バートランド・ラッセルのポータルサイト

バートランド・ラッセル落穂拾い-中級篇(2014年)

2011-2012年 2013年 2015年 2016年 2019年 2020年

索引(-出版年順 著者名順 書名の五十音順
<R落穂拾い(中級篇)>は,ラッセルに言及しているもので「初心者向けでないもの」や「初心者向けではないかもしれないもの」を採録。初心者向けはR落穂拾いをご覧ください。s・

日本弁護士連合会(編)『日弁連二十年』(日本弁護士連合会,1970年5月刊)(2014.9.22)
(pp.295-299:(沖縄)土地問題

(p.298)・・・。右報告書(1956年9月10日付「沖縄人権問題に関する報告書」)は,九月の(日弁連の)全体理事会で承認され,政府,国会筋にも提出された。また,米国政府,人権協会(Civil Liberty Union)及びラッセル協会にも送付され,それぞれ善処を約束する返信を得るなど,多大の反響があった。(注:
ラッセル協会が設立されたのは1965年のことであるので,おかしな記述となっている。執筆者の勘違いか?)
 昭和三二年六月,沖縄返還時期や日米安全保障条約改訂の打診のため渡米する当時の岸信介首相に対して,十二日付で,(沖縄の)施政権返還努力要請をしている。
 このような日弁連の活発な動きに対し,琉球弁護士会では,同年二月,会長名で日弁連に対し,現地調査の要請を行った。本土と沖縄の弁護士会が相携えて沖縄問題に取り組むこととなった訳である。・・・。

(pp.332-333:ベトナムにおける戦争犯罪調査

(p.332) 一九六六年春イギリスの哲学者バートランド・ラッセル卿の提唱にもとづき,ベトナムでアメリカ軍が行なっている戦争犯罪を裁くための民間人を構成員とする調査委員会(ラッセル法廷)が設置された。わが国でもこれにこたえて「ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会」が設置されて,多くの法律家がこれに加わった。ラッセル法廷は一九六七年五月ストックホルムで,同年一〇月ロスキルド(コペンハーゲン郊外)で開かれ,アメリカはベトナム人民の独立を犯し,ベトナムを侵略し,ジェノサイド(民族皆殺し)を意図し,戦闘員非戦闘員に対し残虐な行為をしているかどで有罪であると宣言した。ラッセル法廷には日本の森川金寿弁護士が法廷メンバーとして参加した。
 日本でも一九六七年八月東京で,ベトナムにおけるアメリカの侵略と戦争犯罪,および日本の政府,財界の共犯行為を調査する東京法廷が開かれ,三日間の審理の結果,次の宣言をした。・・・後略・・・。

ベン・ステイル(著)小坂恵理(訳)『ブレトンウッズの闘い-ケインズ,ホワイトと新世界秩序の創造』(日本経済新聞社,2014年8月刊 4,968円)(2014.9.15)
* ベン・ステイル
(Benn Steil,1947~ ):米外交問題評議会シニア・フェロー
* (ジョン・)メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes,1883-1946年4月21日):著名な英国の経済学者。

(pp.85~131: 第4章 メイナード・ケインズと貨幣という厄介者)

(p.91) ・・・。ハリー・ホワイト(注:Harry Dexter White,1892-1948年8月16日:ルーズベルト政権のヘンリー・モーゲンソー財務長官のもとで財務次官補をつとめた.)はすすんでアメリカ陸軍に志願し,戦争中はフランスで軍務についた。ケインズは大蔵省に勤務しているかぎり徴兵を免除される資格があり,国内にとどまった。しかし一九一六年二月,ケインズは意外にも,良心的兵役忌避の資格を申請している。なぜかといえば,徴兵は本質的に自分の選択の自由を侵すからだという。「私がどんな義務を果たすべきか,あるいは果たすべきでないか,このような問題に関して決定する権利を他人にゆだねるつもりはない。そんなことをするのはモラルとしてまちがっているとしか思えない」と申請書のなかで述べている。なぜこんな行動をとったのかといえば,ケインズはブルームズベリーの友人たちから個人的な圧力を受けていたためだ。ダンカン・グラント,リットン・ストレイチー,ほかにはケンブリッジの仲間,とくにバートランド・ラッセルとD・H・ロレンスから,大蔵省を辞めて戟争に反対の立場をあきらかにするよう迫られていた。ケインズは原則として戦争に反対しているわけではなかったが,一九一六年の一月には戦争行為にためらいを見せるようになっていた。このような状況から判断すると,良心的兵役忌避の資格申請は,大蔵省を辞職して徴兵免除の例外が認められなくなる事態を想定しての一種の保険だったように思える。

松村敏彦『ジョウゼフ・コンラッド -比較文学的研究と作品研究』(大阪教育図書,2012年11月刊 3,700円+税)(2014.9.2)
*
(松村敏彦,1947~ ):関西大学・龍谷大学非常勤講師,文学博士。
* ジョウゼフ・コンラッド(Joseph Conrad, 1857年-1924年8月3日):


 ラッセルは,オットリン・モレル夫人(注:ラッセルの愛人)の紹介で,ジョウゼフ・コンラッドの自宅を訪れています。会って話をしたのはたった一度だけですが,コンラッドの世界観・人生観は自分のものと非常に似ていると感銘を受けます。
 ラッセルは『自伝』のなかで,コンラッドの小説のなかでは,『闇の奥』(注:舞台をヴェトナムに移して,ヴェトナム戦争の悲惨さを描いたコッポラ監督「プラトーン」の原作として有名)を特に優れた作品としてとりあげています。また,ラッセルは,コンラッドの了解のもと,自分の息子2人の名前の一部に,コンラッドを加えています。
 松村氏は,本書で,ラッセルについて7,8ケ所で言及しています。ここでは,4ケ所ご紹介します。詳しくは本書をお読みください。


(pp.3-60:宮崎アニメとコンラッド文学)

(p.41) 『闇の奥』は,コンラッドが“Before the Congo I was just a mere animal" と告白する彼の生涯における分水嶺となったコンゴ体験に基づくもので,コンラッドの作家として誠実な使命感から創作されたものである。瀬藤芳房教授の指摘にあるように,コンラッドは,「近代西欧の体制に埋没した言葉に疑問を投げかける実存的挑戦」を試みたのである。
 ・・・
 ・・・。「平和なコンゴ住民の大量虐殺を行ったレオポルド二世(第2代ベルギー国王ベルギー王,1835年4月9日 - 1909年12月17日/在位:1865年 - 1909年))の正体を,ひいては当時の植民地支配の実態を,バートランド・ラッセルは,その著作において次のように明らかにしている。--「レオポルド王はコンゴ河流域を譲り受けると,自分の意図は純粋に博愛精神によるものだと宣言した。彼は色々の法令を出してすべての土地,すべてのゴム,すべての象牙を,国-すなわち彼自身-の財産とした」と(『ラッセル『自由と組織』第2巻(みすず書房,1960年,p.302))。ラッセルの証言を裏付ける当時のアフリカの実態をユネスコが次のとおり報告している。--「アフリカの歴史上,急激な諸変化の中でも,最も根本的かつ劇的 --悲劇的ではあったが-- なものは,1890年から1910年までの20年間に生じている。この期間には,帝国主義列強による事実上のアフリカ全土の征服と占領,更に植民地体制の確立がある。1910年以降は基本的にはこの体制の強化と搾取に費やされている」と。・・・。

(pp.61-111:飛行士サン=テグジュペリと船乗りジョウゼフ・コンラッド)

(p.90) ・・・。またサン=テグジュペリはコンラッドの「台風」を意識して,「操縦士と自然の力」を執筆していた。その冒頭においてそれを明記している。また1913年9月18日にコンラッドに初めて会って,「人生や人間の運命」('human life and human destiny')(The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, p.207)についてある根本的な点で彼と強く共感する思想の一致を見たバートランド・ラッセルは,後年の『自叙伝』において,「コンラッドの関心は,自然と対峠する人間の個々の魂であり,その代表作の一つが「台風」だ。(中略)読者はマックファー船長の語ることを通して,彼が成し遂げたこと,思い切って為そうとしたこと,困難と闘って耐え忍んだことの全てを知るのだ」(The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, p.208)と明言している。・・・。

(pp.209-236:ジョウゼフ・コンラッド『密偵 -「白く塗りたる墓」ロンドン-』)

(p.211)バートランド・ラッセル(Bertrand Russell,1872-1970)がその著『記憶よりの肖像』(Portraits from Memory and Other Essays,1956/邦訳書:『自伝的回想』)において述べているように,「彼(コンラッド)は外部から強いられた規律を軽蔑していたが,自分の内部から規律を作ることをしない無規律も嫌悪していた」。いったん海に出れば,国家の統制から離れることとなり,そこでお互いの間に規律や団結がなければ,例えば,嵐の際に船乗りの規律を破壊したり妨害したりする無政府主義者が存在すれば,全員がたちまち海の藻屑と化してしまうからである。

(pp.237-271:戦争とコンラッド文学--短編「エイミー・フォスター」と中編『闇の奥』を中心に--

(p.248) コンラッド文学の想像力の本質を「孤独と異様なものへの恐怖」と看取したラッセルは,この'lonelines'と'despair'という二つの単語を'alone'と'hopeless'に置き換えて,‘He dies alone and hopeless' とし,異国に漂着した「難破者」('a castaway')ヤンコーの境遇とコンラッドが味わった流刑地での両親との死別という天涯孤独の境遇とを重ね合わせて,「この男の寂蓼をいかほど作者が英国人の中で感じ,強い意志の力で押し潰していったかを,時々想いやった」(The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, p.209)とラッセルの「エイミイ・フォスター」観を明らかにしている。短編「エイミイ・フォスター」におけるその根深い故国喪失感は,ケネディが指摘するように,ヤンコーー代に留まらずその父子二代に亘って「罠にかかった鳥」のイメージは,コンラッド自身と彼の父アポロ(Apollo)が被った政治的「不条理」の象徴と見て取れる。・・・。

S・S・ヴァン・ダイン(作),日暮雅通(訳)『僧正殺人事件』(東京創元社,2010年4月刊/創元推理文庫Mウ14)(2014.6.29)
*
S. S. ヴァン・ダイン(S. S. Van Dine,1888-1939):アメリカの推理作家,美術評論家。本名は,ウィラード・ハンティントン・ライト。
創元推理文庫版の最初に掲げられた,出版社による紹介

 だあれが殺したコック・ロビン?「それは私」とスズメが言った-。四月のニューヨーク,マザー・グースの有名な一節を模したかのごとき不気味な殺人事件が勃発した。胸に失を突き立てられた被害者の名はロビン(アーチェリーの選手)。現場から立ち去った男の名はスパーリング(アーチェリーの選手))ードイツ語読みでシュベルリンク- スズメの意。そして“僧正”を名乗る者が,マザー・グース見立て殺人を示唆する手紙を送りつけてきた・・・。史上類を見ない陰惨で冷酷な連続殺人に,心理学的手法で挑むファイロ・ヴァンス(注:アマチュアの名探偵)。江戸川乱歩が称賛し,後世に多大な影響を与えた至高の一品

(pp.324-337:数学と殺人)
(p.330) ・・・。
 ヴアンス(博覧強記のアマチュア探偵)は,ひと息入れて,煙草に火をつけた。
空間と物質-これが数学者の思索の領域なのさ。エディントン(Sir Arthur Stanley Eddington,1882- 1944,イギリスの天文学者)は,物質を空間の特性のひとつ - 無の中の突起だと考える。一方,ワイル(Hermann Klaus Hugo Weyl, 1885-1955, ドイツの数学者)は,空間を物質の特性のひとつと考える - 空の空間などは意味をなさないと。そこで,カントの言う本体(ヌーメノン)(松下注:いわゆる「物自体」)と現象(フェノメノン)とは,相互に交換できるものになる。こうして,哲学までもがいっさいの意義を失うんだ。われわれが有限の空間という数学的概念に到達したところで,いっさいの合理的法則は廃棄されてしまう。(松下注:たとえば, n+1 は n よりも1大きい(多い)というのは当たり前だとしているが,これは宇宙(世の中)に存在するものの総数は無限であるということを前提としている。もしも有限としたら, n を宇宙に存在するものの総数と仮定すると n = n+1 となり,数学の基本的な計算式(代数)が成立しないことになってしまう。)ド・ジッターは,空間の形を球形あるいは球面形だと考える。アインシュタインの空間は円筒形で,その周線,あるいは〝境界線の状態″とも言うが,そこでは物質はゼロに近づく。ワイルの空間はマッハの力学に基づくもので,鞍(くら)の形。・・・さて,このような概念を一方に置いて計算するとき,自然とか人間の住む世界とか,人間の存在とかいったものは,どうなる? エディントンは,自然の法則など存在しない- ということは,自然は合理性において十分な法則では律することができない,という結論を出している。ああ,哀れむべきはショーベンハウアーだ。そして,バートランド・ラッセルは,現代物理学が必然的にたどりつく結論を要約して,物質は単にできごとの集まりであって物質自体は存在する必要が何もないと解釈すべきだと述べる。・・・この説を推し進めていくと,どうなる? 世界には原因がなく,世界は存在ではないとすれば,ただの人間の生命など-あるいは国家の生命でもいいが-なにほどのものだろう? または存在自体についてでもいいが,なにほどのものかね? ・・・
 ヴァンス(アマチュア探偵)がマーカム(ニューヨーク州地方検事)を見上げた。マーカムは,自信がなさそうにうなずく。・・・。

武藤秀太郎『近代日本の社会科学と東アジア』(藤原書店,2009年4月刊)(2014.5.5)
* 武藤秀太郎
(むとう・しゅうたろう,1974~ ):早稲田大学経済学研究科修士課程修了,総合研究大学院大学文化科学研究科博士課程修了,学術博士。2012年4月から,新潟大学現代社会文化研究科准教授(共生社会研究専攻)
* 本書は,2008年度に総合研究大学院で受理された博士論文(「近代日本の社会科学と東アジア」)をもとに,一般読者が読み易いように,序論と結論を書き改めたもの。
* 福田徳三(ふくだ・とくぞう,1874~1930):日本の経済学の開拓者で,日本を代表する多くの学者(左右田喜一郎,小泉信三,大塚金之助,大熊信行,高島善哉,中山伊知郎,山田雄三,上田貞次郎ほか)を育てた。東京商科大学(現・一橋大学)教授,慶應義塾大学教授を歴任。ドイツのライプツィヒ大学及びミュンヘン大学に留学。1900年にミュンヘン大学で博士号を取得。レジオンドヌール勲章受章。社会政策学会の中心メンバーとして活躍し,大正デモクラシー期には吉野作造とともに黎明会を組織し,民本主義の啓蒙につとめた。また
(pp.103-140:第三章 異端の大正デモクラシー -福田徳三と吉野作造)

(p.121) ・・・。また,ヴェルサイユ条約についても,微温的態度を示した吉野(作造)とは対照的に,福田(徳三)は過酷な対独講和条件を厳しく非難し,「恐ろしい運命に世界は歩一歩陥りつつあり」と危機感を表明した。のちに福田は,講和会議におけるウィルソンの無能ぶりや条約内容の非現実性を告発したJ. M. ケインズの『平和の経済的帰結(The Economic Consequences of the Peace)に全面的な賛意を示している。(参考:ラッセルの『平和の経済的帰結』を評価するコメント)>
 このように福田は,アメリカに厳しい態度で臨んでいたが,(アメリカによる)排日移民政策については,終始その正当性を認めていた。アメリカの高い労働条件を脅かしかねない,日本人のような低生活水準の移入民が制限されることは,社会政策上の観点から当然だというのである。福田はまた,日本経済がアメリカなくして成り立たず,いかなる事態が起ころうとも,アメリカとの関係を決して絶つべきでないとする発言をくり返しおこなっていた。
 福田は今後,二つの「虚偽」のデモクラシー(注:英米の「富民主主義」と独露の「社会民主主義」)に抗いつつ,全人民を包含した「真正」のデモクラシーを確立する必要性を力説した。では一体,それはどのように具現化されると考えられたのだろうか。
「予は社会政策の根本思想は,生存権の主張に存す可きことを精々明確に認めざる能はず」。
-福田は,工場法施行(一九一六・九)直後に公刊された論文で,A・メンガーから学んだとされる生存権の承認を,社会権力関係を超えた普遍的理念として設定した。このいわゆる「生存権の社会政策」では,従来手が触れられなかった財産権本位の私法を,生存権擁護へと改良する「法律の社会化」が要請された。これにより,バートランド・ラッセルが『社会改造の原理(Principles of Social Reconstruction, 1916)」で説いたように,物を得ようとする衝動の専制から,物を創ろうとする衝動を解放することこそ,「真正なるデモクラシー」へゆきつく第一歩だというのである。・・・。
[松下注:次のラッセルの言葉が該当します。
"The best life is one in which the creative impulses play the largest part and the possessive impulses the smallest."
 なお,「物を創ろうとする衝動」というのは,物質的な物にかぎらず,創作活動全般を指しています。
]

千葉眞「戦後日本の政教分離と靖国問題」【和田守(編著)『日米における政教分離と「良心の自由」』(ミネルヴァ書房,2014年3月刊)】(2014.4.20)
* 和田守
(わだ・まもる, 1940~):大東文化大学学長を経て,現在大東文化大学名誉享受。
* 千葉眞(ちば・しん,1949~ ):国際基督教大学教養学部教授。プリンストン神学大学博士課程修了,Ph.D.(政治倫理学)。
(p.9:和田守による千葉論文の紹介)
 第10章の千葉論文は,戦後一貫して日本の政教関係の争点になってきた問題であり,今日でも国政および東アジアの国際関係における焦眉の課題の一つであり続けている靖国問題について論及している。憲法上の政教分離規程に照らして,靖国神社がとくに天皇制の精神構造を規律してきた役割,首相や閣僚らの参拝問題が抱える問題について言及しているのである。すなわち,明治以降の歴史的視野に立って国家神道と靖国神社との関係について検証したうえで,戦後の象徴天皇制下で一方において制度的には一宗教法人として存続し,他方では戦没者を祀る国家宗教の公的神社であり続けようとする二重性について批判的に論じたうえで,このアポリアを解消していく現実的方途として「永遠平和の森-新しい追悼・慰霊・世界平和祈念館」の創建を提唱していることは注目される。そして靖国問題の現在について,自由民主党の「日本国憲法改正草案」(二〇一二年四月)と安倍首相の靖国神社参拝(二〇一三年一二月)に焦点を合わせ,現行憲法の基本原理たるデモクラシー,基本的人権,平和主義を骨抜きにし,統治権力を制限し抑制する立憲主義の足かせを除去するものであり,政教分離の原則を緩和ないし有名無実化する危険性を指摘し,その間題点を具体的に検討しているのである。
(267-299: 千葉眞「戦後日本の政教分離と靖国問題」)
(p.269)・・・。ラッセルはかつて,天皇制における家族主義的感情について次のような解説を加えたことがある。
・・・。おそらく日本を除けば,政治権力をなんらかの意味で親権と同等に扱うような考え方は近代人には思いも及ばないであろう。なるほど日本では,フィルマ一に酷似した説が今日(注:第二次世界大戦で敗戦する前)でも通用し,あらゆる教授や学校教師はそれを教えるのが義務になっている。ミカドは天照大神からの一系の相続者である。他の日本人もまた彼女の子孫であるが,ただ分家に属している。それ故ミカド(注:戦前の昭和天皇)は神聖であり,彼に対する一切の抵抗は涜神(神をぼうとくするもの)である。この理論は主として1868年に発明されたものだが,現在(注:1945年以前)では世界創造以来連綿として受けつがれて来たと信ぜられている。
[Bertrand Russell; A History of Western Philosophy, 1945.(London; Allen & Unwin, 1946, p.644)【邦訳書:ラッセル(著),市井三郎(訳)『西洋哲学史』下巻(みすず書房)p.189.】]
★参考まで原文(英文)をつけておきます。
... But apart from all these considerations, it would not occur to any modern man outside Japan to suppose that political power should be in any way assimilated to that of parents over children. In Japan, it is true, a theory closely similar to Filmer's is held, and must be taught by all professors and school-teachers. The Mikado can trace his descent from the Sun Goddess, whose heir he is; other Japanese are also descended from her, but belong to cadet branches of her family. Therefore the Mikado is divine, and all resistance to him is impious. This theory was, in the main, invented in I868, but is now alleged in Japan to have been handed down by tradition ever since the creation of the world.
 このように,アメリカの政治学者チャールズ・E・メリアムの分析にしたがえば,「君主制は日本においてのみ神聖,神秘,絶対主義という初期の位置を残した」ということになる。いずれにせよ,近代天皇制は,上述のような精神構造であると同時に政治構造でもあるという二重構造を基盤に構成された支配原理および支配体制として,少なくとも二〇世紀中葉に至るまで近代日本とその国民の意識を大幅に規定してきた。
 戦後の日本国憲法体制における象徴天皇制は,政治構造としての天皇制を相対化したのは自明であろうが,菅孝行のような論者に見解によれば,これはより強固な天皇制,より完成された天皇制,最高形態としの天皇制を示している。・・・。
 ・・・。
(p.285)・・・。これまで一年間に安倍政権が推し進めてきた施策 - 例えば憲法九六条先行改憲の試み,特定秘密保護法など,-- さらには今後進める予定の施策-- 例えば集団的自衛権の承認,武器輸出三原則の緩和,憲法改定,愛国主義教育の徹底などはどれをとっても,首相が大切にしているという世界平和,人格,自由,民主主義に直接間接に逆行することばかりである。安倍首相がどれだけ自分の言葉癖に気づいているのか,自覚しているのか,それはたんなる虚言癖なのかは,どうも判然としないし,釈然としないのである。安倍首相は,矛盾する諸種の命題や価値を何の躊踏もなく同居させることのできるタイプの精神構造の持ち主なのだろうか。安倍政権の軍事強調路線を,最近,国会答弁その他で「積極的平和主義」呼ばわりをする物言い - G・オーウエル『一九八四年』のダブル・シンク(二重思考)やダブル・トーク(二重語法)に近い- は,どう理解したらよいのか。・・・。


平石耕『グレアム・ウォーラスの思想世界-来るべき共同体論の構想』(未来社,2013年3月刊)(2014.3.11)
* 平石耕
(ひらいし・こう, 1972~):早稲田大学政経学部卒, ケンブリッジ大学修士,成蹊大学博士課程修了(2004年3月, 政治学博士)。現在,成蹊大学法学部政治学科准教授。西洋政治史専攻。
* グレアム・ウォーラス (Graham Wallas, 1858-1932):イギリスの政治学者,社会学者で,フェビアン協会の創始者の一人。1907年にロンドン経済学校(ラッセルも創設時に講師をつとめた。)がロンドン大学に併合されるとその政治学の教授となる。
 平石氏は,本書において,ラッセルについてかなりふれており,pp.97,104, 294-296, 299, 300, 348, 349, 362, 371-372にラッセルの名前がでてきます。それらのなかで,一番詳しく述べられているのは,本文のなかではなく,pp.371-372の「注4」のなかです。(ただし,非常に長いので「注」とは言えないほどですが・・・。)
 長いですが,かなりまとまった記述で,一部だけの引用では中途半端になりますので,全文を引用・紹介させていただきます。
 下記の注以外は,現物図書をご覧ください。

(p.371-372)
注4) なお,ウォーラスの自由観が抱えるこの問題をおそらく鋭く意識していた一例として,ラッセルの『権力(論)』が挙げられる。ウォーラス没後の1938年に,ヒトラーやムッソリーニの勢力拡大を目の当たりにしながら発表されたこの書は,ほかの動物と比較した(場合の)人間の特徴を'欲望の無限性'に求め,その最も顕著な例の一つを「権力欲」に見て,権力を「エネルギーが物理学の根本概念であるのと同じ意味で,社会科学の根本概念」と見なしている(Bertrand Russell, Power (London; Sydney/Wellingon, 1960)(注:Power は1938年に出版されたもの),ch.1 〔東宮隆訳『バートランド・ラッセル著作集5 権力-その歴史と心理』みすず書房,1959年,第一章〕)。その権力分析は,両大戦間期における国際連盟体制の失敗を受けて,理想主義に対する現実主義の重要性を同時期に主張した E・H・カーによっても高く評価されているが(E.H.Carr, The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939. Hampshire/New York, 2001),p.131 〔原彬久訳『危機の二十年-理想と現実』岩波書店,2011年,478頁〕),本書との関連で注意されるのは,そこでは,ウォーラスと同じように,指導者と追随者との存在に注意が向けられ,積極的追随は奴隷道徳にもとづくものではないとされながらも,それが自由よりは「権力愛」「権力衝動」の一表現とされる点である(ibid.pp.10,12 [邦訳,10,12頁>)。
 ラッセルは,また,①技術が発達した「機械」の時代である現代社会においては,個々人の幸福や福祉を増進させるために組織体が重要であり,実際に組織体がその目的に資している場合も多いこと,しかし,②組織体の運営には常に権力の再分配=政治という問題が控え,現代社会では,ともすれば国家を中心に「機械にもとづいた権力」が生まれて肥大化し,その「馴致(じゅんち)」が困難であることを指摘する(see, ibid.,pp.21-23,108,113-115,141,143,149 〔邦訳,28,30-31,173-174,182-186,227,229,317-318〕)。組織化や「機械力」に注意するラッセルの現代社会観は,ウォーラスの「巨大社会」観と重なるが,権力が問題の根幹に据えられている点が異なる。この相異は重要と言える。
 しかし,同時に興味深いのは,ラッセルも,権力の具体的な「馴致」策を考察する際には,政治的条件・経済的条件・プロパガンダの条件と並んで心理的・教育的条件を指摘しており,この最後の条件がウォーラスの「創造的思考」「社会的判断」と重なった特徴をもっていることである。ラッセルによれば,権力馴致を可能とする民主政治に必要な気質とは,個々人がある程度の自侍の精神をもち自分の判断を横極的に支持すると同時に,多数者の決議にはたとえ反対の場合でも喜んで従うという一見相反する態度であるが(ibid.,p.202 〔邦訳,330頁〕),それは,「知的生活における科学的気質がまさに占める位置」,つまり,「懐疑主義と独断主義との中間点」(ibid.,p.203 〔邦訳,333頁〕)とも説明される。「このような気質からすれば,真理は完全に到達可能でもなければ,完全に到達不能でもない。それは,ある程度まで到達可能だが,苦しんで初めて到達し得るものとなる。」(ibid.) 
ラッセルの『権力(論)』にウォーラスヘの言及がないため,以上に若干試みたウォーラスとの比較は,思想史として見当違いに見えるかもしれない。ただ,マレイ(注:Gilburt Murry)が,『権力』に関する感想を寄せたラッセル宛の手紙のなかで,必ずしもラッセルの権力論との関連を示してはいないものの,ウォーラスの思考論に言及し,それを高く評価しているのを読むと(Bertrand Russell, THe Autobiography of Bertrand Russell, v.2:1914-1944 (London, 1970)(注:初刷は1968年刊),pp.245-246 [日高一輝訳『ラッセル自叙伝 II: 1914年-1944年』理想社,1971,331頁〕),同時代的にはむしろ両者の関連が意識されていた可能性を疑いたくなる。もし,この「読み」が正しければ,田口富久治や松下圭一が注目したリップマンやラスキとは異なるウォーラス思想への応答という観点から,ラッセルを再読することも可能かもしれない。と同時に,ラッセルの権力馴致の議論に見られる民主政治と妥協との関係には,のちのパーナード・クリックにおける「創造的妥協」としての政治観や彼のシティズンシップ論と重なる特徴もある。クリックがLSEにおけるウォーラスの後任者であるラスキの薫陶を受けていること,また,彼が大きな影響を受けているマイケル・オークショットの父親は,ウォーラスとも知己の活動的なフェビアンであったことをも考え合わせれば,ここから探る思想史的文脈も,興味深い。しかし,いずれにせよこれらの点は今後の課題としたい。


ニクラス・ルーマン(著),高橋徹(他・訳)『社会構造とゼマンティク』第3巻(法政大学出版局,2013年12月刊/叢書ウニベルシタスn.963)(2014.2.8)
*
ルーマン, ニクラス(Niklas Luhmann, 1927~1998):ドイツの社会学者で,1968年~1993年まで,ビーネフェルト大学社会学部教授。1971年 ユルゲン・ハーバーマスとの討論書『批判理論と社会システム理論――ハーバーマス=ルーマン論争』を出版。
 本書において,ラッセル(正確には「ラッセルのパラドクス」)について言及しているのは,p.559の「著者による原注」に対する訳注の中です。従って,原注がつけられた本文と原注と訳注の3つをご紹介しないと,よく理解できないことになります。
 ということで,その順番に,該当箇所だけ抜き出して,以下ご紹介しておきます。なお,太字及び下線は松下が引いたものです。

(pp.53-121:第二章 伝統的支配から近代的政治への移行における国家と国家理性

 (本文p.67)・・・。
 国家という概念は,平和な状態の集合(注:集合の全体)とその集合の一部(注:部分集合)を同時に意味している。この概念(注:国家という概念)が使われる際の典型的な定式化では,全体と支配する部分,すなわち政治的な団体としての社会とその統治機関を区別する必要がないのである。- 例えば,次のような表現が文章の中で未分化なまま語られている。《国を保守する》,《国が繁栄している》,《国の破滅》,《国の変質》,《国を立て直す》等々。こうした国家概念は,全体と部分の区別に注意を向けない点でパラドクシカルであるが,そればかりでなくアンビヴアレント(注:相反する価値が共に存し,葛藤する状態)でもある*原注参照。そこでは,撹乱要因が導入されるのは外部カラ(ab extra)であることが前提とされる。例えば堕罪として,時ノ移リ変ワリ(varietas temporum)として,自然=本性に由来する動揺として,である。そして狭義の国家はそれらの要因に依拠して目的論化されうる,というわけであ。状況全体という水準では国家は自己目的であり,修正する作動という水準では目的のための手段なのである。ほかならぬ国家の自己目的が,目的に対する手段であることを国家に求めるのである。国家は平和〔という目的〕であるがゆえに,〔その手段として〕支配(dominium)であり,権力(potestas)であることを求められるわけである。
 このアンビヴアレンスによって,根本的なパラドックスが覆い隠される。すなわち,秩序の恣意性というパラドックスが,である。同時に目的と手段の関係の反転もまた覆い隠される。

(*原注
 もっともパラドックスに至るのは,アンビヴアレンスにもかかわらずこの概念の統一性に固執することで,国家をラッセル的な分析の意味での状態集合として捉えざるをえなくなる場合だけ,つまり,自分自身(すなわち国家)を含んでいて,かつ含んでいない集合として捉える場合だけなのであるが[訳注参照]。しかし,すでに脱パラドックス化の処方箋を含んでいるテクストもある。そうしたテクストでは〔概念の〕意味の純粋な広さを問題としたり,外部から撹乱要因を導入したり,目的論化を行ったり,倫理的な《政治》と《国家理性》を特殊な支配形態を保持するものとして区別したりしている(そうしているのは,Ludovico Ucolo, Della ragione di Stato, 1621, zit. nach dem Abdruck in Benedetto Croce/Santino Caramella (Hrsg.), Politici e moralisti del Seicento, Bari 1930, S.25-41 である。

(原注に対する「訳注
 ラッセルのパラドックス。バートランド・ラッセルの「床屋のパラドックス」の例で知られる。自分自身を含まないタイプの集合をA,含むタイプの集合をBとし(松下注:つまり,「集合」というものを,ここでは2種類のタイプに区別している),ここですべての集合Aを含む集合をS(国家)とする。SがAタイプである(s∈A)と仮定すると,そもそもSはすべてのAを含むからS自体がSに属することになる(S∈S)。これはSがAである(自分自身を含まない)という仮定と矛盾する。次に,SがBタイプである(S∈B)と仮定する。この場合,Sは自分自身も含む(S∈S)ことになる。しかし,SはそもそもAの集合なので,定義からBは含まないはずである。したがっていずれの仮定をおいてもSがAに属するのかBに属するのか決定できない
 形式的には,ルーマンは国家概念がこの集合Sのような概念になってしまうと述べているわけである。本文の議論でルーマンは,国家概念が平和的な状態の集合(注:全体)とその一部(注:部分)を同時に意味していると述べている。そもそもこの意味の定まらない概念の内包に無理に統一性を仮定しようとしても,結局この概念が平和的な状態の全体を指しているのか,それともその一部を指しているのかを決定できないというのがルーマンの言わんとしていることではないかと思われる。