第5章 「一元論にそむいて多元論へ」 n,11
(続き)
さらにまた、内的関係(内面的)の公理はあらゆる複合性(complexity 複雑性)とは両立しない(相容れない)。なぜなら、既に見たように、この公理(内的関係説)は厳格な一元論(monism)に導くからである。(即ち、)ただ一つのものだけが存在し、ただ一つの命題だけが存在する(ということになる)。その一つの命題(それはただ一つの真なる命題ではなく、ただ一つの命題である)は、一つの述語を一つの主語に帰属させる。しかしこのただ一つの命題は、主語から述語を区別することを(不可欠のものとして)含んでいるゆえに、必ずしも真ではない(not quite true)。しかし,その場合(then そうなると)(次のような)困難が生ずる。(即ち)もし叙述(predication :AはBである)が述語は主語とは異なるものであるということを(必然的に)含んでいるものであり、しかも(そのうえまた)唯一の述語が唯一の主語から区別されないものだとすると、その唯一の述語を唯一の主語に帰属させるところの命題なるものは、(真なる命題としてだけでなく)偽なる命題としてさえも存在することができない,と思うだろう。それゆえ、我々は、叙述(注:predecation 述語づけ/叙述付加)が、述語と主語との差別を含まず(伴わず)、またこの唯一の述語は唯一の主語と同一である(注:一体のものである)と想定(仮定)しなければならないであろう。しかし、我々がいま吟味している哲学(注:観念論哲学)にとっては、絶対的同一性を否定して「差異における同一性」を保持することが、必須である。そうでないとしたら,実在的世界の見かけ上の(apparent)多様性は説明不可能である(注:現実世界は多様かそうでないかは議論の対象/また観念論哲学では現実世界の多様性はあくまでも「現象」であり「実体ではない」と考えるので、「apparent」は「明らかに」ではなく「見かけ上は」と訳すべきであろう。因みに、みすず書房の野田訳では「明らかに」と訳されている)。しかし困難は、我々が厳密な一元論に固執すれば差異における同一性」は不可能である(不可能になる)ことである。なぜなら、「差異における同一性」は多くの部分的真理を含み(必然的に伴い)、それらの部分的真理は、一種の相互のギブ・アンド・テイクによって、一つの全体的真理を形成するからである。厳密な一元論においては、部分的真理は必ずしも真ではないというだけではない。(即ち厳密な一元論においては)そういう部分的真理なるものはまったく成立しない(のである)。真であるにせよ偽であるにせよ,仮にそういう諸命題が存在するとすれば 複合性(plurality 一つではなく多数であること)が存在することになるであろう。要するに、「差異における同一性」という考えは内的関係の公理(内的関係説)と両立しない(相容れない)のである。(そうして)しかも、この概念(「差異における同一性」)がなくては一元論は世界(の見かけ上の多様性)の説明を与えることができず、世界はオペラ用の帽子(opera-hat)のように突然つぶれてしまう。(そこで)私は、内的関係の公理(内的関係説)は偽であり、観念論の主張のうちこの公理に依存する部分は根拠がない、と結論する(しだいである)。
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Chapter 5: Revolt into Pluralism, n.11
Again, the axiom of internal relations is incompatible with all complexity. For this axiom leads, as we saw, to a rigid monism. There is only one thing, and only one proposition. The one proposition (which is not merely the only true proposition, but the only proposition) attributes a predicate to the one subject. But this one proposition is not quite true, because it involves distinguishing the predicate from the subject. But then arises the difficulty: if predication involves difference of the predicate from the subject, and if the one predicate is not distinct from the one subject, there cannot, even, one would suppose, be a false proposition attributing the one predicate to the one subject. We shall have to suppose, therefore, that predication does not involve difference of the predicate from the subject, and that the one predicate is identical with the one subject. But it is essential to the philosophy we are examining to deny absolute identity, and retain 'identity in difference'. The apparent multiplicity of the real world is otherwise inexplicable. The difficulty is that‘identity in difference' is impossible, if we adhere to strict monism. For 'identity in difference' involves many partial truths, which combine, by a kind of mutual give and take, into the one whole of truth. But the partial truths, in a strict monism, are not merely not quite true: they do not subsist at all. If there were such propositions, whether true or false, that would give plurality. In short, the whole conception of‘identity in difference' is incompatible with the axiom of internal relations; yet without this conception, monism can give no account of the world, which suddenly collapses like an opera-hat. I conclude that the axiom is false, and that those parts of idealism which depend upon it are therefore groundless.
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