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バートランド・ラッセル 自伝 第2巻第1章 - コレット・オニール n.5(松下彰良 訳)- The Autobiography of Bertrand Russell, v.2

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* 右上写真出典:R. Clark's The Life of Bertrand Russell, 1975.
* 日高一輝「恋愛と結婚と離婚の自由論--B.ラッセル事件」

第2巻第1章 第一次世界大戦(承前)

 自分が獄中であることを嫌に思った(←嫌だと思わせた)ことがたった一つあった。それはコレットに関係したものであった。私が彼女と恋に落ちてからちょうど一年後に,彼女は別のある男性と恋に落ちた。 ただし,彼女は私との関係を変えることは望んでいなかった。けれども,私は激しく嫉妬した。
(ラッセル注:後になって,私は,次のようなことをはっきり理解した。即ち,私が強い感情を抱いたのは,単に嫉妬からだけではなく --私がコレットとの間に存在していると感じていたような,非常に深くまじめな関係の場合にはよくあるように-- 協力関係がこわされたという意識(思い)と同時に, --その数年間にきわめて頻繁にまたいろいろな形で起こったことであるが--, 聖域が冒涜されたという意識(思い)からであった。)
 私のその相手の男に対する評価は最悪だった。それは全然根拠がないものではなかった。私はコレットと激しく口論した。そうして私たちの関係(仲)はもう二度と前と同じ状態には戻らなかった。私は,刑務所にいる間ずっと,嫉妬で苦しめられ,無力感から狂気に駆り立てられた。私は,自分が嫉妬を感じることを正当化できるとは考えておらず,嫉妬などというものは忌みきらうべき感情だとみなしていた。しかしそれにもかかわらず,私は嫉妬で消耗させられた。私が初めて(彼女に対して)嫉妬心を抱いた時,二週間の間,毎晩,ほとんど一睡もできなかった。そうしてついには,医師に睡眠薬を処方してもらってようやく睡眠をとることができた。いまにして思えば,その時の感情は全く愚かであり,コレットの私に対する感情は,重大な問題でなければどれだけ多くの問題が起ころうとも,変らず消えないほどとても真剣なものであったと,(はっきりと)理解している。しかし,そのような問題に対して現在私が持つことができる(冷静沈着な)哲学的態度は,'哲学'のおかげというよりは生理的衰退によるものであると思う。もちろん,'真相'は,彼女は非常に若く,私が当時(戦時中に)生きていたようなきわめて真摯な雰囲気のなかで絶えず生き続けることは彼女にはできなかった,ということである。しかし,現在では私はそのことを理解しているが,当時は嫉妬のためにきわめて激しく彼女を非難してしまった。そうして,当然の結果として,私に対する彼女の気持ちは相当に冷めてしまった。私たちは1920年まで恋人同志であったが(注:ラッセルは1921年にドーラ・ブラックと正式に結婚),最初の年(1915年)の(二人の仲の)完全無欠さは,けっして取り戻すことがなかった。


(注:ラッセルの『幸福論』のなかの「ねたみ(及び嫉妬)」に関する章を読まれた方も少なくないと思われますが,この章を読んだ人のなかには,ラッセルは「嫉妬心」という人間にとって自然な感情に乏しく,その面では人間性に少し問題がある,といった指摘をする人が時々います。しかし,このくだりをみればそうではないことがよく理解できると思われます。ラッセルの『幸福論』は,ラッセルが様々な'不幸の原因'と戦い,それらを克服して到達した境地で書かれたものであり,それゆえにタイトルを,The Conquest of Happiness としたしだいです。
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There was only one thing that made me mind being in prison, and that was connected with Colette. Exactly a year after I had fallen in love with her, she fell in love with someone else, though she did not wish it to make any difference in her relations with me. I, however, was bitterly jealous.

* Later I recognised the fact that my feeling sprang not only from jealousy, but also, as is often the case in so deeply serious a relationship as I felt ours to be, from a sense both of collaboration broken and, as happened so often and in so many ways during these years, of the sanctuary defiled.

I had the worst opinion of him, not wholly without reason. We had violent quarrels, and things were never again quite the same between us. While I was in prison, I was tormented by jealousy the whole time, and driven wild by the sense of impotence. I did not think myself justified in feeling jealousy, which I regarded as an abominable emotion, but none the less it consumed me. When I first had occasion to feel it, it kept me awake almost the whole of every night for a fortnight, and at the end I only got sleep by getting a doctor to prescribe sleeping-draughts. I recognise now that the emotion was wholly foolish, and that Colette's feeling for me was sufficiently serious to persist through any number of minor affairs. But I suspect that the philosophical attitude which I am now able to maintain in such matters is due less to philosophy than to physiological decay. The fact was, of course, that she was very young, and could not live continually in the atmosphere of high seriousness in which I lived in those days. But although I know this now, I allowed jealousy to lead me to denounce her with great violence, with the natural result that her feelings towards me were considerably chilled. We remained lovers until 1920, but we never recaptured the perfection of the frst year.
(掲載日:2006.10.08 更新日:2011.7.31)