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バートランド・ラッセル 自伝 第1巻第7章 - ハーバード大哲学科の教授連(松下彰良 訳)- The Autobiography of Bertrand Russell, v.1

前ページ 次ページ v.1,chap.7 (Cambridge Again) 目次 Contents (総目次)

 私は,ニューヨークからまっすぐボストンまで(約350km)旅をした。そうして汽車(train)の中で,私の隣に座った2人が,ジョージ・トレヴェリアン(George M. Trevelyan, 1876-1962:英国最大の歴史家の一人で,ラッセルの知人)について語りあっているのを聞いて,とてもくつろいだ気持ちになった。ハーバード大学では全ての教授と会った。誇りをもって言うが,私は,ローウェル教授(注:Lawrence Lowell: 当時ハーバード大学長) -- 彼は後に,サッコとヴァンゼッティの虐殺に組した-- に対して激しい嫌悪を感じた。(注:ラッセルが無実と信じる人間が死刑にされたので'虐殺'ということか。因みに,ローウェル記念講義はローウェル学長を記念したもの/参考:サッコ・ヴァンゼッティ事件)。彼を嫌う理由は私には何もなかったが,それでも,当時,彼を嫌う気持ちは,後に社会の救世主としての彼の資質が明らかにされた時と同様強いものであった。ハーバード大学で私が紹介をうけた教授(たち)は,皆次のようなスピーチを私に対して行った。
「ラッセル博士! 疑いもなくあなたもお気づきと存じますが,私たちハーバード大学哲学科は,最近,3大損失をこうむりました。私たちは,評価の高い同僚の,ウィリアム・ジェームズ教授William Jamea, 1842-1910)をいたましい死によって失いました。サンタヤーナ教授George Santayana, 1863-1952)は,疑いもなく当然だと彼が思う理由によって,住むところをヨーロッパに定めました。最後に-(3番目だからといって)重要性が最も少ないわけではないですが-,ロイス教授Josiah Royce,1855-1916/ジョサイア・ロイス/上写真参照)は,--幸いなことにまだ私たちとともにありますが-- 脳卒中に罹ってしまいました。」

ラッセル著書解題
 このスピーチは,ゆっくりと,厳粛に,またもったいぶってなされた。そのようなスピーチに対し,私も何か言わなければならないと思うような時がやって来た。そこで私は,ある教授を紹介された次の機会に,スピーチを全速力でまくしたてた。けれども,こうした工夫もまったく無駄だということがわかった。その教授は答えて曰く。「その通りです,ラッセル博士。あなたがまったく正しく観ておられるように,ハーバード大学哲学科は,・・・」。そうしてそのスピーチは,冷酷な結論を導いた。これはハーバードの教授連中についての真実なのか,あるいはアメリカ人についての真実なのか,私にはわからない。しかし,前者(教授連中についての真実)であると私は思う。私は,(彼らの家に食事に招待されて)ハーバードの教授たちと一緒に食事をした時,別の真実(事実)にも気づいた。すなわち,彼らは,いつも(私の)自宅への帰路を教えてくれたが,(彼らの家への道順を教えてくれなかったので)彼らの助けなしに,彼らの家を発見しなければならなかった(日高訳では,「私が彼らと一緒に食事をしている時に,いつも,自分たちの家への帰路を教えるのであった--私は,こうした助けなしに,彼らの家を訪れる道を探さなければならなかったところであった。」となっているが,これでは意味不明)。ハーバード大学の教養・文化(カルチャー)にはいろいろ限界があった。(たとえば)美術のスコフィールド教授(William Henry Schofield, 1870-1920)が,アルフレッド・ノイズ(Alred Noyes,1880-1958)を優れた詩人であるとみなしていた(ように)


* 写真(ハーバード大学)出典:R. Clark's B. Russelll and His World, 1981.

I travelled straight from New York to Boston, and was made to feel at home in the train by the fact that my two neighbours were talking to each other about George Trevelyan. At Harvard I met all the professors. I am proud to say that I took a violent dislike to Professor Lowell, who subsequently assisted in the murder of Sacco and Vanzetti. I had at that time no reason to dislike him, but the feeling was just as strong as it was in later years, when his qualities as a saviour of society had been manifested. Every professor to whom I was introduced in Harvard made me the following speech:
'Our philosophical faculry, Dr Russell, as doubtless you are aware, has lately sutfered three great losses. We have lost our esteemed colleague, Professor William James, through his lamented death; Professor Santayana, for reasons which doubtless appear to him to be sufficient, has taken up his residence in Europe; Last, but not least, Professor Royce, who, I am happy to say, is still with us, has had a stroke.'
This speech was delivered slowly, seriously, and pompously. The time came when I felt that I must do something about it. So the next time that I was introduced to a professor, I rattled off the speech myself at top speed. This device, however, proved worthless. 'Yes. Dr Russell.' the professor replied: 'As you very justly observe, our philosophical faculty. . . ,' and so the speech went on to its inexorable conclusion. I do not know whether this is a fact about professors or a fact about Americans. I think, however, that it is the former. I noticed another fact about Harvard professors: that when I dined with them, they would always tell me the way home, although I had had to find their house without this assistance. There were limitations to Harvard culrure. Schofield, the professor of Fine Arts considered Alfred Noyes a good poet.
(掲載日:2006.02.26/更新日:2011.6.4)