彼女(アリス)のケンブリッジ大学への2度目の訪問に,私は非常に興奮した。そうして彼女と定期的に手紙のやり取りを始めた。祖母とアガサ叔母さんが ロロ叔父さんの再婚した妻と 仲が良くなかったので,私は,もはやハスルミア(Haslemere)で夏季を過ごしていなかった。しかし(1893年)9月13日,2日間の日程でフライディズ・ヒル(Fernhurst近くにあり)に行った。天候は暖かく,絶好の日よりであった。無風状態で,早朝には谷間に霧が立ちこめた。ローガン(=アリスの兄)が(シェリーの)「金色に輝く霧(golden mists)」について(金色に輝く霧が立ちこめていないと?)シェリーをからかったので,今度は私が,「まさにその朝,金色の霧がかかっていた。しかしそれはあなた(ローガン)が目を覚ます前であった。」と言って,ローガンをからかったことを記憶している。(松下注:ラッセルが一番好きな詩人はシェリーであり,ラッセルは晩年,シェリーが住んでいたすぐ近くの(北ウェールズの)山荘で,エディスとともに暮らした。)(ローガンは眠っていたが)私の方は,朝食の前に散歩に行くことをアリスと約束していた(←打ち合わせていた)ので,朝早く起きていた。私たちは丘の上のブナの森のなかで腰を下ろした。そこは,初期のゴシック様式の大聖堂に見えるような非常に美しい場所であり,木々の幹(の間)を通して,四方の,遠方の景色を垣間見ることができた。その朝は空気が新鮮で(木々が)露で濡れていた。そうして,人生において,たぶん幸福は可能だろうと考え始めていた。けれども,内気なため,森の中に坐っている間中,慎しみ深い行動を乗り越えることができなかった。私が,その当時の慣習に従って,はっきりと求婚するにいたったのは,際限のない躊躇と心配のあげく,ようやく朝食の後のことであった。プロポーズは,承諾もされなかったし,拒絶もされなかった。私は,彼女にキスをしようとも,また手を握ろうとさえしなかった。お互い,継続して会い続け,文通を引き続き行うことで合意し,結婚するかどうかは,時(間)に解決させることにした。
自宅(Pembroke Lodge)に戻ってから,私は,一部始終を家族に話した。すると彼らは,型にはまった因襲に従い,反応した。彼らは言った。アリスはレデイ(淑女)ではない,幼児誘拐魔だ,下層階級のやま師だ,私の未熟につけいろうとしている女だ,いかなる上品な感情も持っていない人間だ,作法知らずのために私(ラッセル)を一生恥ずかしめるような女だ,と。しかし私は父から相続した約2万ポンド(現在の物価に換算すると,4~5億円か/参考:シャーロック・ホームズ時代の貨幣制度と物価)の財産をもっていたので,家族の言うことには全然耳をかさなかった。彼らとの間柄は非常に緊張したものとなり,それは私の結婚後まで続いた。 |
All this happened out-of-doors, but when we finally came in to lunch, she found a letter from Lady Henry Somerset, inviting her to the Chicago World's Fair to help in preaching temperance, a virtue of which in those days America was supposed not to have enough. Alys had inherited from her mother an ardent belief in total abstinence, and was much elated to get this invitation. She read it out triumphantly, and accepted it enthusiastically, which made me feel rather small, as it meant several months of absence, and possibly the beginning of an interesting career. When I came home, I told my people what had occurred, and they reacted according to the stereotyped convention. They said she was no lady, a baby-snatcher, a low-class adventuress, a designing female taking advantage of my inexperience, a person incapable of all the finer feelings, a woman whose vulgarity would perpetually put me to shame. But I had a fortune of some £20,000(pound) inherited from my father, and I paid no attention to what my people said. Relations became very strained, and remained so until after I was married. |