トップ> バートランド・ラッセル『結婚論』第5章「キリスト教倫理」- arriage and Morals, by Bertrand Russell 総目次 第5章 イントロ累積版 ウェスターマークは言う。「家族は結婚に根ざしているというよりも、結婚は家族に根ざしている。」 この一節で聖パウロは子供のことは一言も言及していないことがわかるであろう。 あらゆる私通(姦淫)を非難することは、キリスト教では目新しいことであった。 キリスト教会は、入浴の習慣を攻撃したが、その理由(根拠)は、肉体をいっそう魅力的にするものは、すべて罪へと向かう(罪を生む)傾向があるということであった。 性に関するこうした見解が一般に広まっていたところにおいては、性関係が起こると、それは明らかに、アメリカの禁酒法(注:Prohibition と大文字になっていることに注意)のもとでの飲酒のように、獣的かつ荒々しいものとなりがちであった。 けれども、カトリック教会は,聖パウロやテーバイド(Thebaid)の隠者たちのように,いつまでも非生物学的ではなかった。 この主題に関するカトリックの教えには、二重の基礎がある。 子供(をつくること)を結婚の目的の一つと認めることは、カトリックの教義の中においてごく部分的なもの(一部を占めるだけ)である。 このような極端に厳格な理論とともに、カトリック教義は、常に、教会が罪と考えるものに対して、ある程度の寛容さを有していた。 キリスト教教育によって,我々(英国人)の大部分の者が(事前に)抱きやすくさせられている先入観をできるかぎり排除しながら、我々は,キリスト教倫理の全体系を,カトリックとプロテスタントの両面から,再吟味する必要があることは、明らかである。 ジュレミー・ベンサム(Jeremy Bentham, 1748-1832:功利主義の経済学者として著名)は、行動の源泉(としての動機)の一覧表を作った。 キリスト教倫理は、性的な美徳の強調を通して(性的美的を強調したことにより)、必然的に女性の地位をひどく低下させてしまった。 教父たちの著作は、女性(というもの)に対するののしり言葉(悪口雑言)で満ちあふれている。 第6章 ロマンチックな恋愛