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バートランド・ラッセルのポータルサイト


[ラッセル徒然草(Jan. 2008)

★「ラッセル徒然草」では、(あくまでもラッセルに関したものという限定のもと)ラッセルに関するちょっとした情報提供や本ホームページ上のコンテンツの紹介、ラッセルに関するメモや備忘録(これは他人に読んでもらうことを余り意識しないもの)など、短い文章を、気が向くまま、日記風に綴っていきます。 m
 ↑ (最新の日付のものがいつも先頭です!)


[索 引]
2008年 2月 3月 4月 5月 6月 7月(ナシ) 8月 9月 10月  11月 12月 

2009年 2010年  2011年  2012年

[n.0025:2008.01.31(木):大正10年(1921年)の『哲学雑誌』から]

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 ラッセルは、大正10年(1921年)7月17日に日本を訪れ、30日に日本を離れたが、中国での大病から回復していなかったため、日本での講演は慶應義塾大学大講堂で行ったのみであった(ただし、労働者の集会での短いスピーチは神戸や大阪などで行っている)。ラッセルの健康がすぐれないのは関係者は皆知っていたはずであるが、新聞記者などはそのような事情はおかまいなしにフラッシュをいっせいにたいたり(この時、ドラは妊娠中のため、ドラに何かがあってはいけないと、ラッセルは激怒してステッキを振り上げた)、ラッセルになにか面白いことを言わせようと、インタビューをいろいろ試みた。しかし、日本の某新聞がラッセルが北京で病死したと世界に向けて誤報を流したため、日本に到着した時押しかけた新聞記者に対し、ラッセルは、ドラを通じて「ラッセルは死亡したため、残念ながら取材に応じることはできません」というビラを配り、取材に応じなかった。右は、『哲学雑誌』414号(1921年)の「近事片々」欄に載ったラッセルの消息記事である。(このコピーは、電子化したため廃棄)


[n.0024:2008.01.29(火): 近代デジタル・ライブラリとWARPシステム]

 昨日の「日本経済新聞」朝刊に、国会図書館の「近代デジタルライブラリ」及びWARPシステム(特定時点でのホームページ情報の蓄積事業)に関する記事(「変る図書館(4)−ネット情報を後世に」)が載っていたので、久しぶりに、このサイトを訪れ、明治・大正時代の電子化された雑誌を「ラッセル」をキーワードにして検索してみた。(アクセスが集中しているせいか、なかなか接続できない。)
★国会図書館「近代デジタル・ライブラリ及び、WARPシステムについて
(説明文)当館所蔵の明治期・大正期刊行図書を収録した画像データベースです。平成19年7月現在、約143,000冊を収録しています。収録されている資料は、児童図書と欧文図書を除いたもののうち、著作権保護期間が満了したもの、著作権者の許諾を得たもの及び文化庁長官の裁定を受けたものです。
 20件ひっかかったが、ほとんどは祖父のジョン・ラッセル(首相)に関するものであり、バートランド・ラッセルのものは土田杏村の「教育の革命時代」(第六編「ラッセル氏の哲学及び自由思想論」を含む)だけであった。大正時代の書籍が多数入力されるようになれば、ラッセル関係文献はたくさんひっかかるようになると思われる。
 近代デジタルライブラリ・システムでは、検索して表示したものを印刷もできるが、一度に印刷できるのは10ページまでとなっているので、少し手間がかかる。また、明治・大正時代の印刷物(活字)は見難く、読み難い。

 もう一つ、WARP事業であるが、現在のところ行政機関のホームページなど約2,000件だけということなので、もちろんこのラッセルのホームページも対象になっていない。印刷物は国会図書館は納本制度もあるので積極的に資料を収集しているが、インターネット上の電子情報については、貴重な情報であっても、いつしか消えてしまっているものも少なくないと思われる。

[n.0023:2008.01.28(月): 粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(補遺3)]

 粉川忠氏と東京ゲーテ記念館については今後も時々ふれることになるだろうが、連載をとりあえずこれで中断したい。
 本日『夜の旅人』を読了した。大変興味深く読むことができた。この本の内容については、『夜の旅人』からの抜書き」をお読みになることをお勧めしたい。この抜書きを読めば、通読してみたいと思われる人も多少おられるのではないかと思う。
 図式的に、端的に粉川氏を紹介すると、若い頃からの信念のもと一直線にゲーテ関係資料の収集に努められたように見える(本人も、手短に言わなければならないときは、そのように受け取られそうな言い方をしてしまいがちであったと思われる)が、やはり粉川氏も人間の子、何度か、実業の世界で成功してお金をもっと儲けてからゲーテ関係資料の収集をしようかと思ったりする。(若い頃、他人から一切援助を受けないと誓いをたてるが、その誓いを立てる前は、村長である父親から経済的な支援を受けようとするが断られている。)終戦が近い頃、粉川氏が会社の発展のためにゲーテ関係資料の収集を一時中断しようか・続けようか迷ったとき、妻のきぬよさんは以下のように言ったとのこと。奥さんの意見は手厳しく、愛情に満ちている。今の時代にはこのような女性はほとんどいないであろう。
でもねえ、会社が大きくなって、そのあとで急に図書館を建てるとか、美術館をつくるとか、そんなことは他の人がだれでもやっていることだわ。お金さえあれば、それで簡単にできるようなことなら、わざわざあなたが一生を賭けることもないわ。子どもを育てるときだって、毎日毎日面倒を見てあげなきゃ、いい子に育たないでしょ。10年も20年も子どもを放っておいて、お金儲けをして、さあお金ができたから今度は教育してやろうと思ったって駄目じゃないですか。ゲーテ図書館も毎日育てなくちゃ。建物はお金さえあればりっぱなものができるでしょうけど、中身は一朝一夕で充実したものにならないのと違いますか。どこかのお金もちがやるようなこと、私、嫌いです。
 粉川氏がいつ亡くなったかGoogleで調べても検索できなかった。そこで、昨日地元の公共図書館に行き、『20世紀日本人名事典』で調べたところ、1989年7月17日に亡くなったことがわかった(因みに、『20世紀日本人名事典』には、昭和63年に西ドイツ功労勲章一等功労十字章、平成元年に吉川英治文化章受賞と書かれている。)。1975年の夏に、粉川氏(1907.6.19〜1989.7.17)にお会いして2時間ほどいろいろお聞きしたことが懐かしく思い出される。(なお、『夜の旅人』読後の成果として、1月22日から1月27日の「ラッセル徒然草」の記述について、数箇所、追記または表現の訂正を行っている。)
 * 参考:山田元久「新『東京ゲーテ記念館』オープンされる(1988年10月)

[n.0022:2008.01.27(日): 粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(補遺2)]

 昨日、粉川忠氏(1907-1989)の生涯を描いた長編の伝記小説、阿刀田高『夜の旅人』(1983年発表/文春文庫=1986年刊)を地元の図書館で借り、早速読み始めた。
 巻末に作者・阿刀田高のあとがきがあり、pp.244-246に、次のように書かれている(以下は抜書き)。
の画像 ・・・。手探りで習作を続けているうちに、私はふと粉川忠さんのことを思い出した。−−もしゲーテの熱狂的な蒐集家のところに、ゲーテそっくりの人物が訪ねて来たらどうなるだろうか。蒐集家はその男を剥製にしてひそかにコレクションに加えたいと思うのではあるまいか−−。・・・。これをヒントとして私は一篇の小品(注:「ナポレオン狂」)を書きあげた。主人公をゲーテの収集家にしてしまってはあまりにも粉川さんにくっつき過ぎるし、あとでトラブルが生じるかもしれない。そこでゲーテをナポレオンに変え、主人公をナポレオンの蒐集家とした(この作品で直木賞受賞)。・・・。受賞直後のあわただしさが一段落したところで、ゲーテ記念館に赴いて、「実は粉川さんをモデルにして小説を書いたんです。」と告白すれば、粉川さんは、「存じております。知人に、'あんたそっくりの人が出てくるぞ'って言われて、読みましたよ。直木賞をお取りになったそうで、おめでとうございます。」と祝福してくださった。・・・。
 やっぱり、この人は小説の主人公となるべき人だな。「ナポレオン狂」のような作品ではなく、もっと真正面からこの人の生涯と事業を書き残しておくべきではあるまいか−−その考えを具体化したのが、この『夜の旅人』である。・・・。ところで、『夜の旅人』は、私の初めての長編小説である。・・・。現存する人物の伝記を書く作業は、便利な面もあるが、むつかしいところも多い。筆者が資料を充分に調査し、'この時粉川はこう考えたにちがいない'と判断し、その判断が充分に妥当性を持つものがあったとしても、当人が現れて「いいえ、私はそうは思いませんでした。」と言えば、それで話は決まってしまう。・・・。作品の中に粉川さんの侵入を断じて許さない、私自身の判断を、それとわかる形で挿入する必要を感じ、「私A」と「私B」の対話を挿入してみた。
 現在、1/3ほど読み進んでいるが、以前書いた文章(例:ゲーテを読んで感銘を受け、結核がなおったため、ゲーテ資料の収集を生涯の仕事にすることを決意)は、間違ってはいないがニュアンスが多少違うので、「書き方」を少し修正する必要がありそうである(読み終わったら、修正の予定)。なお、『夜の旅人』の詳細は、この「ラッセル徒然草」に関係のないことであるため、読書メモ(抜書き)として、別ファイルとする。興味のある方は、 「→ 抜書き」 をどうぞ。)

[n.0021:2008.01.26(土): 粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(補遺)]

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 東京ゲーテ記念館は、その後ゲーテ関係の資料が増え収容しきれなくなったため、東京都北区西ケ原に新館を建設し、昭和63年に引越しをしている。現在の東京ゲーテ記念館(右写真)については、インターネット上に多数紹介記事があり、Googleで簡単に検索できる。
 ところで、粉川忠氏をモデルにした小説としては、「ナポレオン狂」以外に、阿刀田高氏の長編小説『夜の旅人』(文春文庫)がある。私はまだ読んでいないので、本日は紹介できないが、大変評判のよい小説のようである。そこで地元の図書館に予約してあり、明日受け取り読む予定である。インターネット上に感想がいろいろ書かれているので、とりあえず、関係のページのURLを2つ少し紹介しておきたい。ただし、かなり事実に忠実だとしても、やはり小説であるため、フィクションの部分があり、すべてが事実だととらえない方がよいだろう。たとえば、若い時に粉川氏は結核にかかり、ゲーテを読み感動し、ゲーテを読んでいるうちに健康を回復したというのが事実であるはずだが(私も直接粉川氏にそうお聞きしたし、先日ご紹介した某高校先生も同様に報告している。)、下記の一番目のページで紹介されている、その件(くだり)の描写は違っている。(2008.01.27追記:私だけでなく、1月24日に紹介した大阪府立高校の先生も粉川氏から「結核」に罹ったと聞いている。なぜ『夜の旅人』でそのことが書かれていないのかよくわからない。)
  • 情熱―本を蒐める― の3〜4節のところ
  • 木村謹二博士−ゲーテ研究のドイツ文学者 の「ゲーテ記念館」のところ(粉川忠氏とゲーテ研究で有名な東大の木村謹二教授との感動的な出会いについて書かれている。)
    1975年当時の東京ゲーテ記念館「収集資料」
    の画像

    [n.0020:2008.01.24(木): 粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(3)]

     資料を整理していたら、大阪府立高校のある先生が東京ゲーテ記念館を訪問した時の紹介記事が載っている『大阪府立三島高校図書館報』n.14(1986年)が出てきた。この教師が粉川氏を訪れたのが1986年、粉川氏が78歳の時だから、私がお邪魔した11年後のことである。記念館の資料もより充実していると思われるので、以下、参考まで、画像の形式でご紹介しておきたい。
    (抜書き:経営する機械製造会社の収益金をすべて注ぎ込み、睡眠時間を4時間に減らし、一年365日無休で、ファウスト的衝動に駆られたように資料を収集し、日々ゲーテ三昧の人は、粉川忠氏78歳である。・・・。同氏のゲーテへの道は小説的だ。事実、阿刀田氏は同氏の克明な伝記小説を一本仕上げている。『夜の旅人』(文藝春秋)。茨城師範在学中『ファウスト』を読み、感動。・・・。昭和7年、35冊の本を並べて「粉川ゲーテ文庫」と命名。・・・。味噌こし機の特許13件・実用新案13件の取得。・・・。ゲーテ研究の泰斗(たいと)、木村謹治・東大教授との、本郷の古本屋での運命的な出会い。昭和20年10月まで5年余り、毎週土曜日273回も、個人的に謝礼なしの出張講義を受ける。・・・。)

    大阪府立図書館報(ゲーテ関係記事)の画像

    [n.0019:2008.01.23(水): ナポレオン狂のモデル・粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(2)]

     「ナポレオン狂」のなかの記述と、実際の粉川氏及び東京ゲーテ記念館に関する事実を、以下、対象表にしてみよう。

    「ナポレオン狂」の中の記述
    粉川忠氏と東京ゲーテ記念館に関する事実
    ・私の知るところでは南沢金兵衛氏は明治の末年に福井県の貧しい農家の三男坊として生まれた
    ・16歳の時、彼はたまたま長瀬鳳輔の「ナポレオン伝」を読んで強烈な啓示を受けた
    ・で、せめてナポレオンについて一切合切どんな知識でも集めてみようと思い立ったのです。(こうして南沢金兵衛氏のナポレオンに関するコレクションが始まった。

    ・一方、南沢金兵衛氏は薬問屋に奉公するかたわら、薬包機についてちょっとした工夫を凝らし、これが特許を取り、実用化されるにつれ、経済的にも躍進するチャンスを見出した
    南沢金兵衛ナポレオンを除いてほとんどなんの趣味も持たなかった。タバコは吸わず、酒は少々、それも宴会の席などで勧められてわずかに口をつける程度である。結婚はしたが子供には恵まれなかった。
    ・彼は収入のほとんどを−妻と自分が生活できるほんのわずかなものを除いて、他の一切をナポレオンのために消費し続けた。
    東京世田谷の郊外にナポレオン記念館と呼ばれる4階建ての城館がある(館は往時の古城のように深い木立ちの中にあって、秋風だけが時折窓を叩く)。財団法人の形を取っているが、ことごとく南沢氏のコレクションであることは疑いない。老夫婦は4階の片隅に自分たちの住居を作り、あとの3階はすべて南沢金兵衛氏が生涯を賭して集めたナポレオン関係のコレクションで埋まっている。
    ・記念館には雑務を担当する女子職員と掃除婦が一人ずつ雇われているが、コレクションの内容についてはまったく知識がない。収集も整理も南沢氏が一人で取り仕切っている。
    その収集には今で月額百万円以上の費用が当てられている
    ・南沢氏いわく、「ええ、それはもうナポレオンに関するものはなんでも集めますよ。・・・。とにかくナポレオンという字が書いてあれば雑誌でも新聞でもみんなファイルにしてあります。
    ・今では記念館のコレクションはフランス政府が勲章を与えるほどのものになっている。
    ・話の順序が逆になってしまったが、私(作者)が南沢氏と知り合ったのは、大学の恩師の紹介でほんの一時期フランス語の個人教授を勤めたからである。・・・
    ・粉川氏は水戸出身。粉川家は代々村長の家系。
    若いころ結核にかかり、長い間病床にあったが、ゲーテを読んでいるうちに直ってしまった。(2008.01.27追記:『夜の旅人』には「結核」とは罹れていない。)
    ・生きがいを持って一生続けていける仕事はないか考えるため、約2年間徒歩旅行。旅行期間中にいろいろ考えたあげく、ゲーテのおかげで元気になったので、ゲーテに関して何かやろうと決心(後にゲーテ関係資料の収集をすることにした)

    ゲーテ資料集のためには資金がいるというので、会社を興して儲け、その利益をゲーテ資料収集につぎこむことにした。

    ・睡眠時間を4時間に減らし、一年365日無休で資料の収集・整理






    (財団法人)東京ゲーテ記念館の建物は、渋谷区神泉の街中にあり、地上7階、地下1階







    ・当初は一人でやっていた。1975年現在、職員は5名(その中の2名は、粉川夫婦か?


    ・経費:維持費だけで月75万円

    以前は網羅的に収集していたが、1970年頃からは、ゲーテ死後のもので、東洋(西パキスタンから以東、オセアニアを含む)におけるゲーテ文献すべてを収集(西パキスタン以西は某貴族が収集しているとのこと)


    東大教授の木村謹治氏に、昭和15年から20年の5年間、ドイツ語の教授を受ける。



    [n.0018:2008.01.22(火): ナポレオン狂のモデル・粉川忠氏と東京ゲーテ記念館(1)]

    東京ゲーテ記念館(渋谷区神泉)の写真  バートランド・ラッセル資料室を創りたいということから、慶應の大学院生の時、歴史上の著名人に関する資料を収集・閲覧に供している専門図書館について少し調べたことがあった。その中に、粉川忠(こがわ・ただし:1907.6.19〜1989.07.17)(財団法人)東京ゲーテ記念館というのがあった。ラッセル資料室創りについてヒントを得るために、渋谷区の神泉駅から徒歩5分位のところに当時にあった東京ゲーテ記念館に粉川忠氏(当時68歳)を訪ね、2時間ほど話を伺った(当時のメモによると、1975年7月11日、14:00〜16:00 訪問)
     遠い昔のことなので、不正確なところがあるかも知れないが、手元のメモを参考にしつつ、思い出すと、大体次のような話だったと記憶している。
    1. 若いころ結核にかかり、長い間病床にあったが、ゲーテを読んでいるうちに直ってしまった。(2008.01.27追記:粉川氏の長編伝記小説『夜の旅人』には、若い頃は病弱であったとは書いてあるが、「結核」にかかったとは書かれていない。どうしたことだろうか?/大阪府立高校の某教師も粉川氏から「結核」にか罹った聞いたと書かれている。)
    2. 家のものは、(粉川家は代々村長をしていたので)長男の忠氏を村長にしようと考えていた。しかし、粉川氏は、生きがいを持って一生続けていける仕事はないか考えるために、約2年間徒歩旅行に出かけた(海外は台湾、東南アジマまでいった)(2008.01.27追記:これについても『夜の旅人』には詳しく書かれていない。)
    3. 旅行期間中にいろいろ考えたあげく、ゲーテのおかげで元気になったので、ゲーテをやろう、特にゲーテ関係の資料の網羅的収集しよう、と決心した。
    4. 図書館関係者はこういう資料室があることを知らず、不勉強である。(なお、東京ゲーテ記念館の職員は5名とも独文は出ていないが、大学でゲーテを研究した人間よりもゲーテ好きで、ゲーテに詳しいとのこと。)
    5. ゲーテ関係資料収集のためには資金がいるというので、会社を興して儲け、その利益をゲーテ資料収集にまわすことにした。(醤油の醸造機械を発明しその工場を創ったと思っていたが、関連資料『三島(高等学校)図書館報』n.14(1986年2月24日付)によると、「味噌こし機」とのこと。)
    6. なお、粉川氏には弟が2人おり、一人は戦死したが、もう一人は三井グループの某会社の社長をしているとのことであった。
    (財団法人)東京ゲーテ記念館の概要(=1975年当時)
    設立:昭和26年
    住所渋谷区神泉町9番1号(以前は北区にあった。渋谷区神泉の建物は昭和39年=1964年に完成したようである。/→ 平成19年現在、北区にもどっている。)
    建物地上7階、地下1階(右上写真 拡大する!
    蔵書等約8万件
    資料収集範囲:以前は網羅的に収集していたが、1970年頃からは、ゲーテ死後のもので、東洋(西パキスタンから以東、オセアニアを含む)におけるゲーテ文献すべてを収集(西パキスタン以西は某貴族が収集している由)
    閲覧席:25席
    分類:ゲーテ十進分類表(粉川氏考案。固まるまでに15年かかった由)
    休館日:日曜祭日及び1、2、7、8月は資料整理のため休館
    目録:著者名、書名、件名(約130万枚)
    経費:維持費だけで月75万円
    職員:5名(5名の中には粉川夫婦の2名が含まれていると思われる。/初期の頃は粉川氏一人でやっていたそう)
    財源:川口と川崎に機械工場をもっていてその利益をつぎ込んでいる。(外部から一切援助を受けないという方針)
    利用資格:ゲーテ研究者、ゲーテ関係の出版企画担当者など
    サービス:閲覧及び複写サービス
    その他:長野県に新館をつくり、長期滞在して研究できるようにしたい(訪問時、10年前から土地は購入済とのことであった)。
     世間によくあるように、お金持ちになったので、そのほんの一部を社会に還元しようというのではない。粉川氏の場合は、ゲーテ関係資料を収集する資金を得るために「やむをえず」会社を経営することにしたのである。

     私が粉川氏にお会いした3年後(1978年=昭和53年)に、阿刀田高氏は短篇小説「ナポレオン狂」を『オール読物』に発表しており、「ナポレオン狂」が収録された短篇集『ナポレオン狂』(講談社、昭和54年4月刊)で第81回直木賞を受賞している。この小説に登場するナポレオン関係資料のコレクターである南沢金兵衛のモデルは、粉川氏である。小説であるから創作(虚構)の部分も少なくないだろうが、粉川氏のゲーテ関係資料収集がナポレオン関係の資料収集に翻案されたと考えてよいだろう。(注:講談社文庫の解説のなかで、尾崎秀樹は、「「ナポレオン狂」では、かつてナポレオン関係のものなら何でも集めている紳士と出合ったことがあり、こういう人の前に、ナポレオンそっくりの人間が現れたらどうなるかと想像したのがひとつのヒントになったそうだ」と書かれているが、これは尾崎氏が阿刀田氏の話を聞き間違ったか、阿刀田氏が尾崎氏に言い間違ったか、あるいはナポレオンとゲーテの話を阿刀田氏がごちゃまぜにしてしまったか、いづれかだろうと想像される。)
     粉川氏は、当時でも8万点以上のゲーテ関係資料を所蔵しており、その資料の分類のために、ゲーテ十進分類表を考案された(目録カードは1つの資料に10枚ほど作成)。そうして、都バスのナンバープレートを見ると、いつもあの数字はゲーテ十進分類表でいうと何にあたるかとすぐ考えてしまう、ということであった。

     粉川氏に、私もバートランド・ラッセル資料室を創りたいと申し上げたら、はげましてくださったが、私には粉川氏のような経済力も気力もない。バートランド・ラッセルの好きなお金持ち(篤志家)が寄付してくれるか、宝クジでも当たらないと無理そうである。あるいは多くの人から募金を集めるという手もあるだろうが、「幼い子供の心臓移植のための募金活動」のように短期間に大金を集めることは不可能であろう。

    [n.0017:2008.01.21(月): 主題研究者と図書館専門職員の考え方の違い]

     早稲田大学の図書館の司書をしていた知人から随分昔に聞いた話であるが、中野幸一教授(源氏物語の研究者。研究コレクション収集の意義についても理解ある方で早稲田大学の教育学部長を務め、2003年に70歳で定年退職)が教育学部長をされている時に、できるだけ多くの人に利用してもらうためには、ラッセルコレクションを中央図書館に移したほうがよいということで、中央図書館に話を通し、中央図書館の選定委員会(?)にかけるように働きかけてくださったそうである。しかし、その知人の話によれば、当時の選書担当課長(洋書の整理課長?)が、私のラッセル・コレクションと早稲田大学図書館の蔵書中のラッセルの著作との重複調査を行い、重複率が高いので、中央図書館の蔵書にするのは適切ではないと委員会で報告し、お流れになったとのことであった。
     これには、主題研究者と図書館専門職の関心や考え方の違いがよく現れている。一昨日(1月19日付)書いたように、人文系の研究者にとっては、テキストに違いがあるのであれば版や刷の違ったものも網羅的に収集するということは大事なことであり、図書館にもそれを期待する。しかし、幅広い分野の図書をバランスをとって蔵書構築をしたいと考える(特に中央図書館の)選書担当の司書にとっては、「版」や「刷」の違いにまでこだわって資料を収集することは、予算も限られていることから、良い選書方針とは考えない。図書館職員がそのように考えるのは無理もないことだと思うが、それならば、単に重複が多いからというのではなく、正々堂々と上記の主張をしてもらいたい。そうではなく、「版」や「刷」を無視して、単純に重複率が高いので蔵書化するのは適切ではないと主張することは、図書館職員の知的レベルの限界ととられる恐れがあるのではないだろうか。
     米国の大学図書館の多くでは、1970年代から、主題に関する博士号(あるいは主題に関する修士号を複数)持ち、さらに図書館学の修士号も持っている主題専門家が図書館専門職として就職し、蔵書の選定(蔵書構築)作業を行っているが、日本の大学における選書(蔵書構築)作業は、現在においても、それとはほど遠い状態・レベルにある。米国のレベルに追いつくのはいつのことであろうか?

    [n.0016:2008.01.20(日): 早稲田大学ラッセル関係資料コーナ(ラッセル文庫)誕生経緯]

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     早稲田大学教育学部教員図書室に「ラッセル関係資料コーナ(ラッセル文庫)」ができた経緯について、ごく簡単に書いておきたい。

     私は、ラッセルの世界連邦運動に「も」共感を持ち、早稲田大学に入学してすぐに早稲田大学世界連邦研究会に入会した。早稲田の世連の初代会長は(故)時子山常三郎先生(昭和43〜45年、早稲田大学総長/1984年6月26日死亡)であり、伝統のあるサークルであったが、私が入会した時には、会員数はかなり減っていた(今でも毎年忘年会の時にOBが10人ほど集まっている)
     大学を卒業し、就職して大分たってから、どういった経緯だったか記憶に余り残っていないが、何かの縁で「(財団法人)世界平和協会」(時子山総長は、昭和44年に同協会会長)の総会に出席した(海部文部大臣が挨拶していた。Googleで検索しても、「世界平和協会」はひっかからない。解散したのだろうか?)。その時に、当協会理事の(故)山岡喜久男先生(当時早稲田大学教育学部長/昭和61年3月に70歳で定年退職)と出合った。確か、山岡先生から話しかけられてこられたとうっすら記憶している。山岡先生に、私はラッセルについて勉強していること、また、私が集めたラッセル関係資料をもとにして、日本に「ラッセル関係資料室」をつくりたい思っていると話をしたところ、(その日ではなく後日だったと思うが)それなら私のところ(早稲田大学教育学部)で受け入れましょう、と言ってくださった。また、山岡先生が退職された後、ラッセル・コレクションがひどい扱いを受けないようにとの配慮からか、(1983年の第1回目寄贈に対する)西原春夫総長(当時)の感謝状の手配もしてくださった。
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     以上のような経緯で、早稲田大学教育学部教員図書室内にラッセル関係資料コーナ(ラッセル文庫)ができあがったしだいである(現在は、地下1階に「別置」されているそうであるが・・・。)。

     その後、早稲田のなかに「ラッセル資料室」ができないかと、右図のような資料室のレイアウト(拡大する!)や「ラッセル資料室設置趣意書」を早稲田の関係者にお送りしてお願いしたが、残念ながら反応はほとんどなかった。
     日本バートランド・ラッセル協会が盛んに活動していた頃には、ラッセル協会会員のなかに出光石油の会長である出光計助氏(出光石油の創業者・出光佐三の弟で、1966年10月から1972年1月まで第2代社長)などの財界人も少しおられた。米国では財界人や篤志家が大学に多額の寄付をし、寄贈者の名前を冠した図書館が多数できているが、日本の財界人や篤志家は、税制も関係あるが、残念ながら、文化活動に余り寄付してくれない。日本も大学等の非営利学術・文化機関や団体に寄付行為をしやすいように、大幅に税制を変えてもらいたいものである。

    [n.0015:2008.01.19(土): ラッセルの著作における「版」と「刷」の違い]

     思想家の研究においては、著作に書かれた内容を正確に読み取ることが重要であるので、テキストは信頼のおけるものでなければならない。従って、誤字や脱字はないか、版や刷の違いによってテキストに相違がないか気になる。
     ラッセルの著作においても、版(edition)や刷(printing/impression)により、大幅にあるいは微妙にテキストが異なっていることがあり、ラッセル'研究者'だけでなく、ラッセル'愛好家'としても注意する必要がある。
     よく知られているのは、たとえば、Marriage and Morals, 1929 の初刷〜第5刷(?)までと6刷では、一部記述が異なっている。よく言及される箇所は、5刷までは黒人とそれ以外(白人、黄色人種)との間には知能の面で差異があるかのごとく書かれているところがあり、知人に指摘されて、ラッセルは第6刷(?)から修正している。
     版の違い(第2版、改訂版、増補版等)により大幅な違いがあるのは不思議なことではないが、同じ年に英国と米国で出された同一の著書でも大きく異なることがあり、注意が必要である。たとえば、ラッセルの Education and the Social Order, 1932 などは、アメリカ人が興味を持ちそうもないところは削除され、即ち原著の第2,3章及び、第4,5章がそれぞれ1章にまとめられ、Education and the Modern World というタイトルで出版されている。
     そういう事情があるため、私は、長い期間をかけて、ラッセルの著作のいろいろな版のものを集め、また、内容が一部でも異なる場合は(版は同じでも)刷の違うものも収集した。そうして、縁あって、1983年に早稲田大学に約500冊のラッセル関係書籍を寄贈させていただいた(ラッセル研究論文のコピーも含め、現在までに約2,000点のラッセル関係資料を寄贈済)。

    [n.0014:2008.01.18(金): 大学におけるラッセルに関する講義(or「シラバス公開」)]

     最近では大学の講義(授業)のシラバスをインターネット上に公開するところが増えてきている。すべての大学が、学内者向けだけでなく、受験生や社会人向けに公開してくれれば、大学の講義(授業)でどれくらいラッセルがとりあげられているかわかるようになる。しかし、まだ「シラバスの公開」の必要性を十分理解していない教員も少なくない。
     試しに、Google で(1)「"バートランド・ラッセル" シラバス」、(2)「"B.ラッセル" シラバス」、(3)「"Bertrand Russell" シラバス」、(4)「"B. Russell" シラバス」、(5)「"バートランド・ラッセル" syllabus」等で検索してみた。件数は省略するが、ラッセルをメインに取り上げているものはそれほど多くはない。実際はもっとたくさんあると思われるが、ホームページ上での記述の仕方にも問題があるかも知れない。興味を引いたものを以下、ご紹介しておく。

    1. 山形大学人文学部・人間文化学科(哲学入門:2単位/担当教員:清塚邦彦):ラッセル(著)『哲学入門』(ちくま文庫)を参考図書に指定。
    2. 神奈川大学(教養科目の?哲学/2単位/担当教員:矢野圭介):「ラッセルの名著『哲学入門』を教科書として取り上げ、共に購読していく。哲学書としては平易で、安価なものなので、登録者は必ず購入すること。他の参考書については、随時、講義中に指示する。」
    3. 筑波大学人文学類・思想主専攻(1単位/担当教員:橋本康二):「今学期は以下の論文を読む。Bertrand Russell, “Knowledge by Acquaintance and Knowledge by Description”, Proceedings of the Aristotelian Society 11 (1910-11), pp. 108-128.」
    4. 同上・第1専門外国語・英語(3単位/担当教員:橋本康二):「後半(2学期の中頃以降)は以下の本の最初の数章を読む。Bertrand Russell, The Problems of Philosophy, Oxford: Oxford University Press, 1912.(Ch. 1. Appearance and Reality, Ch. 2. The Existence of Matter, Ch. 3. The Nature of Matter, Ch. 4. Idealism を読むことを予定している。)この本は20世紀初頭に数理論理学を武器に新しいタイプの実在論を構築したラッセルが一般向けに著わした哲学入門書である。入門書だが議論のレベルは決して低くない。」
    5. 千葉大学・英語I-W(担当教員:久保田正人):「文法的に正しい英文を書くだけではなく、文脈に即した適切な表現で英文を書くことを目指すクラス。これまで修得したよりはるかに深く正確な英語の知識を獲得することを目指す。欠席が5回を超えた場合は失格となり、評価は「不可」となる。」/講読用テキスト:Bertrand Russell, "The Value of Free Thought"(開文社)

    [n.0013:2008.01.17(水): 久木田水生氏の「ラッセルの論理主義」に関する博士論文]

     地震学者の尾池和夫先生(京都大学総長)は、B.ラッセルが好きなようであり、挨拶や講演でよく(時々?)ラッセルについて言及されている(私が京大にいた時も何度か耳にした)。
     2006年1月23日に開催された、京都大学の学位授与式でも、次のように、久木田水生(くきた・みなお)氏の書かれた「ラッセルの論理主義」に関する博士論文について紹介されている。

     http://www.kyoto-u.ac.jp/uni_int/01_sou/060123_1.htm

     少し長いが、京都大学のホームページから引用させていただく。
    「・・・。2006年を迎えて、このようなことを考えながら、皆さんの学位論文審査報告を私も読ませていただきました。
     ラッセル・アインシュタイン宣言の1人、バートランド・ラッセルは、イギリス生まれの論理学者、数学者、哲学者です。1950年にノーベル文学賞を受賞しました。
     文学研究科思想文化学専攻の久木田水生さんの論文題目は、「ラッセルの論理主義」です。主査は、伊藤邦武教授です。本論文は、20世紀前半における数学の基礎をめぐる哲学的反省のなかでも、もっとも代表的理論とみなされるラッセルの論理主義について、その最初の定式化から最終的な立場までの変遷を追って、その理論がいかなる立場であったのかを包括的に検討しようとした研究です。1903年の『数学の原理』から1910年のホワイトヘッドとの共著『プリンキピア・マテマティカ』に到るまでの、ラッセルの論理主義の主張の変化を追跡して、その変化の意義を考察し、従来の批判に対して、『プリンキピア』の理論が論理主義の修正版ではあるとしても、決してその放棄や妥協ではなく、数学についての新しい観点にもとづく洗練された数学の哲学の提唱であったという主張をした論文です。ラッセルの論理主義をめぐる広範な問題について包括的に考察した明解な研究であると評価されました。
     因みに、久木田水生氏は、自分のホームページを開設しておられ、ラッセルに関する以下の2つの論文を閲覧することができる。
     http://www.geocities.jp/minao_kukita/

    ・ラッセルの記述の理論とタイプ理論の関係について
    ・ラッセルの論理主義における非基礎付け主義について


    [n.0012:2008.01.16(水): 出版中止?(「御茶ノ水書房刊「イギリス思想研究叢書」]

    の画像  出版できるかどうか不確実なものを出版社のホームページや愛読者用雑誌などに「出版予定」として掲載してもらいたくないが、出版社の倒産や経営陣・編集者の交代などで、やむをえず出版とりやめになることも時々ある(たとえば河出書房新社など、「新社」がついている会社は、倒産したり会社更生法が適用されたりしている出版社であり、新しい会社においては、角川書店のように、出版方針がまったく変ることがある)。
     倒産ならば仕方がないが、倒産ではないのに、シリーズもので途中で出版中止になるのはいただけない。以前、お茶の水書房では、日本イギリス哲学会監修で、イギリス思想研究叢書(第1期・全12冊)というのを、原稿が用意できた順に出版をしていた。右の画像は、御茶ノ水書房の1982年の出版カタログに載っていた出版予定のページを電子化したものであるが、このシリーズの第11巻に「ラッセル研究」というのがあがっており、当時私も出版を心待ちにしていた。しかし、いつまでたっても出版されないので、かなり経ってから、御茶ノ水書房に電話して直接聞いたところ、(電話に出た人はよくわからないらしく)要領を得た返事をもらえなかった(参考:日本イギリス哲学会のページ)。
     著者の一人である碧海純一先生と何かの縁でお会いしたときに、いつ出版される予定かお聞きしたところ、キョトンとされていたような記憶がかすかにあるが、あるいは私の記憶違いかもしれない。いづれにしても、昔はしっかりした出版契約(執筆契約)などは結んでいなかったのが大きな原因かも知れない。あるいは、日本イギリス哲学会の事情かもしれない。この叢書の第5、7、8、11、12巻の5冊は結局出版されなかったようである。なお、研究社からもイギリス思想叢書というのが出されており、まぎらわしいが別物である。(電子化したので、このコピーは廃棄)

    [n.0011:2008.01.15(月): 新聞切抜記事より(「話題を呼ぶラッセル最後の覚書」]

     以下は、『朝日新聞(東京本社版)』の「海外文化欄」からの切り抜きであるが、日付を書き忘れたので、ここに明記できない、記事中に「さる二月、九七歳で亡くなった・・・」となっているので、1970年であることは間違いない。(電子化したので、この切抜きは廃棄)

    の画像  さる二月、九七歳で亡くなったバートランド・ラッセルが死の数週間前に書いた「覚書」が、このほど英国のアングラ新聞『黒い小人(Black Dwarf)』に発表されて話題を呼んでいるという。

     一九六九年十二月十二日の日付のあるこの「覚書」は、主としてこの十年間、ラッセル平和財団Bertrand Russell Peace Foundationを実質的に切り回してきたラッセルの秘書、ラルフ・シェーンマン(Ralph Schoenman/右写真)について語ったもの。ことし三十五歳になるアメリカ生まれのこの革命的社会主義者がラッセルと知り合ったのは、一九六〇年(のことで)、それ以後一九六六年まで彼の秘書をつとめ、その最晩年をもっぱら偉大な反戦運動家としてすごしたラッセルの片腕ともいうべき存在であった。しかし、シェーンマンの余りにも過激な行動に対して多くの非難があびせられ、ラッセルは一九六九年七月、彼と一切の関係を断つという手紙を書いている
     ラッセルはシェーンマンが平和運動においてすぐれたアイデアをもっていたことを高く評価し、また危機的状況にあっても鼻歌まじりに問題を処理していく彼の性格を愛しているが、その余りにも自信過剰な態度が多くの人の誤解をまねいたとしている。特に一九六七にラッセルの提唱で開かれた米国のベトナム政策責任者を裁く「国際戦犯法廷」などでは、ラッセルの代弁者としてのシューンマンと一平和運動家としてのシェーンマンとの区別があいまいになり、ラッセル自身が誤解されるようなこともおこったという。(松下注:次の対談のなかでラッセルは、秘書であるシェーンマンがラッセルに対して十分活動報告しないことに不満をもらしている。→ ゲオフリー・ムーアハウス「(B. ラッセル)驚くべき執念」)
     なぜもっと早くシェーンマンとの関係を断つことができなかったか、という疑問に対して、ラッセルは、「自分がやりたいと思っていたことをあれほどの熱意で実行してくれるのは彼しかいなかった」と答えている。(オブザーバ特約)

    [n.0010:2008.01.14(月): 新聞切抜記事より(「ラッセルの恋文」]

     以下は、『朝日新聞(東京本社版)』1970年2月23日付朝刊「海外トピックス欄」から転載したもの(電子化したので、この切抜きは廃棄)
     カナダのマクマスター大学にある「ラッセル文庫」(Bertrand Russell Archives)は、この(1970年)2月初め九七歳で亡くなった英国の哲学者バートランド・ラッセルについてのあらゆる資料がそろっていることで有名だが、なかでも十二万通以上に及ぶ個人書簡が最近一部公開され話題を呼んでいる。さすが、'二十世紀の巨人'だけあって、書簡をかわした相手はアインシュタイン、ホー・チ・ミン、シュバイツァー、J.F.ケネデイ、フルシチョフと、豪華な顔ぶれ。
     ★Bertrand Russell Archives のホームページ 
     しかし、最も興味深いのは若き日のラブレターの数々。もっとも、生涯四人の妻のうち、後にめとった三人、そして情事の相手と騒がれた他の二人の女性にあてた手紙は、残念ながら、'死後五年間は公開を禁ず'という本人の注文がついている。(AP特約)

    [n.0009:2008.01.13(日): 新聞切抜記事より(故・松下正寿氏)]

     以前「朝日新聞」紙上で「新人国記」という連載があり、各県別にいろいろな分野の著名人の紹介がなされていた。手元にある新聞切り抜き記事の、「青森県(19)−海外文化との接点(新人国記'83)」のなかに、松下正寿氏(ラッセル協会設立発起人の一人/東京都知事選に立候補し、美濃部氏に敗北)がラッセルと対談したことについてごく簡単にかかれている。
     松下正寿氏の著作(単行本)は読んだことはないが、下記のラッセルに関する松下正寿氏の2つの評論・エッセイは秀逸であり、このホームページに掲載しているので、一読をお薦めしたい。
    ● 松下正寿「自由を識る巨人−核実験反対運動で捕らえられた自由人ラッセル卿の真骨頂
    ● 松下正寿「バートランド・ラッセルの宗教観

     下の画像のごとく電子化したので、この切抜きは廃棄することにする。
    (・・・。弁護士の松下正寿氏(82)は昭和30年から11年余、立教大学総長をした。岸首相の特使として、英政府にクリスマス島の原水爆の中止要請に行ったり、文化、教育交流の日米合同会議日本代表となったり、国際外交の表舞台に登場した大学人。・・・。八戸市の牧師の家に育った。・・・。その松下は戦後、極東国際軍事裁判で東条英機の副弁護人。・・・。首相特使として訪英した際、晩年のバートランド・ラッセルと一時間余話したことは、松下の会心事の一つ。「核反対の日本の声をよくわかってくれた。偉い爺さんだったよ。」)
    の画像

    [n.0008:2008.01.12(土): ウィキベディアから逆リンク]

     「検索エンジン最適化−バートランド・ラッセルのページがランク落ち!(アドホック・エッセイ&備忘録:2006年08月15日)」で書いたように、Googleで「バートランド・ラッセル」を検索するとウィキペディアの記述が一番上にリストアップされるようになってしまった(ただし、Yahooでは、ラッセルのホームページが一位)。
     記述内容に多少問題があっても、ウィキペディアにリンクする人が多いので、Googleの方針では、どうしてもウィキペディアが一番最初に来てしまう。
     ラッセルのホームページが昔のように一番になるにはどうしたらよいだろうか? もしかしたら、ウィキペディアからラッセルのホームページのコンテンツへのリンクを増やしたらよいのではないだろうか? そう考えて、ウィキペディアからラッセルのホームページ上のコンテンツへのリンクを10個ほど追加してみた。今後もこのリンク作業を折にふれてやっていきたい。そうすれば、いつかは再逆転するのではないだろうか?

    [n.0007:2008.01.11(金): ラッセル関係文献の探索−発見か、徒労か]

     ラッセル関係の、面白そうな新しい関係資料を偶然見つけるとうれしい。しかし、新発見ではなく、勘違いであることがわかりがっかりすることも時々ある。たとえば、かなり前のことであるが、Googleを検索していて、次のページ上で、創元社刊の『年刊SF傑作選3』('The 8th Annual of the Year's Best SF(1963))'のなかにラッセルの 'Planetary Effulgence'がリストアップされているのを発見した。
    http://homepage1.nifty.com/ta/sfm/merril.htm

     当然のこと、是非入手したいと思った。(ただし、英文は、B. Russell's Fact and Fiction, c1961 に含まれていて私も所蔵しているので、私の興味はあくまでもラッセルの創作が Satan in the Suburbs, 1953 及び Nightmares of Eminet Persons, 1954 以外に、日本にどれだけ紹介されてきたか、ということであった。)
     国会図書館で所蔵している本も少し出版年が違い、ラッセルのものは含まれておらず、御茶ノ水(神田)の古書店街でも発見できなかった。
     そこで、古書の検索エンジンである「スーパー源氏」で検索したところ、出版年も同じなので、これだろうと思い注文してとりよせた。しかし、やはり含まれていなかった。
     http://sgenji.jp/power.html
     上記のホームページをよく読むと、「創元社の傑作選は、1955年から1968年に出版された12冊の年刊SF傑作選をもとにしていますが、全てが訳されているわではありません。・・・。『年刊SF傑作選』に収録されているものはマークをつけました。」とあった。
     冷静になってよく読めばすぐにわかったことであるが、見落としていた。時間とお金の浪費であった。
    (自分用の備忘録:手持ちのラッセル関係の資料の整理がなかなかできない。そこで、このようなメモを書いて電子化し、どんどん処分していくことにしたい。)

    [n.0006:2008.01.10(木): 私の好きな一節(『ラッセル自叙伝』より)]

     ラッセルの著作を読んでいると、一見どうってこともない内容であっても、はっとするような描写を見つけることがよくある。以下は、私の好きな一節の一つ。

    幼年期の重要性

    ... My father and mother were dead, and I used to wonder what sort of people they had been. In solititude I used to wander about the garden, alternately collecting birds' eggs and meditating on the flight of time. If I may judge by my own recollections, the important and formative impressions of childhood rise to consciousness only in fugitive moments in the midst of childish occupations, and are never mentioned to adults. I think periods of browsing during which no occupation is imposed from without are important in youth because they give time for the formation of these apparently fugitive but really vital impressions.
    (Photo: ラッセルが幼少時代に物思いに耽った Pembrok Lodge の庭からの眺め

    (自分が4歳になるまでに)両親は亡くなっていたので、私は、両親はどんな人たちだったのだろうかとよく考えたものだった(右写真:4歳の時のラッセル)。私は一人で庭を歩き回る習慣があった。鳥の卵を集めたり、'時間の経過' について物思いに耽ったりした。
     自分の記憶から判断すると、重要かつはっきりと形をなす幼年時代の印象は、子供らしく何かに夢中になっている最中のほんの一瞬にのみ意識にのぼってくるだけであり、しかもそれを決して大人には話していない。
     外から強いられてするということは決してない幼年時代(periods of browsing: 漫然と気の向くままにいろいろとやってみる時代)は、人生の初期において、重要な時期であると私は思う。なぜならば、その時期は、外見上はとりとめなく見えるが実は生涯消えることのない非常に重要ないろいろな印象を形成する時間を与えるからである。(松下訳)



    [n.0005:2008.01.08(火): Collected Papers of Bertrand Russell編纂事業の困難さ]
    の画像
     ラッセルの著作(単行本)は、アマゾン・コムなどのインターネット書店でかなりのものが入手可能であるが、単行本に収録されなかった論文・エッセイ・書簡も膨大な量にのぼる。それらの論文・エッセイを編纂し、Collected Papers of B. Russell として出版する事業が1980年代初めからスタートしている(注:Papers とあるように、書簡は含まれていない。ラッセルの書簡は、1952年12月に Edith Finch と結婚した後、夫人が保存するようになったとどこかに書いてあったように記憶しているが、ラッセルの書簡は MacMaster 大学のラッセル記念文書館に所蔵されていて、受け取った手紙も含めると、ラッセル「関係」の書簡は12万通を越えるという。そのようなわけで、Selected Letters しか出版されていない)。Collected Papers の第1巻は、「ケンブリッジ・エッセイズ(Cambridge Essays, 1888-1899)」というタイトルで1983年に出版されたが、既に25年経過しているにもかかわらず、まだ Collected Papers は完結していない(★丸善広告を拡大する!)。上の丸善の出版広告では、2000年完結予定とある。いかに困難な事業であるかうかがい知ることができる(なお、広告に「全集」とあるが、前述のように、Collected Papers は、過去単行本として出版されなかった論文を集めたものであるため、「全集」というのは間違い。)。・・・
     私も出版前から予約し、現在 Collected Papers の本体が17冊、K. Blackwell 氏編纂の『ラッセル書誌』(3巻本)を含めれば計20冊もっているが、高価なので、(またお金ができたら買うことにして)途中で予約を中止してしまった。残念ながら、現在でも数冊購入できないままの状態にある。

     ★ Collected Papers は下記のページからご購入ください。
     http://russell-j.com/index.htm

    [n.0004:2008.01.06(日): '引きこもり'の若者にも Basic Income を?]

     NHKの「爆笑問題のニッポンの教養」は面白いので時々見ているが、1月2日夜、その「新年会スペシャル2008年」が放映された。その番組の中で、出席者の一人、精神科医(精神医学者)の斉藤環氏だったか、次のようなことを言っていた。(斉藤氏の発言は正確に覚えていない。多分こういう内容だったろうとの想像のもと、下記に引用する。)
    「最近、('引きこもり'の若者の救済ということに関連して)Basic Income を全ての人に与えたらどうかという議論がよくされるようになっている。現在'引きこもり'の若者は約100万人いるが、その内の半分位は何らかの手助けで救済できるだろうが、半分位、あるいは2,30万人は救われないだろう。そのような若者に「頑張れ、頑張れ」といっても仕方(効果)がない。頑張らなくても大丈夫だよと言ってやり、働かなくても死なない程度の収入 basic income を保障してあげれば、彼らは救われるだろう(そういう世の中の方がよい世の中ではないか)。・・・。」
    の画像
     斉藤氏は、この('引きこもり'の若者だけでなく)、全ての人に basic income を保障(最低限所得保障)するというアイデアは新しいものだと言われていた。しかしそうではなく、B.ラッセルは、1918年に出版した Roads to Freedom(栗原孟男(訳)『自由への道』/角川文庫n.640 絶版)のなかで次のように明確に述べている。
    (・・・。即ち、生活必需品を購入するのに必要な最低限の収入は、働くか否かにかかわらず。全ての人に保障すべきである、という主張である。)

    Stated in more familiar terms, the plan we are advocating amounts essentially to this: that a certain small income, sufficient for necessaries, should be secured to all, whether they work or not, and that a larger incomce--as much larger as might be warranted by the total amount of commodities produced--should be given to those who are willing to engage in some work which the community recognizes as useful. (Roads to Freedom, chap. 4: work and pay の最後の段落から引用/なお米語版では、Proposed Roads to Freedom というタイトル/Proposed Roads to Freedom, 1918 全文テキスト=米国グーテンベルク・プロジェクトから)
     ラッセルが言っているのは現在の生活保護制度のことではなく、「まったく働かなくても、死なない程度の生活必需品を購入できるだけの収入は保障すべきである」という主張であり、basic income の考え方と同じである。ラッセルは、同じようなことを別の角度から、In Praise of Idleness, 1935(邦訳書『怠惰への讃歌』/角川文庫n.1720 絶版)の中でも言っている。

     新しい考え方だと言われているものも、過去の偉大な思想家が既に明確に言っていることが少なくない。しかし、そういったものを探して読む人よりも、自分の意見を言いたい・書きたい人が多い。ブログの隆盛もそれを反映しているのだろう(私のこの文章も同じだろうが、自分の主張よりもラッセル思想の紹介を主目的としているところが違うといえば違う。)
     それぞれの人間に与えられた時間は多くはない。自分の頭で考えることは大事だが、基本的なことは先人や先覚者に学んだほうがよいだろう。時間は大事に使いたいものである。

    [n.0003:2008.01.05(土): 角川文庫は魅力に乏しくなりにけり?]

     私が若い頃は、角川文庫から、ラッセルの著作の邦訳がたくさん出されていた。列挙してみると、堀秀彦(訳)による『幸福論』『教育論』(後者は私が高校1年の時に読んで感激し、ラッセルを研究するようになったきっかけの本)、柿村峻(訳)による『懐疑論』『結婚論』『怠惰への讃歌』(三冊目は堀秀彦との共訳)、生松敬三(訳)による『哲学入門』、栗原孟男(訳)による『自由への道』というように、7冊も出ていた。(因みに、みすず書房からは『バートランド・ラッセル著作集』が、また、理想社からも『ラッセル自叙伝』他多数のラッセル関係書が出されており、あわせるとかなりの数に上っていた。)

     しかし、父・角川源義の死去により角川書店の新社長となった角川春樹氏は、1970年代後半から、「短期的に」売れないものは出さない(若い人向けの作品を本をたくさん出す?、大衆路線でいく、書籍と映画とのメディアミックスをはかる)という方針のもと、いつしか角川文庫のラッセル邦訳書は書店から姿を消してしまった。ラッセル関係の本が出されなくなったから、角川文庫の質が落ちたなどというのは偏見であろうが、しかし、現在の角川文庫を見ると、(年をとったせいもあるが)どうも読みたい本が少ない。
     だが幸いにも、ラッセルの著書の中でも売れゆきの良い『幸福論』『教育論』『結婚論』の三部作は、現在、岩波書店から出されている。1年間で売れる冊数はそこそこでも何十年に渡ってロングセラーとなるような本を捨ててしまう角川書店の短期決戦型のやり方は、長い目で見れば、良いことはないだろうと思われる。会社経営の視点からは、角川春樹氏を擁護する人も少なくないであろうが・・・。
    [n.0002:2008.01.04(金): ラッセル関係の学部の卒論、ゼミ論文など]

     ラッセル関係の学部の卒論やゼミの論文などは一部の例外(たとえば、永井成男氏の早稲田大学文学部卒論「論理主義における数の定義について」)を除いて稚拙なものが多く、「学問的な」価値は余りない。しかし、そのようなものも人によっては興味を持つ人もいると思われるので、手元にある関係資料もなかなか捨てる気になれない
    (例:一橋大学基督青年会編の1975年小平祭用文集「Why I am not a Christian by B. Russell」)
     最近では学部の卒論について相談を受けることはないが、若い頃は、何人かからアドバイスを求められたことがある。ラッセルの業績は幅広いので、卒論としてとりあげるテーマも様々である。手元に津田塾大学の学生が「ラッセルの平和思想と平和運動−パグウォッシュ運動の理念と実践を通じて」という、30年も前の(綺麗な)手書きの(卒論の)目次がある。その女子学生の印象はぼんやりとではあるが、遠い過去の記憶として残っている。

    [n.0001:2008.01.01(火) 元旦: 「ラッセル徒然草」連載開始にあたって]

     新年あけましておめでとうございます。

     昨年は、ラッセルのホームページ上に掲載してある約3,000のラッセル関係のコンテンツについて、もっぱら不適切なHTMLの修正、間違った記述の訂正、誤記や脱字の訂正、表現のまずかった記述の修正、関係画像やリンクの追加等の作業を行ってきました。過去の記事の修正作業がほとんどでしたので、ほぼ毎日ホームページを更新することができました。しかし、その影響で、残念ながら、『ラッセル自叙伝』や『ラッセル教育論』の邦訳作業が遅々として進みませんでした。そこで、修正すべきHTMLは(松下彰良編の『バートランド・ラッセル書誌』を始めとして)まだかなり残っていますが、ほぼ山を越しましたので、今年は新しい記事の追加を増やしていきたいと思っています。

     とは言っても、新しいコンテンツの追加は時間がかかりますので、多忙になると負担が大きくなり、ホームページの更新回数が激減する可能性があります。仕事ではないので、無理に更新しなくてもかまわないわけですが、習慣にしておかないと更新が少なくなり、魅力の乏しいページになってしまうかもしれません。そこで、今年から「ラッセル徒然草(****年. **月)(1ケ月1ファイル)として、気が向いた時に短い文章を書いていきたいと思っています。長い文章は、独立したコンテンツとします。「ラッセル徒然草」では、(あくまでもラッセルに関したものという限定のもと)ラッセルに関するちょっとした情報提供や本ホームページ上のコンテンツの紹介、ラッセルに関するメモや備忘録(これは他人に読んでもらうことを余り意識しないもの)など、数行程度のものを日記風に綴っていくことにします。数行程度であれば、どんなに忙しくても5分程度時間があれば楽に書けるはずです。

     それから、ラッセルのホームページの読者から(掲載許可のある)投稿があれば、投稿コーナー(あるいは読者欄/読者広場)も設けたいと思っていますので、よろしくお願いします(以前にも同じような呼びかけをしましたが、これまでそのような投稿はありませんでした。)

     本年も、ラッセルのホームページ(ポータルサイト)をよろしくお願いします。(なお、1月2、3日は、ホームページの更新をお休みします。)
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