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ラッセル関係書籍の検索 ラッセルと20世紀の名文に学ぶ-英文味読の真相39 [佐藤ヒロシ]

バートランド・ラッセルのその時

Bertrand Russell, 1872.05.18-1970.02.02

* 適宜アップデートします。(2010.3.15 現在)

1872年(0歳)
Bertrand Russell(1872-1970)は,1872年5月18日, Wales (Monmouthshire 州 Trelleck の近く, Wye 河畔に建てられた Ravenscroft と呼ばれる家)で,英国初の女医 Dr. Garrett Anderson の手で生まれる。8ポンド3/4=約4,000g。愛称 Bertie。

1874年(1/2歳) [ペンブローク・ロッジ到着
★ 私が最初にはっきり思い出せるのは、1876年2月、ペンブローク・ロッジに到着した時のことである。

幼 少 時 代 [孤独な少年
★ 幼少時代の大部分を通じて、私の一日の最も重要な時間は、庭園で一人で過ごした時間であり、また私の生活のうちで最も活き活きとしていたのは孤独の時であった。

1883年(10/11歳) [数学との出会い
★ 11歳の時私は、兄を先生にして、ユークリッド幾何学を学習し始めた(cf.「非ユークリッド幾何学 解説その2)。このことは私の生涯において、最初の恋愛と同様、まぶしい大きな出来事の1つであった。この世界にこんな素晴らしいものがあろうとは、私はそれまで想像したことがなかった

1887年(14/15歳) [性の目覚め] [秘密の日記
★ 15歳の時、ほとんどがまんができないほどの強烈な性欲(←性的情欲)を感じ始めた。
★ 私は、現在興味をもっている若干の主題について(これから)書いてゆくつもりである。

1888年(16歳) [自殺への衝動
★ 野原をつっきってニュー・サウスゲートに通じる一本の(歩行者専用の)道があったが、私は、よく一人でそこに行き、日没を眺め、自殺について瞑想した。しかし、もっと数学を知りたかったため、自殺はしなかった。

1889年(16/17歳) [初恋
★ だが、私が特に関心を持ったのは、(米国)ブリン・マー女子大学から(夏休みで)帰省していた娘のことであった。

1894年(21/22歳) [アリスを熱愛
★ 次の重要な出来事は、1894年1月4日(ラッセル21歳)に起こった。

1895年(22/23歳) [知的野望
★ 私は、初春のある寒い晴天の日に、一人でティーアガルテン(訳注:the Tiergarten は、ベルリンにある210ヘクタールに及び大公園)の中を散歩している時に、将来の仕事の構想をたてたことを記憶している。私は、純粋数学から生理学までの、諸科学の原理に関する一連の著作と、さらに社会問題に関する別系統の一連の著作を執筆しようと考えた。私は、これら2つの著作は、最終的には、科学的であると同時に実際的なものに'統合'化できるだろうと思った。

1901年(28/29歳) [内省の5分間+回心
★ そうした内省の5分間が過ぎた時、私はまったく違った人間になっていた。

1902年(29/30歳) [精神的打撃(愛の破綻)
★ この講義が終了した頃--当時私は、グランチェスターのミル・ハウスのホワイトヘッド夫妻の家で彼らと一緒に暮らしていたのであるが--その前の(=2月にあった)打撃よりもずっと重大な精神的打撃が私を襲った

1905年(33歳) [記述理論及びタイプ理論の発見
★ 1905年になって、事態は好転しはじめた。アリスと私は、オクスフォードの近くに住むことを決めた。そうしてバグレイ・ウッドに自分たちの家を建てた。・・・。私たちは、1905年の春、そこに移り住み、入居してすぐに、私は「記述理論」を発見した。
1910年12月(38歳) [オットリン夫人との恋愛、及びアリスとの別れ
★ 私のオットリンに対する恋愛感情は圧倒的に強く、いかなる事態になろうと、全然かまわなかった。私はアリスから別れたい(←離れたい)、またオットリンをフィリップからひき離したいと思った。フィリップがどのように考え、どのように感じようとも、私は無関心であった。たとえ、フィリップが私たち2人を殺すことがわかったとしても--ホワイトヘッド夫人は、フィリップはきっとそうするだろうと私に確約したが--私はたった'一夜のために’喜んでそれだけの代価を払ったであろう。張りつめた9年間の自己否定が終わりに来ていた。・・・。それから私は、自分の自転車に乗って(アリスのもとを)去っていき、それによって、私の最初の結婚は終わった。1950年まで、私は再びアリスと会うことはなかった。1950年再会した時は、私は親しい友人として彼女に会った。
1913年(41歳) [コンラッドとの情熱的な親交
★ すべてこうした点で、私は、自分が彼とほとんど一致していることがわかった。私たちは、まさに最初に会った時、語り合うほどに、しだいに親密度が増していった。私たちは、表面の層をしだいに通過し、2人とも、'中心部の炎'に到達したように感じた(注:地球の表面から掘り進み、マグマに達するというイメージか?)。それは、それまで自分が経験したいかなるものとも異なるものであった。私たちは、お互い、相手の目を見つめ合い、そういう場所(中心の炎の中)に一緒にいる自分たちを発見し、半ばぎょっとし、半ぱ陶酔した。その感動は、'情熱的な恋愛'のごとく強烈であり、同時に、すぺてを包含する(包括的な)ものであった。私は、混乱(当惑)した気持ちでその場を離れ、そうして日常的な事柄(雑事)にはほとんど手がつかなかった。

1915年(43歳) [人間の「獣性」
★ ・・・。突如として獣のような'勝利の叫び声'が通りから聞こえてきた。私はすぐにベッドから飛び起きた。そして(ドイツの)ツェッペリン飛行船が炎に包まれながら墜落するのを見た。勇敢な飛行士が苦悶しながら死につつあるという思いが、群集(←街)に'勝利の喜び'をもたらした全てであった(それ以外の何物でもなかった。)。その瞬間において、コレットの愛(のみ)が私の心の避難場所であった。それは、逃れられない残酷さそのものからではなく、人間とはなんであるかということを悟ることによる'魂を切り刻む激しい苦痛'からの避難所であった。

1921年3月(48歳) [死線をさ迷い・・・
★・・・私はドイツ人経営の病院に運ばれ、その病院では、昼間はドラが私を看痛し、夜は北京にたった一人しかいなかった専門の英国人看護婦が私を看護した。二週間の間、医師団は毎晩、朝までには私は死ぬだろう、と考えた。私は、この時のことは、二、三の夢を除いて何一つとして記憶していない。譫妄状態を(ようやく)脱した時、私は、自分がどこにいるのかわからなかったし、看護婦の存在も認識できなかった。ドラは、私がずっと危篤状態でもうじき死にそうな状態にあるといったら、それに対して私は次のように応えたと、ドラは語った。「それは大変面白い!」 しかし非常に衰弱していたので五分後にはそれも忘れてしまい、彼女はまたも、同じやりとりを繰り返さなければならなかった。私はもはや自分の名前すら思い出せないほどだった。このような譫妄状態が終わってからも、一ヶ月間は、いつ死ぬかもしれない状態だと言われ続けが、私はは、そんなことを一言も信じなかった。

1921年7月(49歳) ['怒り'で我を忘れ・・・
★・・・ 私たちは、猛暑のなか京都から横浜まで(東海道線で)10時間の旅をした。暗くなってまもなくの頃、横浜に到着した。そうして、私たちはカメラマンたちが一斉にたくマグネシウムの爆発音で迎えられた。マグネシウムが一回爆発するごとにドラはとび上がったので、流産するのではないかという心配が増した。私は、'怒り'で我を失った。・・・。

1921年11月16日(49歳) [子供を持ちたいという欲求
★・・・ 1894年の夏、医師の診断を聞いた後、アリスと一緒にリッチモンド・グリーンを歩いたあの日以来、私は、子供を持ちたいと思う自分の欲求を極力抑えようといつも努めてきた。けれどもその欲求は、絶えることなくしだいにより強まっていき、ついにはほとんど耐えがたいまでになった。1921年11月16日、初めての子供が生まれると、それまでこらえていた感情が一気に解放されたのを感じ、それに続く10年間は、私の主たる目標は'親たること'であった。