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バートランド・ラッセル 結婚論 第五章 キリスト教倫理(松下彰良 訳)- Marriage and Morals, 1929

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キリスト教倫理の再吟味

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 キリスト教教育によって,我々(英国人)の大部分の者が(事前に)抱きやすくさせられている先入観をできるかぎり排除しながら、我々は,キリスト教倫理の全体系を,カトリックとプロテスタントの両面から,再吟味する必要があることは、明らかである。特に幼児期に強くかつ繰り返しなされた主張(断言)は、大部分の人に、無意識までも支配するような強い信念を植えつける。また(そうして/そのため)、正統主義に対する自分の態度は完全に解放されたものであると信じている我々もその多くは、事実は、潜在意識的には、相変らず(still)正統主義の教えに支配されているのである。
 教会はなぜいっさいの姦淫(私通)を非難するにいたったのかを(について)、我々は、まったく率直に自問してみなければならない(自らに問いかけてみなければならない)。キリスト教会にはこうした非難をする妥当な根拠(理由)があったと考えるのか。それとも、そう考えないのであれば、教会が挙げた根拠以外に、我々を同じ結論に導くべき根拠が実際にあるのか。初期キリスト教教会の態度は、性行為には本質的に不純なものがあるがそれでもいくつかの前提条件が満たされたあとで行われるのであればこの行為も大目に見なければならない,というものであった。こうした態度は、それ自体、まったく迷信であるとみなさなければならない。(つまり)このような態度をとらせるようになった理由は、おそらく、前章で性を否定する態度を生じさせがちであるとした理由であろう。即ち、最初、そのような見解を熱心に吹き込んだ人たちは、肉体か精神か,あるいはその両方が,病んでいたにちがいない(病的な状態にあったに違いない)、ということである。
 ある意見が広く支持されてきたということ(事実)は、それが全然不合理なもの(馬鹿げだもの)ではないという証拠にはまったくならない。実際、大多数の人間が愚かであることを考えれば、広く行きわたった信念は、賢明であるよりも愚劣であるほうが多そうであるパラオ諸島に人々は、永遠の至福を得るためには鼻に穴をあけることが必要だと信じている(注: ウェスターマーク前掲書,p.170)。ヨーロッパ人は、ある言葉を唱えながら頭をぬらすと、この目的(永遠の至福の格闘)がいっそううまくかなえられると考えている。(我々英国人/西洋人にとって)パラオ諸島の人々の信念は迷信であるが。(そうして)ヨーロッパ人の信念は、神聖な宗教(キリスト教)の真理である(注:もちろん皮肉)。

Chapter V Christian Ethics

It is clear that the whole system of Christian ethics, both in the Catholic and the Protestant forms, requires to be re-examined, as far as possible without the preconceptions to which a Christian education predisposes most of us. Emphatic and reiterated assertion, especially during childhood, produces in most people a belief so firm as to have a even over the unconscious, and many of us who imagine that our attitude towards orthodoxy is quite emancipated are still, in fact, subconsciously controlled by its teachings. We must ask ourselves quite frankly what led the Church to condemn all fornication. Do we think that it had valid grounds for this condemnation? Or, if we do not, are there grounds, other than those adduced by the Church, which ought to lead us to the same conclusion? The attitude of the early Church was that there is something essentially impure in the sexual act, although this act must be excused when it is performed after fulfilling certain preliminary conditions. This attitude in itself must be regarded as purely superstitious ; the reasons which led to its adoption were presumably those which were considered in the last chapter as liable to cause an anti-sexual attitude, that is to say, those who first inculcated such a view must have suffered from a diseased condition of body or mind, or both. The fact that an opinion has been widely held is no evidence whatever that it is not utterly absurd ; indeed, in view of the silliness of the majority of mankind, a widespread belief is more likely to be foolish than sensible. The Pelew Islanders believe that the perforation of the nose is necessary for winning eternal bliss. (note: Westermarck, op. cit., p. 170). Europeans think that this end is better attained by wetting the head while pronouncing certain words. The belief of the Pelew Islanders is a superstition ; the belief of the Europeans is one of the truths of our holy religion.
(掲載日:2016.07.04/更新日: )