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バートランド・ラッセル自伝_第1巻第1章 - 兄の家庭教師スポルディング(松下彰良 訳) - The Autobiography of Bertrand Russell, v.1

前ページ 次ページ 第1巻 第1章(幼少時代)累積版へ 総目次
* John Francis Stanley Russell (1865.12.8-1931.3.3): バートランド・ラッセルの兄。第二代ラッセル伯爵

 ★最初にアップロードした旧訳(誤訳)

 両親は兄のために,D.A.スポルディングという,かなり科学的能力のすぐれた家庭教師を雇った。ウィリアム・ジェームス(著)の『心理学』(原注:See also J. B. S. Haldane, British Journal of Animal Behaviour, v.II,n.1, 1954を参照)のなかでの彼(スポルディング)の著書への言及からみて,すくなくとも私はそう判断する。(松下注:日高訳では,「兄の著(作)『ウィリアム・ジェームズの心理学』におけるその手なみから,すくなくともそう推察する」となっている(誤訳)。→ Psychology だけがイタリックになっていることからわかるように,『心理学』はウィリアム・ジェームズの有名な著作のことを指している。また,日高氏は,以下のスポルディングを,(ラッセルの兄の)フランクと誤訳している。→ 「正しい訳を求めて(1)」参照
 スポルディングは,ダーウィン進化論の信奉者であり,ニワトリの本能の研究に従事していたが,彼の研究を助けるため,応接間もふくめ,家中のどの部屋でも,ニワトリをめちゃめちゃに動き回るままにしておいた。彼は当時,肺結核の症状がかなり進んでおり,父の死後ほどなく亡くなった。


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 純然たる理論的根拠から,父と母は,彼(スポルディング)が肺結核の故に子供をもつべきではないが,さればといって独身で暮らすよう求めるのも正しくないと結論を下したようである(訳注:apprently についてはR英単の説明を参照)そうして母は,彼とベッドを共にすることを許した(松下注:'live with' を「一緒に暮らす」と訳したが,植村昌夫氏から,'live with' は同衾するの婉曲表現であるので,重大な誤訳であるとの指摘があった。進歩的な両親,あるいは成人した後のラッセルからすれば「普通の」発想ではあるが,私がこの部分を訳したときには,そこまで考えなかった。植村さんに感謝したい。)けれども,そうすることによって母が,幾らかでも楽しかったかというと,全然そのような形跡は見当たらない。いずれにせよ,せっかくこのように配慮をしても,それもほんの短い間しか続かなかったのである--というのは,それも私が生まれた後始まり,私が二歳になったばかりで母が亡くなったからである。けれども父は,母の死後もその家庭教師を雇ったままにしておいた。そうして父が亡くなった時,父は私たち息子を宗教的教育の災いから守りたいと望み,二人の息子の後見人として,その家庭教師とコブデン=サンダーソン(Thomas James Cobden-Sanderson, 1840-1922:イギリスの製本家・装丁家。ウィリアム・モリスの影響のもとにハンディクラフトの分野で活躍)の二人の無神論者を残していることがわかった。しかしながら,祖父母は,父が執筆したものから,母との関係で起こった一切のことを発見した。この発見は,ヴィクトリア朝時代の人である古い祖父母をこの上なく恐れさせた。かれらは,もし必要とあらば,陰謀をたくらむ不信心者の毒牙から無垢な子供たちを救い出すために,法的手段に訴えようと決意した。そこで,この家庭教師とコブデン=サンダーソン()は,サー・ホレース・デイビー(後のデイビー卿)に相談した。卿は彼らに,シェリーの先例を信頼すれば,多分,(訴訟に勝つだけの)言い分はないだろう,と確約した。そこで,兄と私は,大法官庁の被後見人ということにされ,コブデン=サンダーソンは,私を祖父母,に前述の日に引き渡したのである。こうしたことが,(ペンブローク・ロッジの)使用人たちが私に関心をよせた一因である。


*写真(=兄フランク)出典:R. Clark's B. Russell and His World, 1981.

ラッセルの兄 Frank Russell の写真 They obtained for my brother a tutor, D. A. Spalding of considerable scientific ability - so at least I judge from a reference to his work in William James's Psychology.(See also J. B. S. Haldane, British Journal of Animal Behaviour, v.II,n.1, 1954) He was a Darwinian, and was engage in studying the instincts of chickens, which, to facilitate his studies, were allowed to work havoc in every room in the house, including the drawing-room. He himself was in an advanced stage of consumption and died not very long after my father. Apparently upon grounds of pure theory, my father and mother decided that although he ought to remain childless on account of his tuberculosis, it was unfair to expect him to be celibate. My mother therefore, allowed him to live with her, though I know of no evidence that she derived any pleasure from doing so. This arrangement subsisted for a very short time, as it began after my birth and I was only two years old when my mother died. My father, however, kept on the tutor after my mother's death, and when my father died it was found that he had left the tutor and Cobden-Sanderson, both atheists, to be guardians of his two sons, whom he wished to protect from the evils of a religious upbringing. My grandparents, however, discovered from his papers what had taken place in relation to my mother. This discovery caused them the utmost Victorian horror. They decided that if necessary they would put the law in motion to rescue innocent children from the clutches of intriguing infidels. The intriguing infidels consulted Sir Horace Davey (afterwards Lord Davey) who assured them that they would have no case, relying, apparently, upon the Shelley precedent. My brother and I were therefore made wards in Chancery, and Cobden-Sanderson delivered me up to my grandparents on the day of which I have already spoken. No doubt this history contributed to the interest which the servants took in me.