バートランド・ラッセル関係_落穂拾い(中級篇) 2020
索引(-出版年順 著者名順 書名の五十音順)
R落穂拾い(中級篇)は,ラッセルに言及しているもので「初心者向けでないもの」や「初心者向けではないかもしれないもの」を採録。初心者向けはR落穂拾いをご覧ください。
・アンドルー・ホッジス(著),土屋俊・土屋希和子・村上祐子(訳)『エニグマ - アラン・チューリング伝』下(勁草書房, 2015年8月刊)(2020.08.27)
(pp.322-323)
アランの無関心は、技術者たちにとっては不愉快だった。彼らは、自分たちの成果が数学や科学の世界で当然受けるべき評価を受けていないと感じていた。多くの意味で、計算研究所(注:王立協会計算機研究所)は第八兵舎と同じくらい秘密にされていた。それは、計算が数学の世界では最下層に置かれていたことと同じだ。しかし、アラン・チューリング自身は評価され、3月15日に行なわれた1951年の王立協会選挙で王立協会のフェ ローになった。推薦文は、15年も前の計算可能数に関する研究に言及していた。アランは、これをおもしろがって、(お祝いの言葉をくれた)ドン・ベイリーに、自分が24歳のときには王立協会のフェローにしてもらえなかったと返事を書いた。推薦者は、マックス・ニューマンとバートランド・ラッセル。ニューマンは、計算機への興味をまったく失っており、アランが形態形成の理論への関心を再燃させたことに 感謝するばかりだった。
【参考(ウィキペディアより):マクスウェル・ハーマン・アレグザンダー・ニューマン(Maxwell Herman Alexander Newman、1897年2月7日 - 1984年2月22日)はイギリスの数学者で暗号解読者。通称はマックス・ニューマン (Max Newman)。第二次世界大戦中は電子計算機 Colossus の構築につながる仕事をし、マンチェスター大学で王立協会計算機研究所を創設し、同研究所で1948年に世界初のプログラム内蔵式電子計算機である Manchester Small-Scale Experimental Machine が生まれた。】
★ 一つ追加しておきます。(2020.09.15 追記)
(p.283+ 288)
(p.283) ・・・。しかし、 心の機能は形式的体系によっては「特定不可能」であるというポランニーの主張に満足しなかったアランが、このような言葉に満足するはずもない。彼は、自分の意見をまとめた「計算機と知能」という論文を1950年10月に、哲学の専門誌「マインド」に掲載した。・・・
(p.288)・・・ この論文は、世俗的な技術的専門性に埋もれてしまう前に、出発点となった動機を世に残したいという根源的な衝動に由来する白鳥の歌のようなものだった。そのようなものとして、この論文は英国の哲学的伝統における古典となった。ノーバート・ウィーナーの重厚な論文への批判であり、それとともに、一九四〇年代後半の英国の文化の反動的かつ「感傷的」な傾向への反発でもあった。バートランド・ラッセルはこの論文を称賛し その友人のルパート・クローシェイ= ウィリアムズはアランに、ラッセルと彼がどれほど楽しく読ませてもらったかということを感謝とともに伝えた。
哲学的見地からは、この論文は、ギルバート・ライルの一九四九年に出版された「心の概念」と軌を一にするといえる。同書は、心について、脳につけ足される何かではなく、世界の記述の一種として考えるという着想を述べた。ただし、アランの論文は、「特定の」種類の記述、すなわち、離散状態機械という記述を提案した。アランは科学者であって、哲学者ではなかった。彼の研究方法の要点は、彼自身が論文のなかで強調したように、抽象的に考えることではなく、実際にやってみてどれだけのことができるかを見ることだった。この点で、彼はその新しい科学にとってのガリレオだった。ガリレオは物理学と呼ばれる世界の抽象的モデルにもとづいて実際的スタートを切り、アラン・チューリングは論理機械によって与えられるモデルにもとづいて同様のスタートを切った。
・アンドルー・ホッジス(著),土屋俊・土屋希和子(訳)『エニグマ - アラン・チューリング伝』上巻(勁草書房, 2015年2月刊)(2020.08.21)
* Andrew Hodges (1949- ):ケンブリッジ大学卒業後(1983年)に本書を出版(1992年には vintage edtion 出版)。数理物理学者(オックスフォード大学数学研究所教授)で、ゲイ解放運動家。
(pp.353-354)【p.203,231 でも触れられていますが、省略します。】
アラン(Alan Turing)は研究上の努力の大半を、(ラッセルの)階型理論(Type Theory)の新しい定式化に向けていた。ラッセルは、フレーゲの集合論を救うためにやむをえず採用したやっかいものとして階型の概念をとらえていた。ほかの論理学者にと っては、論理的なカテゴリーに階層があることはきわめて自然な発想であり、むしろ、考えられるあらゆるものを「集合」と一まとめにしてしまうほうが奇妙だった。アランは後者の考え方に傾き、数学者の実際の考え方と一致し、実用的に機能する理論を好んだ。彼はまた、数理論理学がより厳密な数学研究のために使われることを望んだ。この時期それほど専門的でない「数学表記法および語法の改革」という小論で、アランは以下のような説明をした。すなわち、フレーゲ、ラッセル、ヒルベルトのあらゆる努力にもかかわらず、・・・数学が論理学の研究から得たものはほとんどない。主たる理由は、論理学者と一般の数学者との連携の欠如だろう。記号論理学は、ほとんとの数学者にとって驚くほど重要である。一方、論理学者はもっと受け入れやすくすることに関心を払わない。このギャップを埋めるアラン自信の努力は、こんな試みで始まった。・・・
・ダロン・アセモグル+ジェイムズ・A・ロビンソン(著),櫻井祐子(訳)『自由の命運』上下2巻(早川書房,2020年1月刊)(2020.2.24)
* ダロン・アセモグル(1967年9月3日~ ):マサチューセッツ工科大学のエリザベス&ジェイムズ・キリアン記念経済学教授。ノーベル経済学賞にもっとも近いといわれるジョン・ベイツ・クラーク賞を2005年に受賞。2019年現在、過去10年の間に世界で最も論文が引用された経済学者と言われている。* ジェイムズ・A・ロビンソン(1960~ ):ハーバード大学教授などを経てシカゴ大学公共政策大学院教授。
・・・1899年にジョセフ・コンラッドがコンゴ川汽船の船長としての経験をもとに執筆した『闇の奥』が刊行されると、コンゴ植民地での残虐行為に国際的な関心が集まりは始めた。エドマンド・モレルとロジャー・ケースメントの二人は、コンゴ自由国の人々の窮状を救うことを大義に掲げ、レオポルドのコンド支配を終わらせるという明確な目的をもって、コンゴ改革協会を設立した。
・・・中略・・・
(p.339) ケースメント報告は1904年に発表され、コンゴでの恐るべき人侵害の実態を、目撃証言を通して生々しく伝えた。とくにケースメントは、レオボルド二世の部下たちが、ゴム生産のノルマを果たせなかった先住民の手足を切り落とした様子をくわしく記録している。・・・中略・・・。
(p.340) この報告書が国際世論を大きく動かし、コンゴ改革協会の大義に英米の著名人から支援が寄せられ始めた。サー・アーサー・コナン・ドイル、マーク・トゥエイン、ブツカー・T・ワシントン、バートランド・ラッセル、ジョゼフ・コンラツド。最終的にこの協会レオボルドの植民地支配の終焉をもたらしたのである。