バートランド・ラッセルのポータルサイト

小野修「バートランド・ラッセルと執筆活動」

* 出典;『同志社大学英語英文学研究』(同志社大学人文学会)v.16(1977年4月刊)pp.95-117.
* 小野修(1931~ )氏:同志社大学名誉教授
* 既掲載分

はじめに


ラッセルの言葉366
 Bertrand Russe11(1872-1970)は,1950年にノーベル文学賞を受賞した。授賞理由は,「永年の哲学的業績に対して」であった。ラッセルの70冊を越すその主要著作の中には短篇小説集が三冊,詩集が一冊あり,*1自伝をはじめとする回想録的な著作は勿論,哲学的著作においても文学に対する並はずれた素養をその文体や引例に示している。
 ラッセルが文学上の創作を本格的にはじめたのは80才を過ぎてからであった。彼は数年間'創作活動'を大いに楽しんだが,緊迫する世界情勢は彼がそれ以上作家の道を歩むことを許さなかった。とは言え,この時に彼が自ら引き出した創作上の能力こそが,最晩年の回想的な著作の悉くに文学的な味わい深さを与えることになったのは確かである。
 簡潔な文章によって支えられる明快な思想というラッセルの著作の特質は,曖昧な思想が晦渋な文章で語られるのが哲学の常だと思い込まされてきた人々に希望を与える。ラッセルにおいては文章の明確さは思想の明確さにも通じていたのである。彼は理解を越えた世界を暗示することは避けた。それは'神秘主義'だからである。彼の書いた文書は。素直に無理なく理解され,しかも理解された内容が彼の意図通りであるように書かれた。それはジャーナリズムの文体に酷似していながら,不思議に不易さをそなえた品格のある文章である。これを文学的香気とでも呼んでもよいのか私にはわからない。
 しかし,明確な文章にもそれなりの敵はある。その余りの明決さの故にラッセルの著作は,文意の判読のための懸命の努力を通常の哲学書ほど読者に強いなかった。そのため,ラッセルはヘーゲルの持つ'深遠さ'を欠くかのように思われてきたのである。
 

1 文体の成立

 その厖大な著作によって研究者を圧倒し,自らを'多言症'(logorrhea)と称するに至ったラッセルも,学生時代においては tutor たちから,彼の論文や答案が短かすぎると言われていた。しかし,彼の持つこの簡潔性 (this capacity for conciseness) こそは彼の思想の明晰さを支えるための不可欠な能力であった。
I like precision. I like sharp outline. I hate misty vagueness.*2
 ラッセルのこうした好みは,彼の生い立ちがつくりあげたといえる。4才のときには両親と死別したラッセルは,何よりも心の支えを必要とした。彼は稚いながらも早くも'生の無常'を自覚し,確実な不易なものを求めた。11才のとき兄にユークリッド幾何学の手ほどきを受け,数学に非常な興味を持ちはじめる。数学に'永遠の真理'を見出せる期待を抱いたためであった。数学についで,彼は,歴史,更に文学に関心を抱きはじめた。彼が P. B. She11ey の初期の詩 'Alaster' をはじめて読んだときの感想は, 'As I read, the wor1d 1eft me ..._ I forgot where I was.' という程であった。*3 彼は宗教にも関心を示したが,祖母のピューリタン的な'厳格な教育への反発'と,ラッセルが子供ながらすでに身につけていた懐疑心のために,結局,不可知論者となった。しかし,宗教的信念にかわる喜びを見出したいという渇望は残った。彼は哲学に'宗教的な慰め'を求めたが,哲学は彼に'偏見の打破'を教えたが宗教的な満足は与えなかった。学生時代に tutor だった J. M. E. McTaggart の影響の下で一時へ一ゲルに心酔したが,数学と論理学の研究をすすめるうちにへ一ゲルからも離脱してしまう。強い実証的気質に動かされていたラッセルには'精神の実在'は信じられず,彼は終生信仰の道は歩まなかった。とは言え彼は偉大な宗教の教理が教える'人間愛'というものを評価しなかったわけではない。こうした彼の願望は彼の次の言葉が端的にあらわしている。
If the world is to emerge, it requires both clear thinking and kindly feeling.
 「明断な思考と思いやりのある感情」を今後の世界が必要とすると彼が書き得たのは,ラッセル自身が少年期にその双方を誰よりも強く求めた経験があったからである。
 ところでラッセルの明晰な文体の生成の秘密は,以上のような内面的要請とは別に,どこで養われたのだろうか。彼の学生時代からの友人 Charles Sanger は次のように書いている。
His admirable and lucid English style may be attributed to the fact that he did not udergo a classical education at public school.*5
 つまり,ラッセルはパブリック・スクールでギリシャ語やラテン語を無理矢理につめこまれたり,古文の解釈に悩まされるかわりに該博な知識のもととなる読書祖父 John Russell の遺した蔵書で進めることができたのだった。その頃彼は,ダンテやマキャヴェリをイタリア語で,コント(Auguste Comte)をフランス語で読み,J. S. ミルの著作のノートをとった。彼は15才であった。16才になって大学進学のため塾に通い,古典語をマスターした。当時彼はギリシヤ文字を用い“GREEK EXERCISES' と題した'秘密の日記'を書いた。その日記の一部は彼の自伝に収載されている。それは日常茶飯事については殆んど触れず,全体が哲学か神学論文のような内容である。例えば次の文章は少年ラッセルの信仰上の立場を物語っている。
(March 19th, 1888) I mean today to put down my ground for belief in God. I may say to begin with that I do believe in God and that I should call myself a theist if I had to give my creed a name. Now informing reasons for believing in God I shall only take account of scientific arguments. This is a vow I have made which costs me much to keep, and reject all sentiment. To find then scientific grounds for a belief in God we must go back to the beginning of all things.*6
 文章は素直で勿体ぶったところもなく,自分の心の中を明るい無邪気な眼で眺めている感じがよく伝わってくる。'神の存在証明'を科学的に行うという思いつきは如何にも哲学少年風である。とは云え,アリストテレスもトマス・アキナスもこの着想から出発したのだった。まず信仰があり,次にその科学的根拠を明らかにするという矛盾に,少年ラッセルはまだ気づいていない。(しかし,それを誰が笑えるだろう。死ぬまで気付かずにその矛盾を押し通す人も多い上に,果してそれがどこまで矛盾であるのかは,カントを持ち出すまでもなく,科学を越えた問題なのである。) しかし,こうした探求の道を通り,ラッセルはスピノザ的な世界観を抱くようになる。ラッセルの偉大さは哲学史の研究を行うまでに,自分の知識を駆使して,自らの知性によってデカルトの「コギト」の着想を経験したり,理神論的な見解に達したりしたことである。
 この早熟な少年の日記がすべてこうした論議に終始しているわけではない。若々しい青春の息吹きのような次の文章もある。
(May 20th) ... I think the six months since Baillie went have made a great alteration in me. I have become of a calmer. thought-fuller, poeticaller nature than I was. One little thing I think illustrates this well. I never before thought much of the views in spring, whereas this year I was so simply carried away by their beauty that I asked Granny if they were not more beautiful than usual, but she said not. I like poetry much better than I did and have read all Shakespeare's play with great delight, and long to read In Memoriam.*7
 ラッセルはこのような素直な文章を生涯にわたって持ちつづけることになるが,彼は別のスタイルで書きたいと思わなかったわけではない。さきに述べたように,ラッセルは自分の名付け親だった J. S. ミルの影響を受けた。ラッセルはケンブリッジヘ進学する前には,ミル以外の哲学書はあまり読んでいなかった。彼が J. S. ミルの文体に憧れたとしても不思議ではない。  
Until I was twenty-one, I wished to write more or less in the style of John Stuart Mill. I liked the structure of his sentences and his manner of developing a subject. I had, however, already a different ideal, derived, I suppose, from mathematics. I wished to say everything in the smallest number of words in which it could be said clearly. Perhaps, I thought, one should imitate Baedeker rather than any more literary model. I would spend hours trying to find the shortest way of saying something without ambiguity, and to this aim I was willing to sacrifice all attempts at aesthetic excellence. *8
 J. S. ミルの文体は決してラッセルほどのわかりやすい文体ではない。On Liberty の文体をとってみても,往々にして難解で,長すぎるほどの文章に出会うことがある。後に例をあげるように,ラッセルも例外的な一時期において,荘重で,たゆとうような文章,修飾語の豊富につまった文章を書いた時期がある。しかし,結局ラッセルは,上の引用にみられるように最小語数で最も明確な文章をめざし,それが彼の文体として定着してゆく。その点からすれば,初期の Earnest Hemingway が Gertrude Stein の影響のもとで,あらゆる主観的な修飾語をはぎとったスケルトンのような文章を自らにふさわしい文体と考えて実行したことに似ている。ヘミングウェイの文体が海外特派員の電文に対比されるとすれば,ラッセルの場合は数式に近づごうとする論理学上の志向に対比できるかもしれない。
 文体を決定づけるのは何よりもその著者の思想であるが,すぐれた文体はその時の思想的雰囲気までも運びうるものである。ヴィクトリア時代の重々しく華麗な文章は,思想上の前衛であったラッセルには無意味なものであった。同じく,冗長な文章はヘミングウェイの単純さ(simplicity)を求める心情には向かなかった。二人とも活動分野を異にしながら,20世紀にふさわしい機能的な文体をいち早く強い説得牲をもって実現してみせたのであった。
 ラッセルは, How I Write の中で,冗長な悪文と明快な短い文章を対比してみせて,文章作法の基本とも言える心得を示している。彼のあげてみせる悪文は次のようなものである。
Human beings are completely exempt from undesirable behaviour-patterns only when certain prerequisites, not satisfied except in a small percentage of actual cases, have, through some fortuitous concourse of favourable circumstance, whether congenital or environmental, chanced to combine in producing an individual in whom many factors deviate from the norm in a socially advantageous manner. *9
 この社会学の論文と思われる文章は二,三度ゆっくり読み直さないと大体の意味もつかめない。ラッセルはこれを English に translate(!)するとしたら,自分なら次の文章を書くという。
A1l men are scoundrels, or at any rate almost all. The men who are not must have had unusual luck, both in their birth and in their upbringng.*10
 内容的には変らないが,前の文章よりわかりやすく短いこの文章も,大学教授がこれを使えばクビになるかもしれない,と彼は書き添えている。しかし,これは単なる冗談として一笑できないものを含んでいる。これはあまりにも多くの論文が,読まれることを拒むような文体で書かれていることへの痛烈な皮肉なのである。

その2
 

2 初期の文体の特徴

 ラッセルの最初の著書は,1896年に出版された German Social Democracy であった。これは文体を意識させないジャーナリスティックな要素をもった著作であり,当時としては英国人の書いた社会主義にかんする先駆的著作である。ラッセルはこの内容を創立間もない L. S. E. (London Schoo1 of Economics) の最初の講師として講義している。しかし,この本が出版されたときには,彼の関心は数学に向っていた。翌年トリニティ・カレッジの Fellowship のための論文 An Essay on the Foundation of Geometry が出版された。1900年に出た The Philosophy of Leibniz は,ライプニッツの哲学の新解釈を行ったものであり,のちにライプニッツの未公開原稿の発見によってその解釈の正しさが論証された問題作であった。(Harvard でラッセルのもとで論理学を学んだ T. S. E1iot はこの著作の文体を好んだ。)
 この1900年という年は,ラッセルにとって,哲学史にとって,画期的な意味をもつ年であった。その年の夏,ラッセルはパリで開かれた国際哲学会に出席し,そこでイタリアの論理学者の Peano に会ったことが彼に転機をもたらした。
In discussions at the Congress I observed that he was always more precise than anyone else, and that he invariably got the better of any argument upon which he embarked. As the days went this must be owing to his mathematical logic. I therefore got him to give me all his works, and as soon as the Congress was over I retired to Fernhurst to study quietly every word written by him and his disciples. It became clear to me that his notation afforded an insrtument of logical analysis such as I had been seeking for years, and that by studying him I was acquiring a new and powerful technique for the work that I had long wanted to do. *11
 この時期のラッセルは,一種の知的陶酔(intelletual intoxication) にあったと彼は告白している。彼は論理分析に数学的方法を導入する着想を得て,ペアノの方法に精通するようになった時点から,積年の課題が毎日のように次々と解きほぐされてゆくのに自ら驚嘆している。その感動は次のような視覚に訴える文章であらわされている。
My sensations resembled those one has after climbing a mountain in a mist, when, on reaching the summit, the mist suddenly clears, and the country becomes visible for forty miles in, every diretion.*12
 彼はこの1900年の9月,自分の発見の重要さを自覚して研究に精を出すと共に,それを書いてしまうまで街で車に轢かれないように注意しなければと思う程であった。彼は10月に The Principles of Mathematics の執筆にかかり,一日10べ一ジの速さで書き続け,その年の大晦日,19世紀の最後の日に第一稿を終了し,200,000を書いたことを誇る手紙を知人に送っている
 彼の生涯における知的昂揚の最高頂を示したこの1900年9月 (Inte11etua11y, the month of September 1900 was the highest point of my 1ife)*13 に続く3ケ月のあいだに,ラッセルは自信と喜びに満ちて彼の数理哲学の基本的な枠組を築き上げたと言えるであろう。しかし,新しい世紀がはじまると共に,彼の家庭上のトラブルが彼を感情的に痛めつけ,それまでの昂揚感にかわって憂鬱な気分が支配的となってくる。彼は1902年に前述の『数学の原理』を完成し,ただちに A. N. Whitehead との共著である Principia Mathematica の執筆を開始した。ホワイトヘッドとの共同作業であり,内容の悉くは二人の討議を経たものであったとは言え,この執筆は専らラッセルの任務であった。ホワイトヘッドは講義と学生の指導に忙しく,おまけに夫人は病気であった。ラッセルは着手してその作業の容易ならざるに気付く。当時をふり返って,ラッセルははかどらない作業を次のように書いている。
Every morning I would sit down before a blank sheet of paper. Throughout the day, with a brief interval for lunch, I would stare at the blank sheet. Often when evening came it was still empty.*14
 当時ラッセルは最初の妻アリスに対する自分の愛情が冷めてしまっていることを突然自覚したあとで,極端な無常感に襲われはじめている。このことをラッセルの妻に対する身勝手な態度だとして責めるには事態は複雑すぎる。無理に単純化すれば次のようなことが背景にはあった。
 ラッセルは17才のとき,5才年上のアメリカの女性 Alys Pearsall Smith に会い,次第に親しくなり,ラッセルは21才のときに婚約するが,家族の者たちの反対を受ける。反対理由としての国籍や家柄,宗教(アリスはクェカー教徒であった)のちがいが説得性を失うと,信じ難い程の事実が明るに出された。ラッセルはその家柄に流れる狂人の血筋を主治医に告げられ,発狂した叔父や叔母のこと,父親の癲癇のことを知った。更にアリスの叔父も変人(queer)であると気付くと,自分たちの結婚の結果生れてくる子供は気狂いである可能性が強いと考えた。彼が産児制限という方法(当時嫌悪感をもってみられていた)があると言うと,主治医は避妊薬を用いると健康を害すると言い,家の人々はラッセルの父を癲癇にしたのは避妊薬の使用のためだとほのめかした。ある夜,ラッセルは母が実は気が狂ったのであって,まだ生きているのを発見し,そのため結婚しないことが自分の務めであると感じた夢をみた。それは偶然にもアリスの誕生日であった。しかし,ラッセルはこの悪夢のような日々を耐え,翌1894年結婚する。皮肉なことにアリスは不妊(barren)であった。しかし,結婚生活は幸福をもたらした。ラッセルはその頃を知的に最も実り多い時代(intellectua11y most fruitful period of my 1ife)*15 と回想している。
 アリスとの婚約時代ラッセルを苦しめた得体の知れない心理的な恐怖は,その後もラッセルにつきまとった。
The fears generated at that time have never ceased to trouble me subconsciously. Ever since, but not hefore, I have been subject to violent nightmares in which I dream that I am being murdered, usually by a lunatic. I scream out loud, and on one occasion, before waking, I nearly strangled my wife, thinking that I was defending myself against a murderous assault. *16
 ラッセルがアリスを愛さなくなったのは,アリスの母親の残酷さへの嫌悪にはじまるが,前述のような恐怖の記憶が無意識にアリスを遠ざけるように働いたのではないかと思われる。しかし,二人はその後9年間一緒に暮している。しかし,二人が夜を共に過すことは年に一度か二度しかない。ラッセルは毎夜11時から1時まで野原を散歩したり,寝つかれず朝まで鳥の声をきいていたりしている。当時を回想した自伝の中の次の文章は散文詩のようである。
The most unhappy moments of my life were spent at Grantchester. My bedroom looked out upon the mill, and the noise of the millstream mingled inextricably with my despair. I lay awake through long nights, hearing first the nightingale, and then the chorus of birds at dawn, looking out upon sunrise and trying to find consolation in external beauty. I suffered in a very intense form the loneliness which I had perceived a year before to be the essential lot of man. I walked alone in the fields about Grantchester, feeling dimly that the whitening willows in the wind had some message from a land of peace. *17
 この文章はそこで語られている孤独を半世紀以上も昔に乗り越えた人のものである。この「生涯で最も不幸だった時期」に書かれた典型的な文章は,A Free Man's Worship と題されたエッセイである。このエッセイは出版されたのは1917年であるが,実際に書かれたのは1902年つまり,ラッセルが最もひどい孤独と執筆の困難に苦しめられていた時期である(松下注:初出は1917年ではなく,Independent Review, v.1: Dec.1903, に発表されている)。
 このエッセイの内容は,運命に抗する人間の意志の自由の表白である。それは抽象的に人類の運命を論ずる体裁をとっているが,実はラッセルは自らに向って悲痛な激励の言葉を綴っているのである。悲痛さは行間からにじみ出る荘重だが一種の絶望的で悲劇的な調子で強められる。次の文章はこのエッセイの枢要と見ることができる。
The life of man, viwed outwardly, is but a small thing in comparison with the forces of Nature. The slave is doomed to worship Time and Fate and Death, because they are greater than anything he finds in himself, and because all his thoughts are of things which they devour. But, great as they are, to think of them greatly, to feel their passionless splendour, is greater still. And such thought makes us free men; we no longer bow before the inevitable in Oriental subjection, but we absorb it, and make it a part of ourselves. To abandon the struggle for private happiness, to expel all eagerness of temporary desire, to burn with passion for eternal things - this is emancipation, and this is the free man's worship. And this liberation is effected by a contemplation of Fate; for Fate itself is subdued by the mind which leaves nothing to be purged by the purifying fire of Time. *18
 この文章の背後にある思想は,実存主義的な傾向である。ラッセルはそれを creative idea1ism (創造的理想主義) と名付けている。ここで示された運命に勇敢に抗する姿勢は,更に地上における権力に抗する姿勢に通ずる。彼はニイチェが力に対する信仰に陥ったのは,宇宙の力に抗する理想の力を主張し損ねた結果であるという。この点から後年のラッセルの抵抗の精神の根源が意外にも存在論的な関わりを持っていたことが伺われて興味深い。
 このエッセイはさきに引用した「自由人の信仰」のモチーフがフーガのように表現をかえて繰り返される。それは音読に適した効果を秘めた文体である。ある箇所では人間の生活を暗夜の長い行進 a 1ong march through the night に例えた描写が23行にわたって述べられ,別の箇所では,人間の悲劇を敵国の真ただ中に築いた城 (shining citade1 in the very centre of the enemy's country) として13行にわたる描写を行い,更に,人間が乗った狭い筏(いかだ)とそれをかこむ暗黒の海 (surrounding the narrow raft the dark ocean ...)の象徴的な風景が10行あまり描かれる。こうしたイラストレーションの方法は,ラッセルがその後も主題を強調しようとするときに好んで用いる手法となった。
 文体の他の側面,文章の長さについてみると,このエッセイには極めて長い文章が多い。例証は繁雑になるのでここでは避けるが,冒頭のメフィストフェレスによる世界史のパロディのあとに示される科学的世界像の提示の部分に,13行にわたる文章があらわれる。それは3つのセミコロン,7つのコンマと1つのダッシュによってつながれている。決して理解しにくい文章ではないが,それでもラッセルの他の著作では多分見ることのできないほどの長さである。
 『自由人の信仰』を書いていた頃,ラッセルはミルトンに心酔していた模様である。この点について彼は晩年には次のように書いている。
There was a time, in the first years of this century, when I had more florid and rhetorical ambitions. This was the time when I wrote The Free Man's Worship, a work of which I do not now think well. At that time I was steeped in Milton's prose, and his rolling periods reverberated through the caverns of my mind. I cannot say that I no longer admire them, but for me to imitate them involves a certain insincerity. In fact, all imitation is dangerous, *19
 彼は当時 Henrik Ibsen の悲劇にも惹かれているし,アリスとの婚約当時にはアリスの兄で後に作家となる Logan Pearsall Smith の影響で Wa1ter Pater を読んでいる。(I got into a dreamy mood from reading Pater: I was im㎜ense1y impressed by it, indeed it seemed to me almost beautifu1 as anything I had ever read ...)*20 このような読書傾向もこのエッセイの文体に影響を与えたに違いない。
 ラッセル研究者にとってこの A Free Man's Worship をラッセルの思想上にどう位置づけるかは興昧ある問題である。思想的にも文体的にもこれが過渡期の作品であることは間違いない。ラッセルは『プリンキピア・マテマティカ』の執筆に没頭することで精神の危機を脱却する。1907年から1910年まで,年に8ケ月間,日に10時間から12時間をこの仕事にあてている。原稿は厖大なものとなり,散歩に出ている間に家が火事になって原稿が焼失しないかと気遣う一方,神経症が昂じて,オックスフォードに近い Kennington の歩道橋の上から通過する列車を眺め,明日は列車に身を投じよう (tomorrow I would place myself under one of them)と心に決めたりもしている。*21
 しかし,結局彼は困難に屈せず仕事を完成した。この大著は1910年から1913年にかけて3巻にわたって刊行された。
 1902年から1910年にかけての8年間は,ラッセルにとって知的にも情緒的にも苦難の時代であったにせよ,1906年には婦人参政権の運動に参加し,翌1907年には国会議員に立侯補(落選)している。また,同年には英国学士院会員(Fellow of the Roya1 Society) に推挙されている。ラッセルが自らの孤独を語るとき,その意味は社会的な孤立からくるものではなかった。彼の孤独は,前人未踏の学問領域を孤立無援で切り拓いてゆく人だげがもつ不安がもたらしたものであった。1903年に前出の『数学の原理』が出たあと,7年間の沈黙のあと,『プリンキピア・マテマティカ』の出版(1910~13)と並行して,1910年に『哲学論文集』 Philosophical Essays, 1912年に『哲学の諸問題』が出て,彼の哲学上の名声を不動のものとした。それ以後彼の死(1970年)に至る60年間にわたり,殆んど毎年のように彼の新著が出版される。その多作振りを考えるとき,1903~1910年の長い沈黙の時代が,彼にとってどれ程の心理的圧迫であったかを推量することができる。彼が数学と論理学を結びつけるヘラクレス的な作業をしている間,彼の持前の熱情的性格は冷厳で抽象的論理ばかりの支配する観念の世界の重圧に必死の思いで酎えた。『自由人の信仰』は彼の情念の文学的な昇華だったのである。従って,彼が『プリンキピア・マテマティカ』を完成し,解放的な気分から再び政治的実践に目を転ずるようになったとき,ラッセルは『自由人の信仰』にみられる悲槍感とそれを支える文体の心情は実践的活動を志向していた。政治活動は彼の熱情的性格が,論理の軛を解かれたとき当然向う方角であった。彼は1910年,選挙活動を通じて Lady Ottoline Morrell と親しくなり,やがて彼女を愛するようになる。そして程なく第一次大戦がはじまり,彼は自分の生命を賭けるに価する実践活動の目的 -反戦- を見出すのであった。


その3
 

3 執筆作業の諸相

 ラッセルほどの多作家も執筆について悩んだこともあった。前章で触れたように,朝から夕方まで机につき,白紙をにらんだまま一日が終るという例もその一つである。しかしラッセルはこういう悩みを乗り越える秘訣を見出した。それは後に述べるように意識下の世界に作業をさせるという方法である。(松下注:数理論理学の難問題に関する論文を書くのと,それ以外の著作を書くのとでは事情が違い過ぎるので,ラッセルの場合は,「執筆に悩んだこともあった」という表現は余り適切とは思われない。)
 彼はアリスの兄のローガンから文章作法を教えられたが結局ものにならなかった。ローガンは,「文章は必ず書き直さなければならない」(One must a1ways rewrite)と特に強調したが,この点についても,ラッセルはやってみて失敗した。My first draft was a1most a1ways better than my second と彼は書いている。*22 結局ラッセルは自分なりの方法を見出すに至る。彼は内容にかんして重要な誤りを見出したときにのみ全体を書き直すことにしたのである。しかし,文体の問題とは別に,執筆に至るまでに如何に考えをまとめるかということについて,彼は潜在意識を活用する方法を修得するまでは執筆に困難を感じていた。この方法を彼は How I Write の中で次のように書いている。
Having, by a time of very intense concentration, planted the problem in my sub-consciousness, it would germinate underground until, suddenly, the solution emerged with blinding clarity, so that it only remained to write down what had appeared as if in a revelation.*28
 彼がこうした作業方法を見出したのは1914年のはじめであった。彼はその年の春にボストン大学での Lowe11 記念講義をする予定にしており,前年一杯をかけてそのテーマ Our Knowledge of the External World の作業にあたったが,考え出した理論には欠陥が認められた。年末になっても作業はまとまらず自暴自棄になってクリスマスはローマで過す。元日にケンブリッジにもどり,困難な問題は何ひとつ解決されていなかったが,できるだけのことを口述するために速記者をよんだ。
As she entered the room, my ideas fell into place, and I dictated in a completely orderly sequence from that moment until the work finished.*24
 ラッセルはこの作業方法を彼の『幸福論』(The Conquest of Happiness, 1930) の中でも薦めているが,得意にするだけのことはある。(このとき彼の口述した『外界の知識』はラッセルの著作の中でも白眉に数えられるものだったからである。) 次にほとんど内容的に前掲の How I Write の中の文章と同じだが,『幸福論』にのったこの作業の仕方について詳しい解説は次の通りである。
... if I have to write upon some rather difficult topic the best plan is to think about it with very great intensity - the greatest intensity, of which I am capable - for a few hours or days, and at the end of that time give orders, so to speak, that the work is to proceed underground. After some months I return consciously to the topic and find that the work has been done.*25
 『外界の知識』の作成が口述 dictation よるものであったことは注目すべき点である。というのも,その後のラッセルの著作の多くが口述によるからである。たとえば,彼は1927年に幼児教育の実践のため,二度目の妻 Dora と Beacon Hi11 Schoo1 を設立したが,その運営のための莫大な費用を彼は多数の著作を矢継ぎ早やに出版することで稼ぎ出した。そのとき彼は口述の方法を専ら用いたのである。  
He told an interviewer in 1930: 'I haven't touched a pen since the school started, rather more than three years ago. I dictate at full speed, just as fast as the stenographer can go. I never revise a word ... I do three thousand words a day. I plan to work only in the morning, If I haven't done my stint, I sometimes go on working into the afternoon. I plan it all beforehand, so before I start it's all finished. ... When I have a book to write of 60,OOO words, I start twenty days before it is due at the publishers. ...

I am writing entirely for money. I don't mind pot-boiling. I have no 'lofty feelings'.
*26
 速記者がついて行ける限りの速度で口述し,しかも,あとで一字も直さずにすむという特異な能カは勿論長年の執筆の努力の結果彼が身につけたものであった。すでに実験学校をはじめるまでに,ラッセルは一般向きの科学や哲学の啓蒙書を次々に出版していた。このポピュラー・ライターとしての彼の資質は,第一次大戦中の反戦運動で禁固刑に処せられて獄中にあったときの執筆作業が契機となって養われたと見ることができる。獄中で彼は『数理哲学序説』(Introduction to Mathematical Philosophy, 1919)を書き,のちに The Analysis of Mind, 1921 となる著作の準備をはじめている。1914年に『外界の知識』が出版されてからビーコン・ヒル・スクール設立に至るまでに出版された書物は上記をのぞく17冊に及び,毎年1冊ないし2冊の割合で出版された。
 当時のラッセルの執筆作業ぶアラン・ウッドは次のように描いている。
His custom was to do his popular writing in Chelsea during the winter, and his professional work in Cornwall during the summer; keeping up a continuous output only made possible by his extraordinary gift for concentration - presumably acquired throhgh his early work on mathematics. He would sit writing page after page, turning page after page neatly face downwards as he finished them; he never minded children playing round him while he worked, and once a guest in Cornwall, watching fascinated, saw that Russell did not even notice a wasp circling his head. *27
その4
 

4 執筆の意味

 1931年にはラッセルの著作の数は30冊を越えた。これだけの著作を世に問いながら彼が当時深い空虚感に襲われていたということは,どう考えたらよいのだろうか。その前年に出版した『幸福論』の中で提言されていた幸福を獲得する秘訣を自ら実行済である筈の彼が満ち足りた思いにひたることができなかったのは何故であろうか。自らが幸福でなく,幸福を求めたが故に『幸福論』を書いたというのは簡単すぎる説明である。執筆によって,また出版によって,あるいは更に名声の獲得によって手に入るとされる幸福は浅薄なものである。「名声を得てロダンは一層孤独となった」と書いたリルケはこのことを誰よりもよく理解していたに違いない。
 執筆は,他の創作活動とは同じくその作業の続くあいだ'個人的な不幸'を忘れさせるか,その不幸を乗り越える力をそれを行う人間に与える。ラッセルが何故これ程の厖大な著作を次々と生み出したかという秘密も多分に彼の個人的な不幸の結果であったとも言いうる。著作によって生計をたてるために書いたということは表面上の理由であり,著述は彼にとって'喜び'でなかった筈はない。少くとも「不幸を忘れる手段」であっただろう。晩年の自伝の次の文章はそうした点から意味深長である。
The same kind of fear caused me, for many years, to avoid all deep emotion, and live, as nearly as I could, a life of intellect tempered by flippancy.*28
 ここで言われている恐怖は,自分が'発狂'しはしないかという遺伝的素質の自覚からきていた。ラッセルは自分が情緒的に極端に圧迫されて狂気に至らないために,知的推論による冷静な心境を懸命に確保しようとしたこと - それが第二の天性となり,信じられないほどの多作を生み出させることになったとも考えられる。
 しかし,彼の暗胆たる不幸の自覚は,もとより,そうした体質上のものだけではなく,彼の世界観からくるものであった。1931年に彼は短い自叙伝を口述したが,その結語の内容は,第二次大戦を予感する重苦しい時代的風潮を慨嘆すると共に,彼自身の哲学的業績に対して,それが結局のところ自ら求めた内面的希求を満足させるものではなかったと告白している。彼は敢て次のように述べるに至る。
When I survey my life, it seems to me to be a useless one, devoted to impossible ideals. ...
My activities continue from force of habit, and in the company of others I forget the despair which underlies my daily pursuits and pleasure. But when I am alone and idle, I cannot conceal for myself that my life had no purpose, and that I know of no new purpose to which to devote my remaining years. I find myself involved in a vast mist of solitude both emotional and metaphysical, from which I can find no issue.
*29
 こうした率直な自己分析,空しさの自覚こそがラッセルを再び立ち直らせ,積極的に現実社会との接触を求めて果敢な実践活動へと向わせるのである。
 執筆作業と実践活動の二側面は,彼の生涯の初期には交互にあらわれる。しかし,中期から次第に同時にあらわれはじめる。晩年には,彼の執筆活動と政治的実践は同時に同じ強さであらわれる。彼は激烈に行動し,猛烈に書く。これがラッセルが青年時代に理想とした生き方であり,彼はそれを自ら実現したのであった。*30〈29 Jan. 1977)



0l ラッセルの短篇小説集は,次の三冊である。Satan in the Suburbs (Penguin Books, 1953), Nightmares of Eminent Persons (London: Max Reinhardt, 1954), Fact and Fiction (London: George Allen & Unwin, 1961) ただし,最後のものは Fiction の部分のみがそれに相当する。詩集は次のものだが出版年及び市販されたかどうかは不明。The Prelate end the Commissar (The Humanists of America)
02 Bertrand Russell, Portraits from Memory (London: George Allen & Unwin, 1956), p. 16.
03 Alan Wood, Bertrand Russell - The Passionate Sceptic (London: George Allen & Unwin, 1977), p. 22.
04 Portraits from Memory (op. cit.), p. 17.
05 Wood (op. cit.), p. 24.
06 The Autobiography of Bertrand Russell (London: George Allen & Unwin, 1967-1969, Unwin Books one volume edition, 1975), p.43.
07. Ibid., pp.48-49.
08. Portraits, p.194
09. Ibid., p.197.
10. Ibid.,p.197
11. Autobiography, p.147.
12. Ibid., p.148.
13. Ibid., p.148.
14. Ibid., p.154.
15. Ibid., p.128.
16. Ibid., p.82.
17. Ibid., p.152.
18. Bertrand Russell, A Free Man's Worship, London; George Allen & Unwin, (first pub. in 1917 under the title Mysticism and Logic, Unwin Paperbacks edtion, 1976), pp.17-18
19. Portraits, p.196
20. Autobiography, p96
21. Ibid., p.155.
22. Portraits, p.194.
23. Ibid., p.195.
24. Autobiography, p.219.
25. Bertrand Russell: The Conquest of Happiness, 1930 (Unwin Books edition in 1975) p.59.
26. Wood, p.162.
27. Wood, p.153.
28. Autobiography, p.82.
29. Ibid., p.395.
30. 拙稿「バートランド・ラッセルと平和の探求」 『平和研究』(日本平和学会)第2号(日本経営出版会,1977年)所収

(Synopsis) Bertrand Russell and the Making of His Style, by Osamu ONO.

Bertrand Russell (1872-1970) wrote more than 70 books in his life and most of them - including German Social Democracy first published in 1896 - are still in print. The secret of the lasting popularity of his works lies not only in their contents, which stand the weathering of ages, but also in the style, which places him among the best English prose writers of the century. He says in 'How I Write' (1956) that he wished 'to say everything in the smallest number of words in which it could' be said clearly' and that 'one should imitate Baedeker'.
This tendency to conciseness was already obvious in his youth. A criticism of Russell by his Cambridge philosophy tutors was that 'his essays and replies to examination papers were too short' (Alan Wood). He did not undergo a classical education, and to this fact, as Charles Sanger said, his admirable and lucid English style may be attributed. A pamphlet published by himself on his 90th birthday (1962) reveals his life-long ardour for conciseness of speech. The pamphlet, entitled History of the World in epitome, is written in 19 words: 'Since Adam and Eve ate the apple, man has never refrained from any folly of which he was capable'. Here his sense of humour goes together with his capacity for conciseness.
Russell devoted himself for ten years (1900-1910) to an epoch-making work in collaboration with A. N. Whitehead to establish their thesis that mathematics and logic are fundamentally the same. During the first years of the century a stalemate in his work and discord with his first wife, Alys, made Russell extremely depressed - to such an extent that he was more than once tempted to commit suicide. 'A Free Man's Worship', an essay with rich, literary tone, was written in 1902 in long and sometimes faltering sentences reflecting melancholy and resignation. The idea and style of this essay was soon abandoned for good with the completion of the work which resulted in Principia Mathematica (3 vol. 1910-13).
The First World War transformed, the mathematical logician into a man of action in anti-war movements and a commentator of various subjects ranging over politics, education, science, morality, religion, not to mention philosophy in general. During the inter-war time, more than two dozen of his works were published at a pace of one or two each year. The production of this vast mass of wordage was made possible through dictation. He told an interviewer in 1930: 'I dictate at ful 同時に;l speed, just as fast as the stenographer can go.'
The method of dictation was first employed in 1914 on his return home from Christmas vacation taken after fruitless months of effort preparing for a Lowell lecture. The delay in his work and an imminent deadline forced him to take up this method and the result was a triumph, Our Knowledge of the External World (1914) . This experience taught him his technique of the conscious use of the conscious mind (松下注:'unconscious mind' の誤記と思われる。). The technique worked as follows: after very intense concentration, he would plant the problem in his sub-consciousness, leaving it for germination underground, and months later he would return consciously to the subject and find the work done; all he had to do now was just copy or read something out that was already written in his head. This is the reason why his 'mauscnpts and letters run on page after page with an uncanny and almost inhuman neatness, hardly a word being crossed out or altered'(Alan Wood).
Russell was awarded the Nobel Prize for Literature in 1950. The fact that he was awarded it for his philosophical works does not necessarily mean that his masterpieces are limited to philosophical works. In The Autobilography of Bertrand Russell (3 vol. 1967-1969) we come across abundant examples of narrations only a philosopher with a developed literary ability (the author of three collections of short stories) could write.