バートランド・ラッセル落穂拾い-中級篇(2011/2012)
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<R落穂拾い(中級篇)>は,ラッセルに言及しているもので「初心者向けでないもの」や「初心者向けではないかもしれないもの」を採録。初心者向けはR落穂拾いをご覧ください。
* 鎮目恭夫(しずめ・やすお,1925-2011.7.28):科学評論家。日本バートランド・ラッセル協会設立発起人の一人。
[pp.182-186:自我と世界]
(p.184) 問題の核心はこうである--量子力学の基本理論によれば,宇宙の任意の一部分も全体も,任意の時刻に,種々の物理学的観測(ある粒子の位置の観測とか,ある光の波長の観測とか等々)に対して,いく通りもの値を与えうる状態にあり,観測の結果それらの値のどれが得られるかは予め決定されていない。
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例えば,シュレーディンガーが1935年の論文で示したように,ある適当な装置にいれられたネコ(注:いわゆる「シュレーディンガーの猫)は,観測すると明確に生きているという結果が得られる場合と明確に死んでいる結果が得られる場合とがある「確率」で重ね合わさった状態にある。そしてこのような状態は,シュレーディンガー方程式に従って時間の経過にともない連続的に変化する。ところが,そのような状態に対して観測操作が加えられると,観測される対象が突然不連続的に変化し,ネコの場合なら生か死かのいずれか一方の状態への飛躍がおこる。したがって,もし(アインシュタインが信じたように)客観的世界の存在性にそのような不確定性を許さないなら,量子力学の世界像は,バートランド・ラッセルが「瞬間の唯我論(solipsism of the moment)と呼んだ思想とのみ論理的に両立しうる。この唯我論は,「現在只今の瞬間の自分自身のみが,宇宙に存在するもののすべて」であって,今の自分にとって外界の事物や過去の事物のようにみえるものは,「今の自分」の頭の中にそのようなものとして存在しているにすぎないという思想である。
この唯我論は,極度に独断的・独善的な自己主張と自己正当化の支柱または口実になりうるものであり,かつ前記のような意志の絶対的自由を排除する古典的決定論にもとづく宿命論的諦めの場合に劣らず人々に責任の放棄を促す危険がある。
思うに,論理学的に考えてみれば,上記のような量子力学の世界像は論理的に大変うまい世界像である。すなわち,観測する自分自身の自我をも含めた世界の存在性を,自我を除いた世界の存在性と同次元のものと考えることは,集合論におけるラッセルのパラドクスに当然ぶつかることだが,量子力学は,フォン・ノイマンが1932年の著書『量子力学の数学的基礎』で示したように,観測者の自我を観測対象に含めることを禁ずることによって,ラッセルのパラドクスが自動的に回避されるような 理論構造をもっているのである。
私が今なお奇妙に思うことに,アインシュタインも,その論敵だったボーアはじめコペンハーゲン学派(量子力学解釈の主流派)の人たちも,ノイマンも,ラッセルも,上記の問題点をついに一度も明確に指摘しなかった。
・・・。
青木育志『河合榮治郎の社会思想体系-マルクス主義とファシズムを超えて』(春風社,2011年6刊)(2012.11.14)
* 青木育志(あおき・いくし,1947~ ):1971年に大阪市立大学法学部卒。会社勤務のかたわら,河合栄治郎の社会思想を中心に研究。1994年に『河合榮治郎研究文献目録』出版。また,格差を肯定する「新自由主義」を否定し,平等に配慮した「自由主義へ」を主張(擁護)して『新自由主義』を2010年に出版。
* 河合榮治郎(かわい・えいじろう,1891-1944):社会思想家,経済学者で,自由主義知識人として著名。1920年東京帝大助教授,1926年に教授,1936年に経済学部長となる。なお,東大経済学部内における派閥闘争については立花隆(著)『天皇と東大』に詳述されている。
[pp.314-316:ラッセルとの比較(=河合栄治郎とバートランド・ラッセルの社会思想との比較)]
(p.314) バートランド・ラッセルと河合(河合榮治郎,1891~1944)とでは,河合はラッセルより二〇年遅れて生まれ,二六年早く世を去った。主要な違いは実在論と観念論という哲学上の違いだけである。妻は四人に対して一人という小さな違いはある。社会に果たした学者としての役割はすこぶる似ている。小さな共通点として,タバコ好きではあるが,酒は一滴も飲まなかったことがある。(松下注:いつ頃からかはよくわからないが,ラッセルは,年をとってからはレッド・ハックルというスコッチ・ウィスキーを愛飲している。→「レッド・ハックル(ウィスキー)に感謝」)
)
河合自身は立場の違いということもあり,ラッセルをたいして意識していなかったが,相手陣営の中では注目すべき人物と目していた。「(実在論の中で)特に注目に値するのは・・・,バートランド・ラッセルの三名であろうと思われる(「在欧通信」『全集』第17巻所収)」。また,短時間ではあったが,わざわざ会ってもいる。相手陣営の論客に会うとは普通では考えられない。相当意識していたのであろう(注:すぐ直前では「意識していなかった」と書かれているが・・・?)。「バートランド・ラッセルに会ったのはほんの一寸であった。何れゆっくりと思って,その次手紙を出したときには,アメリカヘ往かれた,という夫人の返事であった」。実際に会うだけではない。河合はラッセルの本をかなり読んでいる。ラッセルの本で河合が読んだものとしては,日記などで確認できるものとして,『自由と組織』(Freedom and Organization, 1934)のマルクスの部分,マルクス主義批判の二書などである。
・・・(中略)・・・。
(p.315) ラッセルはマルクス主義批判に関して容赦ない。ドイツのマルクス主義に関して,『ドイツ社会民主主義』(German Social Democracy, 1896)を,ロシアのマルクス主義に関して,『ボルシェヴィズムの実際と理論』(The Practice and Theory of Bolshevisu, 1920)を出している。また,『西洋哲学史』(A History of Western Philosophy, 1945)の中のアウグスティヌスの章において,カソリック教会とマルクス主義との有名な比較を行っている。いずれの著書においても,マルクス主義批判の筆致は鋭く,痛烈であった。他方,ファシズム批判に関しては,ラッセルは少し鈍かったようだ。ファシズム批判では,わずかに「ファシズムの祖先」[the Ancestry of Fascisum: 『怠惰への讃歌』(In Praise of Idleness, 1935)所収]を著しているにすぎない。ラッセルがファシズムに大した批判を浴びせなかったのは,イギリスにファシズムは育たなかったし,身近に脅威を感じなかったからかもしれない。(松下注:「ファシズム(全体主義)」という言葉をタイトル中に含んだ著書はないが,いろいろな著書や論文・エッセイなどでファシズム(全体主義)をラッセルは批判していると思われるがいかがであろうか? それから,青木氏があげている『怠惰への讃歌』の第6章には「前門の虎,後門の狼-共産主義とファシズム-」が含まれている。単純な見落としと思われる。)
・・・(中略)・・・。
(p.316) 以上,見てきたように,ラッセルは自由主義を説き,社会主義的な社会改造に熱心であり,マルクス主義を批判し,ファシズムを批判し,平和主義に徹してきた。河合の行動に瓜二つではないか。ともに知的勇気あるいは知的率直さ(真理への妥協のない誠実さ,intellectual candour or integrity)の所有者であった。知的勇気とは,知的探究の結果,その結論の正しさを確信するならば,その結論を世間一般に公表して,世間一般の批判を招き,自己の立場が危うくなることが分かっていたとしても,その公表をためらわない勇気,率直さのことである。ともに「千万人といえども我行かん」(松下注:ラッセルが祖母から与えられた座右銘と同じ)の精神の持ち主であった。ラッセルは第一次世界大戦で一人その戦争に反対し,投獄もされた。投獄される危険が予知されたにもかかわらず,敢えて反対表明した。国を挙げての戦争熱の中,多くの友人を失った。『ボルシェヴィズムの実際と理論』によるロシア共産主義批判によって,世界中の社会主義者の支持を失った。それでも自説を曲げることはなかった。河合は二・二六事件のとき,幾多の危険が降り注ぐのを覚悟の上で,軍部を批判した。そして出版法違反事件で起訴され,大学からも追放された。それでも自已の主張を改めることはなかった。
上野正道『学校の公共性と民主主義-デューイの美的経験論へ』(東京大学出版会,2010年3月刊)(2012.11.6)
* 上野正道(1974~ ):現在,大東文化大学文学部専任講師。教育学博士。
* 本書は,博士論文を刊行したもの。
[pp.316-327:1940年の教育の公共性をめぐる到達点]
(1)バートランド・ラッセル事件
(p.316) 一九四〇年になると,教育と公共性に関するデューイ(John Dewey,1859-1952:米国の教育哲学者)の関心は,新たな難問に直面することになる。それは,民主主義の危機という焦眉の問題である。当時の世界情勢は,ファシズムやナチズムが進出し,すでに高度の緊張を孕んでいた。・・・。
そのひとつは,バートランド・ラッセル事件において表面化した。事件は,一九四〇年二月,シカゴ大学とカリフォルニア大学の客員教授として訪米中であったラッセルを,ニューヨーク高等教育委員会(New York's Board of Higher Education)がニューヨーク市立大学(College of the City of New York)の哲学教授に招聘するプランを発表したことを受けて勃発した。ラッセルは,論理学や数学,哲学の分野で名声を博していたばかりでなく,『社会改造の原理』(一九一六年),『結婚と道徳』(一九二九年),『幸福の獲得』(一九三〇年)などの著書を出版して,真実に生きるための恋愛,結婚,離婚の自由に関する主題についても頻繁に論じていた。ところが,宗教的権威が強く作用し,因習的な結婚観が支配しがちな当時の時代状況において,恋愛や結婚に関するラッセルの考え方は,斬新で衝撃的な内容を伴うものであった。まず,キリスト教界がニューヨーク高等教育委員会の決定に対する非難と攻撃を開始した。ニューヨーク聖公会司教のウィリアム・マニング(William T. Manning, 1766-1949)は,ラッセルを姦通の容認者であり,宗教を破壊し道徳を撹乱する者だと公然と非難した。これによって,カトリック,プロテスタント,ユダヤ系,アイルランド系を中心に,ラッセルヘの激しい攻撃が展開され,任命撤回を求める反対運動がアメリカ全土に波及した。
反ラッセルの奔流は,女子学生を娘に持つ母親でカトリック教徒のジーン・ケイ(Jean Kay)がニューヨーク最高裁判所(New York Supreme Court)にニューヨーク高等教育委員会を相手に告訴し法廷に持ち込まれたことで,頂点に達した。ニューヨーク最高裁判所のジャン・マックギーン裁判長(John E. McGeehan, 1880-1968)は,原告の主張の正当性を認め,ラッセルの任命撤回の判決を下した。・・・。だが,裁判の実態は,マックギーン裁判長自身がアイルランド系のカトリック教徒であり,ニューヨーク市当局もカトリックの影響を強く受けていたことから,利害関係の一致したある種の裏取引のような危うさを曝していた。ラッセルは,アメリカの情勢に愕然(がくぜん)とした。背筋が凍りつく想いで判決を聞いたラッセルは,控訴を求めたが要求は却下され,市立大学への彼の任用は反対勢力によって阻止されることになった。
一方で,ラッセル事件に対しては,彼を支持する活動もまた熱心に行われ,任命の正当性を訴え出る動きが活発に見られた。ラッセルと親交のあったデューイは,早くから鋭敏に反応し任命を擁護する中心的な役割を果たした・デューイのほかにも,アインシュタイン,ロバート・ハッチンス,ホワイトヘッド,ホーレス・カレン,アルバート・バーンズ,ドイツの小説家トマス・マン(Thomas Mann, 1875-1955),イギリスの小説家オルダス・ハクスレー(Aldous Huxley, 1894-1963)などが支持を表明した。・・・。
一九四〇年六月一五日の『ネーション』第一五〇号に,デューイは,批判の只中にあったラッセルを擁護する論考を寄せた。彼は,ラッセル事件について二つの問題を提起している。第一は,ニューヨーク州法に従って設立された行政委員会の行為を覆し無効化する裁判所の法的権威に関わる事柄であり,第二は,「社会的に非常に重要な問題について論じた著作の内容を高等教育機関で教授する「権限」を「著者」から剥奪できるのかどうかという問題である。彼(デューイ)は,第一の点に関して,裁判所がこうした「権力」を持つと仮定するならば,教育行政機関は「権力」だけでなく「責任」も剥奪されることになるであろうし,第二の点について,マックギーン裁判長の判決を支持するとすれば,教授内容(注:ラッセルが教えるのはあくまでも理論哲学)の専門性と直接関係しない主題について,「大学教員の口を封じる」ことになるであろうと非難している。さらに問題なのは,ラッセル氏が実際に何を主張したのか,そしてどのような真意でもって彼が主張したのか」という「疑問」について,適切な調査や接近がなされていないことであった。・・・。
一九四一年には,デューイとカレンの編著で,『バートランド・ラッセル事件』が出版された。執筆に貢献(→寄稿)したのは,デューイ,カレン,バーンズ,フックなど,一〇名の研究者たちであった。同書の「序」を執筆したデューイによれば,出版の企画を立案したのはバーンズであった。バーンズは,メリオンのバーンズ財団でラッセルを西洋哲学の講師として雇用する関係にあった。ラッセルをバーンズに引き合わせたのは,デューイであった。デューイの「序」は,バーンズ財団でのラッセルの講義が,それを聴いたすべての出席者たちを満足させるものであったと伝えている。また,バーンズは,ニェーヨーク最高裁判所のラッセル事件の判決に対して,「宗教的寛容と知性的自由」を求めて闘うだけでは納得せず,事件に関わる「公的な記録」を残すべきであると考えていた。デューイは,書物の公刊がそうしたバーンズの提案によって実現したものであると述べている。・・・。
・・・。ラッセルは,後年,絶望の淵に追いやられたみずからのアメリカ生活を回顧して,事件の最中にバーンズ財団の講師として雇用されたときの記憶を次のように綴っている。たくさんの進歩的な考えの教授たちが抗議をしてくれた。けれども彼らはことごとく,わたくしが伯爵だから,遺産をもっていて,裕福に暮らしているにちがいないと想っているのだった。ただ一人だけが,実際にことを運んでくれた。それはバーンズ博士であった。・・・彼はわたくしに,その[バーンズ]財団で哲学の講師をするよう五年間の契約を与えてくれた。これがわたくしを非常に大きな不安から救ってくれたのである。彼がこの約束をしてくれるまでは,当面の難渋をどう切り抜けたらいいか,わたくしにはわからなかったのである。わたくしは英国から金を取り寄せることが出来なかったし,さればといって英国に帰ることも不可能であった。たとえもし,三人の子供たちを英国にかえすための乗船券を入手することが出来たとしても,電撃戦の行われているさ中にかえしてやる気には,わたくしはどうしてもなれなかったのである。またその切符そのものも,たとえ買えるとしても実際に手に入れるのには長いことかかったにちがいないと思う。それやこれやで,ジョーンとケートを大学から退学させ,親切な友人たちの慈悲にすがって,出来るだけ切り詰めた生活をすることが必要であるように思われた。こうした矢先に,わたくしは,バーンズ博士によって窮境から救われたのである。ラッセル事件をめぐって,デューイとバーンズは協調して行動した。恋愛,結婚,離婚についてのラッセルの見識は,学問の道徳性に関わる穏やかな黙約を打ち破り,市民の社会生活の安寧を脅かすというスティグマ(注:他者や社会集団によって個人に押し付けられた負の表象・烙印/ネガティブな意味のレッテル)を負わされ,唾棄されて然るべき内容のように扱われた。ラッセルヘの攻撃は,緊迫した社会情勢を前にくすぶる市民たちの不安を代弁していた。これによって,ラッセルは,ニューヨーク市立大学への任用を妨げられることになった。一方で,デューイ,バーンズ,カレン,フックらは,裁判の不当性を主張し続けた。彼らが危倶したのは,恐怖に支配された市民が批判的な思考と判断を喪失し,正義が損壊していくことであった。それは,茫漠とした思考停止状況を招くことによって,均質的な空間のなかに他者が溶解し,異質な主張や考え方が除去され消滅していく事態を意味していた。これに対して,デューイは,民主主義の政治と倫理を尊重し,閉域のない開かれた公共性の樹立を志向して,ラッセルを援護したのである。
→ (1)バートランド・ラッセル事件の 全文を読む!
(2)教育の査察的統制と蹂躙される権利
(p.326)・・・。だが,デューイの挑戦は,直線的に前進することはなく,さまざまな難局に遭遇し蹉跌をきたした。彼の批判的関心は,学校が査察や統制による一元的な価値指標と規範遵守のうちに支配され,自由と多様性のある教育空間が視野の外部に排斥されて枯渇していくことにあった。それは,異質な考え方を均質的な包囲網のなかに溶解し,他者の存在を消滅させることを意味していた。ラッセル事件や学校への査察的統制は,高度に緊張を孕んだ世界情勢によって不安を煽られ恐怖に駆られた一般市民の当惑を映し出していた。その恐怖は,教育の自由と自立性を封じ込める容赦のない攻撃となって教育機関に発せられた。ラッセルやラッグを「破壊分子」とみなす考え方は社会全域に拡大し,彼らは世間から集中砲火を浴びることになった。一連の状況を前にして,デューイは,人びとの批判的な思考と判断の喪失が招く遮断された視界と閉域的な要塞を解放し決壊させる前途を探った。彼にとって,教育の自由と民主主義を保障し,公衆たちの足枷(あしかせ)のない議論と対話による開かれた正義を実現することは,公共的な事柄であった。・・・。
* マーガレット・A.ボーデン(Margaret Boden,1936~ ):医学,哲学,心理学研究の背景をもつ,心理学の哲学の分野の第一人者。
* 原著: Artificial Intelligence and Natural Man, by Margaret Boden (Harvester Press, 1977)
[pp.335-358:例による学習]
(p.434) ハンプティ・ダンプティとバートランド・ラッセルは,外見上はまったく異なるが,例による学習に関する意見では似ている。つまり両者は,姿かたちはまったく違っているが,例による学習の本質に関する前提(この前提は,一般に行きわたっているものでもある)についてだけみれば,きわめて似ている。ラッセルの「習得による知識」(松下注:→「直接知」)と「記述による知識」の区別を,常識的に表現したのが,次のハンプティ・ダンプティのアリスヘの返事にほかならない。(松下注:「習得による知識」の原文は 'knowledge by acquaintance'。「習得による知識」という訳語はしっくりいかない。高村夏輝氏は岩波文庫版『ラッセル哲学入門』において「面識による知識」という訳語を,中村秀吉氏は社会思想社教養文庫版『ラッセル哲学入門』で「見知りによる知識」をあてておられるが,知覚だけでなく,五感すべてによって直接的に得られる知識のことをいうので,角川文庫版の旧版の生松敬三氏の訳語「直接知」がいちばん適切であると思われる。なお,語感がおかしいかもしれないが,私は「直知(じきち)」という言葉を使っている。 )[それから,『咆囀する(ほうてんする)』って,なんですか?」同種の区別は,「抽象的」な視覚的描写と「具体的」な視覚的描写を対比した第9章においても行った。そこでの議論は,これら2つのいずれにおいても,ある概念を「例によって学習する」ということは,「伝聞による学習」とはきわめて異なっていると同時に,それ以上のものであるということであった。実際,ラッセルは「習得による知識」(→「直接知」)をその直接性のゆえに「記述された知識」からは独立であり,かつそれよりも前の段階にあるとみなしている。つまり彼によれば,「例による学習」とは,抽象化や記述の痕跡のまったくないものであり,事実いかなる解釈も介在しない直接的な理解を意味するものなのである。(出典: Bertrand Russell, The Problems of Philosophy, 1912, chapter 5./原注:ラッセルを正しく評価するならば,「習得による知識」(→「直接知」)という彼の概念は,今日一般に使用されている「例による学習」より狭いものであることがわかる。彼ならば,「咆囀する」の説明を聞くことを,知識と直接かかわる実例による学習のケースとみなすことであろう。しかし,一方で,彼は,例えば,「共産主義者の二枚舌」という直接的な(first hand)知識は,「習得による知識」(→「直接知」)を構成するとは,いわないであろう。その理由は,彼の説は次の点で,エイベルソンと一致しているからである。つまり,「共産主義者の二枚舌」と何かに名祢をつける(そしてそれを経験する)ことは,経験を解釈するのに幅広い,記述的な概念の背景を必要とするからである。)
[ええと,『咆囀する』とは『咆える(ほえる)』と『囀る(さえずる)』の間で,まん中に,一種のくさめがはいったようなものさ。が,その声はお前も聞いたろう--向こうの森の中で--一度聞いたら,もうたくさん,というやつだ。・・・」
(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』岡田忠軒訳,角川文庫,p.94より。)
しかし「例による学習」は,本当に「伝聞による学習」よりも優れているのであろうか。 もしそうだとすれば,なぜであろうか。完全に直接的で,解釈に固有な誤りがないからであろうか。それとも,一般に善いとみなされているものに共通な何か他の理由があるからであろうか。
「咆囀する」の説明を聞いてアリスが満足したのも,なるほどもっともであろう。しかし,それはハンプティ・ダンプティの挙げた例が記述すべきことをすべて明らかにしているからではない。むしろ例とは,彼女が前もって行っていた概念化をテストするとともにおそらくはそれを改良をすることを可能にするものである。アリスは,ハンプティ・ダンプティの挙げる例を聞いた後で,どのような種類の'くしゃみ'がまん中にはいっていたのか,またどのような'咆え声'にどのような'囀り'がまじっていたのかが,わかったであろう。彼女は,「咆囀する」が「囀り」よりも「しゅうしゅう」という声により似ていることを学習し,それによりハンプティ・ダンプティの'記述を改める'ことまでもしたかもしれない。要するにに「目的領域の習得」は,その知識を増大させるが,「習得する」とは目的領域と表現領域の間の特定の解釈の連結(つまり手がかりと図式の関係づけ)を考えつき,それを改良することであって,「習得する」ことによって,一般に表現領域があり余るほど豊富になることはない。
人口知能も,目的となっている意味のある現実の表現をある程度生成し改善することによって,例(そして反例)による学習を行うことができる。・・・。(後略)
* 安川悦子(やすかわ・えつこ,1936~ ):名古屋市立大学名誉教授。1982年に『イギリス労働運動と社会主義 「社会主義の復活」とその時代の思想史的研究』で名古屋大学から経済学博士号授与,同年同書で労働関係図書優秀賞受賞。
[pp.432-446:補論3 「イギリス社会主義をめぐる二つのオールタナティヴ --都築忠七(編)『イギリス社会主義思想史』を読んで--」(初出:『ロバート・オウェン協会年報』v.13号(1988年)所収)]
(p.434) ・・・。どうしてなのか? 本書には,二つの相対立する「イギリス社会主義思想」の伝統が,けっして自覚的に調整されることなく「オルタナティヴ」として提起され,時には,一方が他方の「オルタナティヴ」を否定するままにされていることに原因がある。一つの伝統は,「労働の復権」の系譜,いいかえれば「サンディカリズム」の伝統をうけつぐもので,労働者が自らの労働の場を確保し,労働過程を自分の手に収めることに主眼をおくものである。オーエンの協同社会構想やマルクスの生産協同組合観,トム・マンの「サンディカリズム」やラッセルの「非革命的サンディカリズム」への共感などが,ポジティヴな「オルタナティヴ」としてここでは析出される。労働の喜びと労働の自由の確保という労働者の主体的側面がこの伝統においては何よりも問題にされる。
もう一つの伝統は,「サンディカリズム」に対置していえば,「コレクティヴィズム」とでも名づけうるもので,「経済の計画化」に力点がおかれる。・・・。
(p.435) ・・・。政治の部面であれ組合や個人生活の部面であれ,官僚的統制と計画を否定する「サンディカリズム」的態度と,一九世紀末チェンバレンが提起したような,集権と計画と統制を求める「コレクティヴィズム」的態度とは,たがいに相容れる構造をもたない。価値のベクトルは逆をむいている。イギリス社会主義のこの二つの伝統をひきついだところで抽出される二つの「オルタナティヴ」をどううまくかけあわせて,一つのポジティヴな「オルタナティヴ」とするか。編者・都築に期待されたのはこのところであった。・・・。
(p.439) ・・・。ロイドン・ハリソンは,この「サンディカリズム」と「コレクティヴィズム」という二つの対立するキイワードを,バートランド・ラッセルにおける「自由主義」と「社会主義」というキイワードにおきかえて,二つの間の関係を明らかにしようとした。一九世紀末から二つの世界大戦をとおりぬけて活躍するラッセルの思想の本質は何であったか。「自由主義」と「社会主義」を対立する概念とみなした上でラッセルを「自由主義」の文脈にひきよせて評価するアレヴィに異をとなえたハリソンは,ラッセルを,「自由主義」も「社会主義」も手ばなさなかったヒューマニストとしてつかまえ,ラッセルの曲折にみちた思想の軌跡をあとづけながらラッセルにおける「自由主義」と「社会主義」との関係を明らかにしている。
ハリソンが引用するところによれば,一九二〇年にラッセルは次のように書いた。「私は,(第一次)大戦の結果,自由主義から社会主義へ移った者のひとりだが,それは,私が自由主義の理想の多くを賛美しなくなったためではなく,社会の経済構造の完全な変革のあとでなければ,その理想を実現する機会がほとんどないように思われたからである。・・・。私が社会主義というのは,気のぬけた体制ではなく,徹底的な改革のことである。・・・。仕事における自治,自律が,征圧すべき自由のあらゆる形態のなかでもっとも重要なものである。人の仕事は,もっともふかいところでその人にふれるものだからである」と。このときラッセルは,「自由主義」の理想を実現するために「社会主義」,つまり「社会の経済構造の完全な変革」を必要とするとみなし,手に入れるべき「自由」とは,なによりも「仕事における自治,自律」であると考えていたことが明らかにされる。ラッセルの「社会主義」は,アレヴィが定義するような「社会主義」(つまりシドニー・ウェッブやレーニンの文脈の中にあるのではなく,「ロバート・オーエンやウイリアム・モリス,コールやトーニーの文脈の中にある(一五四ぺージ)とハリソンは説明する。「非革命的なサンデイカリズム」(一五六ぺージ)こそがラッセルの到達した思想的地平であったとして,ハリソンはそれに共感をよせている。
こうしたラッセル評価をとおしてすけてみえてくるハリソンの「オルタナテイヴ」はどのようなものだろうか。曲折に富むラッセルの思想と行動を分析するなかでハリソンは,計画や集権を重んじる「コレクテイヴイズム」の文脈よりも,「自由主義」の伝統をひきつぐ「サンディカリズム」の文脈で「オルタナテイヴ」を考えようとした。労働過程における「自由」や「自律」の問題が今なによりも問われていると,ハリソンは,ラッセルを通じて語っている。・・・。
* Richard Norton Smith(1933~ ):1975年にハーバード大学卒業。
* 村田聖明(1922~?):ジャパンタイムス論説委員時代にボーン賞受賞。
* 南雲純(1920~?):東大法学部政治学科卒。
[pp.105-168:偉大な同化主義者]