バートランド・ラッセル『結婚論』第8章「性知識に関するタブー」(松下彰良・訳)
* 原著:Marriage and Morals, by Bertrand Russell第8章 イントロ累積版
ラッセル英単語・熟語1500 |
- 新しい性道徳を構築する試みにおいて,最初に自問しなければならない問題は,(男女の)性関係をいかに規制するべきかということではなく,男性や女性や子供が性の問題に関する事実について人為的に無知のままにしておかれてよいのかということである。
- 性的な事実についてほとんど語らないことは(も),大部分は異なる部門に属することであるが,少なくとも部分的には,同じような動機に根ざしている。
- この訴訟事件は、たまたまアメリカのものであるが、ちょうどまったく同様のことが、英国で起こった可能性もあるであろう。
- 伝統的な子供に関する行動方針(course with children)は,両親と教師ができるだけ子供を無知にしておくことであった。
- 性知識の問題に関する正統派のモラリスト(原注:モラリスト=道徳家には,警察や治安判事が含まれるが,現代の教育家はほとんど含まれない。)の見解は,次のように述べてさしつかえないと思われる。
- こうした(以上のような)態度が性の領域に及ぼす影響を考察する前に,それが他の(いくつかの)方面にもたらす結果について,二,三,述べたい。
- うした知的な損害(ダメージ)に加えて,大部分の場合,極めて重大な道徳的な損害(ダメージ)がある。
- これらの事実は,現在,ある程度まで,若い人たちを扱わなければいけない仕事をしているすべての知的な人たちに認識されている。
- これまで、我々は,因習的な方法が、性の領域以外で及ぼす悪影響について考察してきた。
- このように言うとき、私はアプリオリに(アプリオリなこととして/自明なこととして)論じているのではなく、経験をもとに論じているのである。
- この問題には、私の考えでは,キリスト教の道徳家(モラリスト)によって 蓋をされてしまった(隠されてしまった)不浄さから,性を洗い清めたいと望む人たちが十分に認識していない一面(一つの側面)がある。
- 私が本章で論じているのは、性行為はどうあるべきかではなく、性知識の問題における我々の態度はどうあるべきか、ということにすぎない(only)。
- この法令に出てくる「猥褻(わいせつ)」という単語は、法律上、精確に定義されてはいない。
- 『孤独の泉』(注:1928年出版のレズビアン小説)が有罪と判決されたことは,検閲のもう一つの側面,すなわち,小説において同性愛を扱うことはいかなるものであっても違法である,ということを浮き彫りにした(注:目立たせた bring into prominence)。
- ロード・キャンベル法のもう一つの興味ある結果は、(性に関する)多くの話題は,高度な教育を受けた人たちにしかわからないような、長々とした専門用語を使えば議論することができるが、大衆(一般国民)に理解できるような言葉では簡単に言及できない(述べることができない)ということである。
- 多くの人々は,猥褻な出版物を禁止する法律によるこれらの結果は遺憾なものであることに同意するだろう。
- これらの命題(主張)の第一の点について言えば,英国において,ロード・キャンベル法を行使した歴史(the history of the use)によって十分に立証(確立)されている。
- しかし,検閲に反対する根拠は,もう一つある。それは,露骨なポルノグラフィー(猥褻文書)でさえ,もしそれがおおっぴらで,恥ずかしいことと思わないなら,秘密に,こっそりと楽しむ場合よりも害が少ない,ということである。
- 裸を非とするタブーが,性の主題(問題)についてまともな態度をとるための障害となっている。
- また,天気が良くて日が照っている日の戸外などの適切な環境において裸でいることを支持する重要な健康上の根拠(理由)もたくさんある。