第5章 「一元論にそむいて多元論へ」 n,4 - 「内面的関係説」批判_続き2
(続き)内面的関係の公理(内面的関係説)は、(この/前述の)どちらの形態においても、 ブラッドリ氏が正しく(も)主張したように 〔参照:『現象と実在』第二版、p.519の,「実在(しているもの)は一(の全体)である。実在は単一でなければならない。なぜなら複数性(複数存在すること)は、それを実在的である(注:現実に存在する)と考えると(taken as real)、自己矛盾に陥るからである。複数性は、必然的に関係を含み(注:複数のものが存在すれば両者の間になんらかの関係が生じる/たとえばAはBの上に置かれている)、その関係によって、自らの意に反して(unwillingly)、より高い統一を常に主張する。」〕、 関係というものは(まったく)存在せずまた、複数のもの(多様なもの)は存在せず、ただ一つのもののみが存在する、という帰結を伴う。(観念論者たちは、「究極において(そう帰結する)」と(いう言葉を)常につけ加える。しかしそれ(究極においてという言い方)は、その帰結を忘れることがしばしば好都合であると言っているだけである。)この帰結は、多様性(diversity 異他性)という関係を考えてみることによって達せられる。なぜなら、もし本当に二つの異なるもの(別物)としてAとBとが存在するならば、この多様性(異他性)を、AとBとの(共通の一つの)形容詞的規定/表現に還元することはまったく不可能だからである(注: it is impossible wholly to reduce this diversity to adjectives:みすず書房の野田訳では「全てを還元することは不可能」と訳されているが、impossible wholly to reduce となっていることから誤訳)。この場合、AとBとがお互いに異なる形容詞的規定/表現を持つことが必要であるであろうが、これらの形容詞的規定/表現そのものの多様性/異他性は、 --無限後退の刑に処せられて(訳注:on pain of ~の刑に処すとい条件で/an endless regress 無限後退)-- 再びそれら形容詞的規定がまた,異なる形容詞的規定/表現をもつことを意味する、と解釈することはできない。即ち、AとBとが異なるのは、Aが「Bと異なる」という形容詞をもち、Bは「Aと異なる」という形容詞を持つ場合である、というならば、我々は、もちろんこの二つの形容詞的表現/規定そのものが相異なると想定しているのでなければならない。そうなると「Aと異なる」は「『Bと異なる』とは異なる」という形容詞的規定/表現を持たなければならず、また「Bと異なる」は、「『Aと異なる』とは異なる」のでなければならず,このようにして無限に(ad infinitum)進むことになる。(そうしてまた)我々は、「Bと異なる」をもはやそれ以上の還元を必要としない形容詞的規定/表現とみなすこともできない。なぜならば、「Bと異なる」という句において「異なる」とは何を意味するかを問わなければならず、しかもこの句は、そのままでは(as it stands)、関係(があること)から生まれた形容詞であって、形容詞から生まれた関係ではないからである。こうして,何らかの異他性/多様性があるべきであるならば、必然的に、形容詞的規定/表現の相違に還元できない異他性/多様性、すなわち相違している二つの項の「本性」(性質)に根拠づけられていないところの異他性、多様性がなければならないからである。従って、もし内面的関係の公理(内面的関係説)が真であるならば、異他性/多様性は存在しないということになり、存在するのはただ一つのものだけである、ということになる。こうして内面的関係の公理(内面的関係説)は、存在論的一元論の仮定、及び関係の存在の否定、に等しいのである。関係があるように見える場合,常に,それは,実はその関係の項より成る全体のもつ一つの形容詞的規定/表現にほかならないのである。(注:こうして,この後にラッセルは関係は存在するとしたら,外面的関係でなければならないと主張することになる。)
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Chapter 5: Revolt into Pluralism, n.4
The axiom of internal relations in either form involves, as Mr Bradley has justly urged ["cf. Appearance and Reality, 2nd ed., p. 519: 'Reality is one. It must be single because plurality, taken as real, contradicts itself. Plurality implies relations, and, through its relations it unwillingly asserts always a superior unity"], the conclusion that there are no relations and that there are not many things, but only one thing. (Idealists would add: in the end. But that only means that the consequence is one which it is often convenient to forget.) This conclusion is reached by considering the relation of diversity. For if there really are two things, A and B, which are diverse, it is impossible wholly to reduce this diversity to adjectives of A and B. It will be necessary that A and B should have different adjectives, and the diversity of these adjectives cannot, on pain of an endless regress, be interpreted as meaning that they in turn have different adjectives. For if we say that A and B differ when A has the adjective 'different from B' and B has the adjective ‘different from A', we must suppose that these two adjectives differ. Then 'different from A' must have the adjective 'different from "different from B",' which must differ from 'different from "different from A",' and so on ad infinitum. We cannot take 'different from B' as an adjective requiring no further reduction, since we must ask what is meant by 'different' in this phrase, which, as it stands, derives an adjective from a relation, not a relation from an adjective. Thus, if there is to be any diversity, there must be a diversity not reducible to difference of adjectives, i.e. not grounded in the 'natures' of the diverse terms. Consequently, if the axiom of internal relations is true, it follows that there is no diversity, and that there is only one thing. Thus the axiom of internal relations is equivalent to the assumption of ontological monism and to the denial that there are any relations. Wherever we seem to have a relation, this is really an adjective of the whole composed of the terms of the supposed relation.
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