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『社会思想研究』v.22,n.3(1970年3月刊)pp.22-28. * 江上照彦氏は当時,日本バートランド・ラッセル協会理事,社会思想研究会理事 人間もこのくらいスケールが大きくなると,その輪郭を描くのにも骨が折れる。新聞の報道には,偉大な合理主義哲学者,論理学者,懐疑論者,平和運動家というふうの文字がならんでいたが,とにかくその巨大な全貌を熟知している人は案外少ないだろう。私なぞはそんなラッセルのほんの微小な一部分を生かじっているだけだが,それでいて日本バードランド・ラッセル協会の創立に参加したり,理事の席をけがしたりしているのだから,これは思い上がりもはなはだしいし,笑止千万というほかはあるまい。いや,それだけではない。卿がとんとご存知のはずもない私が,その恩恵にあずかることひととおりでないのは,まことに不思議な次第である。というのは,ラッセルを種にして,私があまた尊敬すべきかたがたに辱知の機会を得たということだ。 なにしろ古い事だから,すベてが霧をへだてて月を望むがごとくで,どうも心もとない。紹介状を持参したかどうか,それさえ覚えてはいないのだが,たしか出版間近かのある冬の日,(鎌倉の)光明寺行きとかのバスに乗って長谷川如是閑(はせがわ・にょぜかん,1875年11月30日-1969年11月11日:日本のジャーナリスト,評論家)先生宅を訪問した。お宅は百姓屋のような造りだった。縁側に射す温かな日を浴びながら,勝手なお顧いをしたわけだ。
というような成り行きから,つまりはお引き受け頂いて,ゲラ刷りを持って改めて参上したりして,結局かなり長い「バートランド・ラッセルのこと」という(『権威と個人』への)跋文を頂戴できたのは,もっけの幸いであった。 さて,私のラッセルの翻訳に,如是閑先生の文章を懇請したのも,実はこの両首に似通った点が多いとかねて思っていたからだ。如是閑先生にも臆面もなくそう申し上げたわけだが,他にもそんなことを言っていた人があったらしい。たとえば,この跋文にも
![]() こんな機縁から,やがて如是閑翁が小田原板橋の新宅に移転されてからも,時々お伺いするようになった。緒方竹虎氏(おがた・たけとら,1888年-1956年:日本のジャーナリスト,自由党総裁,内閣官房長官,副総理などを歴任)が名づけたというここ八旬荘は,鎌倉のお宅とは大違いの,大変りっぱなお屋敷で,先生もしごくご満足のようだった。書斎のガラス戸越しに見える庭はなだらかな広い梅林になっていて,遠くはるかに蒼然とかすんだ海が見えた。あるとき,「社会思想研究」(=雑誌)のために随筆をお願いしたことがある。
昭和三十八年三月,中日新聞の依頼で,ラッセル卿を肴にして如是閑翁と対談することに相成った。その後,ラッセルの『結婚と道徳』や『ソビェト共産主義(ボルシェビズムの理論と実践)』(いずれも社会思想社刊)などを訳したり,エッセイを幾冊かを読んだりしたものの,それでこのテーマで翁と対談とはいかにもおこがましい。しかし,この種の心臓男が横行している世の中だから,読者諸氏はよほど警戒せらるべきである。それは,さておき,その中から些少を摘まんでお目にかけよう。
ここ小田原はかつてベルツ(明治九から三十九年の間日本に住み,東大で医学を講義)が日本一の健康地と折り紙をつけたところで,従って長寿が多いこと;犬を飼う意味,つまり,その「生物学的動作」を観察する楽しみ;弓を愛し,暇さえあれば弓を引くゆえん,因みにその弓は若槻礼次郎氏(松下注:わかつき・れいじろう,1866年-1949年:日本の大蔵官僚,政治家。第25代および第28代内閣総理大臣)から贈られたものであること;読書器械を案出したり,書斎の中に流しをとりつけたりするわけは,自分としての'生活の合理化'にほかならないこと,などなど,いろんな話が翁の流麗な江戸弁に乗って,それこそ飛びっきり上等の落語の「まくら」か何かを聞くようでとてもおもしろかった。しかし,いったん話が翁の古い思い出となり,ことに職人のことになると,今まで身ぶり手ぶりをまじえて元気に語っていられたのが,急に口ごもりがちになり,果ては言葉がと絶えて,やがてその両眼からとめどなく涙が流れ落ちるのだった。過ぎたむかし,亡びゆくものへの哀惜の念が,つねに翁の胸に迫ったのであろう。 ラッセル協会の創立以来,ほぼ月一回開催される理事会の後,先生とサシでお話することが多くなった。先生のお宅が茅ヶ崎,拙宅が藤沢で,帰路は同じ湘南電車だからである。親しくこの高名の知識人の讐咳(けいがい)に接しうる,というのは誠に光栄であり,もっけの幸いでもある。ところで,せっかくの機会なのに,私の話すことといえば,やれどこそこの芸者の噂とか,やれ某政治家の評判とか,つまり,俗事中の俗事ばっかりだった。こちらもいささかそのお粗末に気づいてはいるものの,どだい学識薄弱で,先生の教えを請う域にも達していないのだから仕方がない。実は,まず,「恐い人」と感じた,かつての先生の第一印象をもそのまま隠さず白状したのだが,「君,そんな・・・」とかいうふうにおっしゃって,破顔一笑されただけだったから,以来先生に対しては,安心して,馬鹿話で押し通したようなものだ。「これはなんともしようがない奴」と,先生に思われても仕方がなかったのである。 話は前後するが,その年の三月八日,私は笠先生のおともをして,小田原八旬荘主人・如是閑翁を訪問した。先生の心のこもったグレープ・フルーツ一籠が手土産だった。翁をラッセル協会の顧問にお願いしたいというわけなのだ。しかし,笠先生の言い方は, 「しかし,先生,お気が向いた時でけっこうなのですから・・・」と,はなはだ遠慮深い。なるほど,'遊食の徒'を以て自任し,運動に加わらないことを生活の信条にしてこられた翁であってみれば,無理強いは禁物であったろう。一時間の面会予定がほぼ三時間にもなるまで,まさに談論風発,ラッセルのことから,東西の哲学,宗教,教育などにわたっており,おかげて聞き手の私は'耳の保養'をさせて頂いた。と同時にテープレコーダーを持ってこなかった自分の気のきかなさがくやまれたのだが,とにかく,私に,その内容を摘記して,「如是閑,ラッセルを語る」という題で,協会会報の創刊号に掲載した。中から一例を引けば,ラッセル,笠先生らの主張せられる世界連邦の思想についての,翁の口ぶりは次のとおりである。 さて,如是閑翁を協会顧間に推載しようというアイデアは,がんらい笠先生のもので,私たちからの入知恵ではない。ところで,先生の頭の中で,ラッセルと如是閑がどんなぐあいに結びついていたかは,やがて自ら執られた「ラッセルと如是閑」(『ラッセル協会会報』第7号の巻頭言)によって明らかになったと言えよう。それは次のような言葉で始まっている。 「よく如是閑翁のことを,日本のラッセルだなどという人がある。何やら漠然たる対照が,ひとの頭に浮んでくるのであろう。それも無理のないところがある。ともに九十歳を越えて,痩躯鶴の如き風貌,そういう外観的なところも,ひとの目に映るのであろう。また,学識の広さや深さ,どことなく世に超然たるところ,勝手なことを平気で発言しているようなところも,似ていないことはない。そういう人が,国は東西に遠く隔てて,たがいに会って話したこともなく,しかも全く同時代人だということが,かえって面白い点でもあろう。・・・」というふうに結ばれている。 如是閑翁の「断じて娶らず」については,ふと思い出すことがある。いつだったか,八旬荘に伺った折に,書斎の隣の座敷で夕飯のご馳走にあずかったまではよいこととして,いつか振舞い酒にしたたか酔っ払って,すっかり羽目をはずしてしまった。野人礼にならわず,とはまさにこのことだ。調子に乗ったあげくは,如是閑は女性とは断じて無縁だったという,例の神秘のヴェールにおおわれた伝説的不犯説の真偽を確かめたくなって,膝を進めて質問の口火を切ろうとして,ハッと息を呑んだ。さすがに,そこまでは入りきれなかったのだ。というしだいを,笠先生に話して,「いったい如是閑翁は童貞なのですかね」と問うと, 「さあ? 鎌倉のお宅におられた,妹さんとかいうおばあさんなぞ,案外むかしの恋人だったかもしれないね」と童貞説には否定的だが,だからそこ彩りもあるロマンチックな答えがかえってきた。 それからしばらくして,今度は私がヨーロッパへ旅立って,二ケ月を経て,帰国したのが十月半ば近くで,そろそろ風にゆれる木の葉の色づく頃だった。たしかその翌月の協会の研究会の折り,蔵前工業会館の横の地下の食堂で,理事諸公ともどもの食事に,先生と同じハヤシ・ライスをたべたのが,私が先生にお目にかかった最後になった。 その日,つまり十二月四日は,たまたま私の上智大学への出講日に当っていた。教壇へ上がって,講義をはじめるに先立って,「今朝がた笠信太郎先生がお亡くなりになったよ」と私は言った(訃報)。「えっ」という声が,教室のどこからか聞こえた。私はなお何かを,言おうとしたが,妙に顔がゆがむような感じになって声がつまった。涙だけがむやみやたらと出てどうしようもない。それをハンケチでふいて,改めて講義に入ろうとしたが,また同じ始末になった。しかし,このありさまを,学生の誰一人も笑おうとはしなかった。 昨年の十一月八日,箱根の俵石閣で情報研究会の総会が催されて,私も出席したのだが,翌日帰りの車が小田原市板橋のあたりにさしかかったとき,ふと,久しぶりに八旬荘主人をおたずねしたい気がしたが,瞬時に車は走りすぎた。しかし,かりに私がおたずねしても,その時はもう翁は御在宅ではなかったのだ。その頃同市立病院で危篤状態に陥っていられることを全く知らなかったのは,なんとも不覚の至りというほかはない。他界せられたのは翌々十一日午前だった。 そんな凶事は,なお黒い尾を引いていた。今年,と言っても,それから間もない二月三日,今度は突然ラッセル卿の訃報が伝えられた。北ウェールズを襲った近来稀れな酷寒が,ついにこの不世出の哲人のさすがに強靭な命の綱(つな)を断ち切った,というのである。 こうして,わずかな歳月の間に,笠,如是閑,ラッセルの思想的巨人たちが相ついで逝去せられたのだが,そのつどジャーナリズムは「巨星落つ」の文字を掲げて哀悼した。本稿のはじめにも述べた通り,いわばラッセル卿を種にして,偉大な師に親灸(しんしゃ)でき,良き友にも恵まれた私だったから,これらのことはたしかに,夜空に光茫を放つ三つの巨星がにわかに光を絶ったも同然の悲哀だった。 生者必滅といい,memonto mori(死は既知数)という。しょせん,人間の死の檻の外には出られないものとすれば,それだけに自と他との生ける限りの交わりが貴重なのだし,まして師と仰ぐかたがたの逝去は悲愁痛恨のきわみで,ただただ長嘆息するのみである。 (社会思想研究会理事,作家) |