バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』(松下彰良・訳)
* 原著:My Philosophical Development, by Bertrand Russelll (London; George Allen & Unwin, 1959)総目次
- G. E. ムーアと私がカント及びヘーゲルに反抗したのは(反対するようになったのは),1898年の終り頃(注:ラッセル26歳の時)であった。
- 私は1907年に英国哲学会で私が読み上げた論文 -それはハロルド・ヨアキムの著書『真理の本性』を扱ったものであったー の一部をここに引用することによって、この問題の重要性をおそらく最もよく例示することができると思う。
- (続き)さて内面的関係の公理の意味とそれに対する賛否の理由(根拠)についてもっと入念に(closely)考察してみよう。
- (続き)内面的関係の公理は、(この/前述の)どちらの形態においても、ブラッドリ氏が正しく(も)主張したように 〔参照:『現象と実在』第二版、p.519の,「実在は一(の全体)である。実在は単一でなければならない。なぜなら複数性(複数存在すること)は、それを実在的である(注:現実に存在する)と考えると(taken as real)、自己矛盾に陥るからである。複数性は、必然的に関係を含み(伴い)、その関係によって、自らの意に反して(unwillingly)、より高い統一を常に主張する。」〕、関係というものは(まったく)存在せずまた、複数のもの(多様なもの)は存在せず、ただ一つのもののみが存在する、という帰結を伴う。
- 従って,内面的関係の公理(内面的関係説)は、あらゆる命題は一つの主語と一つの述語とを持つという仮定に等しい
- 内面的関係の公理(内面的関係説)に賛成する理由(根拠)が何であるかを自問する時、我々はその公理(の正しさ)を信ずる人々(の言うところ)によって、疑いを抱かされる。
- (1) 充足理由律を正確に述べることは難しい。
- (2) この議論(論証の強さ(力)は主に誤まった陳述形式に依存している,と私は考える。
- (そこで)内面的関係の公理(内面的関係説)に反対する(否定する)何らかの根拠(理由)があるかどうかを尋ねること(仕事/作業)が残っている。
- 内的関係の公理(注:「内面的関係」を「内的関係」に変更/内的関係説)に反対するもっと綿密な議論(論証)(A more searching argument)は、ひとつの項(term)の「本性(性質)」は何を意味するか(項の「本性(性質)」の意味)について考察することに由来している。
- さらにまた、内的関係(内面的)の公理はあらゆる複合性(complexity 複雑性)とは両立しない(相容れない)。
- それゆえ、関係はそれらの諸項(=各項)の「本性(性質)」あるいは諸項からなる全体の「本性(性質)」に必然的に根拠づけられているという公理(注:axiom 最も基本的な仮定。ここでは「内面的関係説」)に反対すべき諸理由が存在しており、逆に賛成すべき理由はまったく存在していないように思われる。
- 私が関係の問題の重要性を初めて認識したのは、私がライプニッツを研究していた時であった。
- ヘーゲル主義者たちは、あれやこれやが「実在的」ではないことを証明しょうとするさまざまな議論(論証)を持っていた(持ち合わせていた)。
- 時が経過するにつれて、私の(想定する)宇宙はそれほど豊かでなくなって行った。
- 新しい哲学を展開しつつあった初期の時期において、私は、主として言語上の諸問題に非常に専念した。
- そういった(哲学に取り組み始めた)初期の時代以来、私は多様な問題について自分の意見を変えてきたけれども、現在同様当時、最重要だと思われた(いくつかの)点については(今にいたるまで)意見を変えてこなかった。