* 右上写真(コレット:Lady Constance Malleson)出典:The Life of B. Russell in Pictures and in His Own Words, comp. by C. Farley and D. Hodgson, 1972.第一章 第一次世界大戦)(承前)当時の(英国の)検閲は,この種の文書(ウィルソン大統領への公開書簡)を送ることを困難にしていた。しかしヘレン・ダドリー(Helen Dudley, /参考:ラッセルとヘレン・ダドリーとの関係)を訪ねて来ていた彼女の妹のキャサリンが,その文書(公開書簡)をもってアメリカに戻ることを引き受けてくれた。キャサリンはそれを隠す巧妙な方法を見付けた。そうして,彼女は,その公開書簡をアメリカ平和主義者の委員会に無事に渡し,その委員会を通して,アメリカのほとんど全ての新聞に発表された。この新聞記事(account)を読めばわかるように--当時大部分の人たちの考えと同じく--第一次世界大戦は,いずれの側の勝利にも終わらないだろうと,私は考えていた。もしもアメリカが中立のままでいたとしたら,疑いもなく,その通りになったであろう。1916年の中頃から1918年5月に投獄されるまで,私は徴兵反対協会(No Conscription Fellowship)の仕事で,実際のところ,非常に多忙であった。コレットと過ごす時間は,平和主義者としての仕事からひったくるようにして得るようなものであり,また,そのようにして確保した時間も,大部分,平和主義者の仕事と関係したものであった。クリフォード・アレン(Clifford Allen, 1889-1939)は,定期的に,刑務所から2,3日間出されていたが,彼がなおも軍の命令に従うのを拒んでいることが明らかになるやいなや再び,軍法会議にかけられた。私とコレットは,いずれもいつも,彼の軍法会議に出かけていた。(参考:コレット,アレンとの出会い) |
From the middle of 1916 until I went to prison in May 1918, I was very busy indeed with the affairs of the No Conscription Fellowship. My times with Colette were such as could be snatched from pacifist work, and were largely connected with the work itself. Clifford Allen would be periodically let out of prison for a few days, to be court-martialled again as soon as it became clear that he still refused to obey military orders. We used to go together to his courts-martial. |