは、ゲーテ死後のもので、東洋(西パキスタンから以東、オセアニアを含む)におけるゲーテ文献すべてを収集(西パキスタン以西は某貴族が収集している由) |
閲覧席:25席 |
分類:ゲーテ十進分類表(粉川氏考案。固まるまでに15年かかった由) |
休館日:日曜祭日及び1、2、7、8月は資料整理のため休館 |
目録:著者名、書名、件名(約130万枚) |
経費:維持費だけで月75万円 |
職員:5名(5名の中には粉川夫婦の2名が含まれていると思われる。/初期の頃は粉川氏一人でやっていたそう) |
財源:川口と川崎に機械工場をもっていてその利益をつぎ込んでいる。(外部から一切援助を受けないという方針) |
利用資格:ゲーテ研究者、ゲーテ関係の出版企画担当者など |
サービス:閲覧及び複写サービス |
その他:長野県に新館をつくり、長期滞在して研究できるようにしたい(訪問時、10年前から土地は購入済とのことであった)。 |
「・・・。2006年を迎えて、このようなことを考えながら、皆さんの学位論文審査報告を私も読ませていただきました。因みに、久木田水生氏は、自分のホームページを開設しておられ、ラッセルに関する以下の2つの論文を閲覧することができる。
ラッセル・アインシュタイン宣言の1人、バートランド・ラッセルは、イギリス生まれの論理学者、数学者、哲学者です。1950年にノーベル文学賞を受賞しました。
文学研究科思想文化学専攻の久木田水生さんの論文題目は、「ラッセルの論理主義」です。主査は、伊藤邦武教授です。本論文は、20世紀前半における数学の基礎をめぐる哲学的反省のなかでも、もっとも代表的理論とみなされるラッセルの論理主義について、その最初の定式化から最終的な立場までの変遷を追って、その理論がいかなる立場であったのかを包括的に検討しようとした研究です。1903年の『数学の原理』から1910年のホワイトヘッドとの共著『プリンキピア・マテマティカ』に到るまでの、ラッセルの論理主義の主張の変化を追跡して、その変化の意義を考察し、従来の批判に対して、『プリンキピア』の理論が論理主義の修正版ではあるとしても、決してその放棄や妥協ではなく、数学についての新しい観点にもとづく洗練された数学の哲学の提唱であったという主張をした論文です。ラッセルの論理主義をめぐる広範な問題について包括的に考察した明解な研究であると評価されました。」
カナダのマクマスター大学にある「ラッセル文庫」(Bertrand Russell Archives)は、この(1970年)2月初め九七歳で亡くなった英国の哲学者バートランド・ラッセルについてのあらゆる資料がそろっていることで有名だが、なかでも十二万通以上に及ぶ個人書簡が最近一部公開され話題を呼んでいる。さすが、'二十世紀の巨人'だけあって、書簡をかわした相手はアインシュタイン、ホー・チ・ミン、シュバイツァー、J.F.ケネデイ、フルシチョフと、豪華な顔ぶれ。
★Bertrand Russell Archives のホームページ
しかし、最も興味深いのは若き日のラブレターの数々。もっとも、生涯四人の妻のうち、後にめとった三人、そして情事の相手と騒がれた他の二人の女性にあてた手紙は、残念ながら、'死後五年間は公開を禁ず'という本人の注文がついている。(AP特約)