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長谷川如是閑「バートランド・ラッセルのこと」

*(故)長谷川如是閑氏(1875~1969)略歴
* 本エッセイは、江上照彦(訳)『権威と個人』(社会思想研究会出版部,1951年3月。227p.)に収録されたものであるが、雑誌『あるびよん』n.7(1951年6月号)にも「バートランド・ラッセル-自分のこと・人のこと」というタイトルで掲載されている。



ラッセルの言葉366
 「バートランド・ラッセルのこと」とはいうが、実は自分のことである。私は今から三十何年か前に、初めてラッセルを読んで『おやおや私のいいたいことを、私よりも上手にいっているイギリス人がいる」と感心したが私は元来、自分の考えに近いものよりも、むしろ反対のものを読む癖があったので、ラッセルはその後たくさんの本を著したが、私はそれらのうちの数種を読んだに過ぎなかった。しかしそのころから人は私がラッセルの思想に親しんでいるように思ったらしかった。ラッセルばかりでなく、私はよく人から私の目もふれたこともない本を私が読んでいるように思われたが、それは私のいうことが、それらの本でいっていることに似ているというのでそう思われるらしかった。人からそういわれて私は初めてその本を読んで「なるほど似ている」と感じたことはあるが、それは恐らく私の構想の材料の仕入れ先きと、その選び方がそれらの本の著者の仕入れ先きや選び方に似ているからだろうと私は思った。ラッセルもその1例で、年からいったら、彼より十数年も若い私(松下注:ラッセルは1872年生まれ、如是閑は1875年生まれであるから、ラッセルは3つ年上に過ぎない。ラッセルは20歳台から活躍しているので、如是閑は勘違いしたのかも知れない。)で、学問からいったら、大学教授と小学生だが、その小学生が明治時代にうけた英米式の教養が、ラッセルのそれとは、たとえ千里の差はあっても、同じ方向なので、私の舌たらずの口吻が、彼のをまねてるように聞えたのであろう。
 で1920年に、ラッセルが北京大学に招かれて始めて東洋に旅行して、帰りには日本にも立ち寄ったが、そのころ、私の友人で後にソ連で行方不明になった大庭柯公が、読売新聞の記者をしていて、ラッセルの思想と大陸の思想との関係といったようなことについて、私の見解を聞きたいというので、私がそれをいったのを彼が筆記して、読売新聞に連載されたことがあった。それは中国伝来の思想と大戦当時のシナ大陸の混乱状態とが、ラッセルの思想の立場からはどんな風に見られるかを考えたものだったが、そのラッセルの思想というのは、彼が第1次大戦の始まった翌年の1915年に書いて、1916年に出版された『社会改造の原理』(Principles of Social Reconstruction)で展開した彼の社会思想であった
 その本を書いた頃のラッセルは50歳前後の既に初老に近い年頃だったが(松下注:1915年執筆当時、ラッセルは43歳。初老というのはひどい。)、貴族の家に生れた、お坊ちゃん育ちの、血の気の多いラッセルは、世界戦争の勃発に、自国の政治家や軍人や多数国民とは全く逆な意味で、ひどく興奮して、高齢に達した最近には、その時の興奮で書いたその本の思想に行き過ぎがあるようにいっている位(松下注:本気でいっているのではなく、半分冗談)そのもって生まれついたような徹底的平和主義から,速座に戦争を終らせることを主張して、そのためにはイギリスは直ちに戦争から手を引いて、ドイツを勝たしてもいいから、邪(ママ)が非でも戦争を終止せしむべきだと論じた。口先ばかりでなく、いわゆるコンセンシャス・オブジェクター(松下注:良心的戦争忌避者のこと)として軍役を拒んで刑に服した(松下注:当時ラッセルは徴兵年齢以下であった。ラッセルが獄中にいるときに、徴兵年齢が引き上げられ、ラッセルも対象になったが、獄中にあったので徴兵されなかった。ラッセルは、『自伝』で、当局は自分を探したが、投獄したのを忘れていてラッセルを探し当てることができなかったと、冗談を言っている。。そんな風だったので、当時の彼の国家観には行き過ぎもあったかのように自分では思っているが>(松下注:ラッセルは半分冗談で自分を客観視して描いているが、本当に行き過ぎだったと思っていたわけではない。)、その社会思想の根本理論は、社会主義、サンジカリズ、アナーキズム等を、それぞれ客観的に見て、彼自身の筋金入りのイギリス式リベラリズムの立場から、間違いのないところをいっているのだった。そこでの彼の社会原理は、第1には、個人と個人の協同生活においては、ひとりの、また集団の、生活力を自由に発展させるような組織形態をとるべきであり、第2には,その組織自体は自己の集団の発展のために、その成員たる個人や他の集団を犠牲とすることなしに、他を生かしつつおのれを生かすような発展の道をとるべきであるというので、誰にも不服のありようのない結論となるのである。しかし彼がそれをいった当時は、彼の盛んに指摘し強調した通り、世界一般の社会とそこにある諸々の組織とは、個人のイニシアティヴを抑圧するような大組織となっていて、その最大の形である国家は、他の国家の犠牲において、自己を発展せしめようとして、無我夢中で戦争をしている最中だったので、万人に異議のない彼の結論が万人に踏みにじられていたのである。そのことを露骨に端的にいい得たのはやはりイギリス人だったからだ
 私は当時新聞記者をしていて、戦争勃発の直前だったが、ドイツの「途方もない」要求には英国その他も憤慨するのは当然で、戦争の起るのは必然だと、「大阪朝日」の論説で書いた。それを「神戸クロニクル(Kobe Chronicle)」(松下注:後に、Japan Chonicle: 右写真参照)が翻訳して掲載したが、その訳文につけた前文で、「この論文の材料は多分ステートマンス・イヤーブックだろうが」といって、ありふれた1材料から捻出した論旨だといわぬばかりにいっていたが、実はそれはそのころの「コンテンポラリー・レヴュー」の誰かの論文の「ありふれない」記事や数字によったものであった。「クロニクル」のその前文は、ただそんな文句で、イギリス人の戦争気分に同感したような「朝日」の論文を一寸ひやかした形だったが、後に思うと、当時のイギリス人の少数者の間には、ラッセルと同じように戦事反対の人もいたので、「クロニクル」も当時のそういうイギリスの側にあったらしいのである。新聞(「クロニクル」)の持主の英人某(松下注:Robert Young のこと。ラッセルは文通により、ヤングと親交をもっていた。)もやや変りものという評判だった。しかし正しい見解を「変りもの」しかもち得ないのは、国民の心理を間違った方に向けようとしている国家権力の行使者の不当の努力が功を奏したわけで、益々戦争のような不合理現象の絶えない原因がそこにある、というのがラッセルの立場である。私も家では子供のころ母から「天の邪鬼」といわれ、世間に出てからも、「変りもの」だの「つむじ曲り」だのといわれたが、自分では、そういう連中の方が変態でつむじが曲っているのだと思って、敢て自分のつむじを矯正しようとはしなかった。けれども世界戦では、イギリスの「変りもの」や「つむじ曲り」のように、ドイツに勝たしてもいいから戦争をやめろなどと考えるぼどの「つむじ」をもつことができなかった。これは私にも人並みの正義感があって、どっちが正しいか不正かと考えると、正しい方に勝たせたいと思う気になるからである。ラッセルにいわせると、それが元来あぶない考え方なのである。戦争をする国々は、必ずどちらも正義は自分の方にあると考えて、その正義を通そうとして腕力に訴えるのである。そうなると腕力の強いものの方が勝つのは当然で、正義も何もあったものではない。人はよく権利(right)と腕力(might)の戦いというが、そんな戦いはありはしない、戦いとなればすべて腕力の戦いだ。腕ぶしの強い方が勝つので、ライトもジヤスティスもあったものじゃないと彼はいう。だから力の争いを平和に治めようというなら強い者をしてもう腕力に訴える必要はないと思わしめるように事態を収拾すべきだというので、それが彼のドイツを勝たしても戦争を止める方がいいという理由であった。結局ドイツが敗けて戦争は終ったが、ラッセルの考えた通り、ドイツをして臥薪嘗胆、再び腕力に訴えなければならないと覚悟されるような事態のおさめ方だったので、失敗に終って、第2次世界大戦となった
 ラッセルは、国家間の紛議をへーグ(ハーグ)の裁判所の裁定のように、法理で決着をつけようとするのはいけないという考え方で、最も悪いことは、敵に不利な平和を強制して事態をおさめることである、それに比べると、戦争をつづけて自他に損害を与えることなどは、たいして悪いことでもないと彼はいう(松下注:この辺は誤解を招く書き方になっている。ラッセルは、戦勝国が敗戦国を裁くようなやり方はだめだといっているのであり、戦争を継続するほうがましだなどとは言っていない。)。これは予測ではない一般論で、要するにベーグ式(ハーグ式?)に抽象的の法理や正義で裁決した平和は、必ず逆に正義をもつものをして力づくで相手の正義を排して、自己の正義を通そうとする衝動を感ぜしめるから、そのやり方では現在ほんとうの平和は得られないというのであったが、事実その通りになったのである。
 私はラッセルを読む前から、日本の近代文明建設の青写真がだんだん英米型から離れて、ドイツ型を追いかけて、哲学でも社会学でも国家学でも、ドイツ学一点張りになって、いわゆる「コケ(バカ?)の一つ覚え」で人間の内的・外的の問題も、国家の内的・外的の問題も、すべてドイツ的イデオロギーで片づけようとし出したのを、私の明治時代の英米型の教養の頭で、困ったことになったと思っていた。第1次大戦後、デモクラシーの空気が吹き込んで、相当メートルをあげたが、これも観念的の、ドイツ的デモクラシーで、へーゲルの「精神」に「物」を置きかえたマルクス主義も同じ型の絶対主義哲学で、いずれも頭でうけとって頭の中で空転しているだけのもので、時代の日本人の五体から湧き出た力ではなかったので、いつの間にかうやむやに消えてしまった。その間私はただ自分のいいたいことをいっていただけで、何の運動にも集団にも加わらず、全く孤独で通した。その習慣が私の生れつきにも合っていたと見えて、そのまま押し通して、老いて、益々孤独である
 ところがラッセルもその孤独で通してきて、それを問題にもしているのである。私は、そんなことを問題にしたこともなく、ただ漫然と孤独であるに過ぎないが、ラッセルはそれを問題としてとりあげていうのである。凡そ思想というものは、長い目で見ると、どんな人間の力よりも大きい力で、人間の生存に必須の道にかなった考え方をする能力をもったものは、自分の生きているうちにはむずかしくとも、晩かれ早かれ、彼がいいと考えたことの達成される時のくることはたしかである。ところが多数人は、そんな風に考える能力はなく、その時の近所隣りの、また遠方の、人間の考える通りのことを考え、また実行しているだけで、そうしていないと世間から除け者にされるのが怖いので、それとは違う新しい思想などは彼らの安易な生活をぶち壊すだけだと、よけてしまうのである。だから何か創造的の考え方をしようとするものは、好んで淋しい生活に行く覚悟がいる。しかし淋しさを好むと必ず孤独に陥るもので、そういう人間は、他人と結合する願望を失い、人を侮りたがるようになるが、そうなったらおしまいで、その知的分離はあっても、孤独の人間とならないように心がけなければならないが、そういう心の持ち方がなかなかむずかしい、とラッセルはいうのである。私はそのむずかしい心の持ち方ができないので、結局孤独でおしまいになってしまったが、ラッセル自身も、自分でいったその心のもち方のむずかしさに敗けたような形で、私と同じく「人と結合する心持ち」を失ってしまったらしいのである。しかし私は孤独になっても、「人を侮りたがる」ということはなく、つむじ曲りといわれても、違った人の違った考え方は、私や世間に被害のない限り、彼らの勝手と放って置こうとつとめている(ママ)。ラッセルもそうは心懸けていたらしいが、やはり貴族出のお坊ちゃん育ちのせいか、そこへ行くとやや無遠慮である。
 彼は、意志よりも衝動が、現実の生活に有力に作用するという立場で、その衝動を大別して、創造衝動と所有衝動との2つとして、前者をできるだけ発展させ、後者をできるだけ抑制するのが正しい個人や組織であるというのだが、政治家などは、国家的所有衝動の実行に当るもので、所有衝動の奴隷みたいなものである。だから「偽善(ヒポクラシー)」を持ち合せないととても議会にははいれないなどといっている。それは未だ優しい言い方で、国家的所有衝動を逞しくして、イギリスやフランスの文士たちに、何の理由もなしに、ドイツの音楽家を殺せと命じ、ドイツの音楽家に、何の恩怨もない英仏の文士を殺せと命じているのが政治家だ、とまでいっている。私がラッセルを愛読したのは、1つにはそういう言い方に興味をもったからで、いわば彼のよくないところ――と彼自身,老年のこのごろは考えているらしい(松下注:ではなく、半分冗談で言っているもの)――を面白がったものである。今いった議員や政治家のこともその1例だが、国家のことをいうときにも、「いかなる国家も、国内的には人を殺すものを罰し、国外的には人を殺さぬものを罰する」といったような言い方をする。(現に彼自身も、人を殺さぬと頑張って獄舎生活をしたのである。)同じ衝動もそれをマネーヂすることを誤ればとんだこととなるともいって、「すべての最上のものを生むその同じ衝動が戦争を生み、戦争愛を生む」という。戦争熱の心理をいおうとして「その瞬間、人間の想像と本能とが何世紀でもあと戻りをする。そうして森に棲む原人が閉じ籠められていたその心の牢獄から飛出してくる」という。まるでかの昭和の軍人のことをいっているようである。また長い間国家権力を行使するものは、独裁家になり、争い好きになって、人さえ見れば競争相手のようにでなければ子供のように取り扱う、「人がそれを憤慨すると、彼はその憤慨を憤慨する」といった調子である。そんな口吻でまくし立てるが,一向まくし立てているという感じを読者にもたせないで、私の子供のころに聞いた落語家の「まくら」を聞いているようで、真面目な論文で、イギリス式ユーモアを満喫させられるのがたまらなくうれしかった。しかしそのユーモラスの文句が相手の急所を真正面から突くので、傍観者には愉快だが、相手は、撫でるような太刀の使い方でお突きを喰ったように面喰わせられるに違いない。その撫でるような竹刀の使い方は私もしたのだったが、ラッセルのようにそれで正面から斬り込む代りに、私のは搦め手から、何気なく近づいて、相手の腋の下を擽る(くすぐる)位のところである。
 国家観においても、私は青年のころから老子に興味をもっていて、「小国寡民」説でフランス流のリージョナリズムだったので、ラッセルを読んで、国家のエッセンシアル・メリットは、国内における私人による強力の使用を防ぐことで、国家のエッセシアル・デメリッツは、国外に対する強力の使用を煽動し、その形骸の大きいことで、各個人をして、民主国でさえも自分たちは全くインポテンツだと諦めさせたことであるといったようないい方を面白く思った。そこで彼がメリットを単数にして、デメリットを複数にしたところも気に入った。それは単なる文法ではなく、実際に国家のメリットは単数で、デメリットは複数なのである。
 ラッセルの国家・社会観は、心理学的の根底に立ったもので、意志より衝動が生活を支配することを認める点には同感されるが、その衝動をいう時に人間には調和の衝動よりは争い(conflict)の衝動の方が強いといっているのは承認できなかった。それらの衝動に強弱があるわけではなく、場合によって、強く作用したり弱く働いたりするのである。動物には一般に争いの衝動が強く、調和の衝動が弱いと考えられているが、動物でも同類間では調和の衝動が相当強く働くのである。人間も同類の間の調和の衝動から協同生活が起りもし、堅くなりもしたので、異類の間に原始時代に物物交換の起ったのも調和の衝動からともいえる。そういう点に多少異論はあったが、私は初めて、ラッセルを読んだ時、大体において、この本ほど私のいいたことをずっと上手ないい方でいってたのを読んだごとはないと思った。
 ラッセルの見地は、帝国国家とか資本主義社会とかいう大組織は、個人のイニシティヴを殺して、型通り全組織に一致する生き方をとらせるので、それが人類の進歩を停頓させることとなってその組織自体が崩れる、そうして新らしい組織に行くのが革命であるが、日に日に転換する動的の生活を営む能力を失うことが人間にとって最も恐るべきことである。
 個人も組織も創造衝動の発展に重点を置いて極力所有衝動を抑えなければならないというのもその理由である。
 それには、ラッセルによれば、各人は、自分たち各自の力が集団に影響する可能性のあるような小さい組織を生活の中心とすべきである。普通の人間が、国家や世界のことを考えて見たところで、その考えが国家や世界に影響するとは思われないが、家や村のことを考えればそれが家や村の生活に現われる可能性がある。そこでこれを考えた個人も生き甲斐を感じる。そうしてまたそれが個人の創造衝動を刺戟して、自他の生活の発展を助ける力のもととなる。だから生活の本拠は小さいに限る。といって大国は要らないというのではない。これらの生活の小さい領域の相互関係をまとめる何かの組織が必要であり、おのずとできもするわけで、そこから小さい産業を大きく纏める組織ができるように、多数の小社会を統括する国家もできる。そうして結局、世界の国家群を1つに纏める「世界国家」といったようなものもできる道理である。ただその大きい組織が各の小組織の犠牲において自己を拡大させ発展させるということになったのが今までの大組織や大国家なのだから、階級戦も起れば国際戦も起る。その戦争も結局は、小さいものを統合する作用と、小さいものに分離させる作用との両面をもっている。一方で、帝国国家が戦争ででき上るかと思えば、戦争の結果、小民族の国家も生れる。世界国家ができれば、小さい民族国家も都市国家も部落国家もできるわけである。ただこれらの小国家を犠牲としてでき上る大国家であってはならない。ややもすれば、崇高な国家や個人が残忍な手段でつくられるが、これはいけない。私は今も彼のいった文句を覚えているが、これは 'Men must learn to be noble without cruel' というのである。国家も個人も、他の国家や個人の犠牲において崇高な国家や人間になったのでは、強盗がミリオネアーになったのと同じだ。――これはラッセルのいった文句ではないが。

 ラッセルの『権威と個人』という新著が近く江上照彦氏の訳で、社会思想研究会から出るが、この本も『(社会)改造の原理』と同じ思想的・心理的立場から、前者が国家・社会を主として構成体としての面から見たのに対して、これはそれを構成する権威者と成員たる個人の側から見たもので(現在の形態に対する批判の態度に変りはない。その結局の解決が、1つの世界国家の成立となって、極度に分権的な国家群の相互関係を整調(調整)するということになる筈だというのも前からの持論である。
 この本の国家観・社会観・人間観は、前からのラッセルのそれと格段変っているとは思われないが、ただ1つ私が第1印象的に、「これは少し変った」と感じた点があった。ラッセルはアメリカのクロオ・インディアンに関するロウリイ博士の報告で、クロオ土人が、まだ文明人の支配をうけなかった昔の不安な生活と、白人のお蔭で安全が保障されている今の安易な生活とどちらを選ぶかと聞かれると、彼らは必す「昔のような危険な生活を選ぶ、そこには誉れがあった」と答えると博士が記述しているのを読んで、その「そこに誉れがあった」という一句に強い刺戟をうけたというのである。そうして元来衝動論をとった彼は、安易な平和生活には、その「誉れ」を得る冒険が全く無いので、生活は退屈となり、平凡となり、生き甲斐がなくなる。それは、ラッセルの早くからいっていたことだが、この本では、「そこに誉れがあった」というクロオ土人のことばに重点を置くようになったのだった。で、個人の活力の自在に働く天地こそ、人間を活かす世界だという彼の持説から、その活力を刺戟する「誉れ」を重視するようになったのである。彼はその新らしい本で「私はおそらく事柄の要諦は、……『そこに誉れがあった』といって昔の生活を嘆き惜んだ赤色土人によって与えられたものと考える」(江上訳)といっているのである。
 ラッセルがそう感じ出したのは1914年のことらしく、従って『社会改造の原理』を始め、多くの同じ系統の著書はその後に書かれたはずだが、それには「誉れ」が強調されずに、この本になってそれを要諦とまで考えられるようになったのはどうしたことかと、私は疑問に思った(松下注:両者の主張が、矛盾するとは思われない。)。ところが、間もなくさらに彼の近著の Unpopular Essays を手に入れて、その最後の章の彼自身の書いた、いずれロンドン・タイムスに載るかも知れず、載らないかも知れない、という断り書のついた彼自身の「死亡記事(obituary)」を読んでやや察しがついた。それには、彼は既に青年時代に数学の論理に関する重要な仕事をしたが、然し世界大戦中の自分のエクセントリックの態度は、判断のバランスを失ったことを告白して、それが彼のその後の著書をだんだんと毒して行った、といつているのである。そうしてそれは恐らく、自分が幼時に国家のパプリック・スクールの教育をうける利益を与えられないで、18歳まで家庭教師の手に教育されたせいだろうといっているのである。(松下注:ラッセルは英国のパブリック・スクールの教育にはかなり批判的であり、また、自分の「死亡記事」も半ば冗談で、新聞は私の生涯をこのようにまとめるだろうと、想像し、面白がって書いているが、如是閑は、それをそのまま受け取ってしまっている。如是閑にしては、見方が浅すぎる。)
 私はそれを読んで、思いもよらないことを聞くものかなと思った。というのは、私はイギリスの自由主義や、実証主義や、功利主義は、その時代の中堅のイギリス人が、国家教育をうけないで、子供のうちから、家庭の教育と国家から独立している大学の教育をうけて社会に出たことに大きい動因があると考えていたからである。ラッセルがその逆のようなことをいっているのを読んで、私はラッセルが1914年に例のクロオ土人の「春があった」を聞いて「私がそれを知るに及んで、少くとも私にとって驚異となった…」云々といったのと同じような驚異を感じたのである。ラッセルの衝動論や活力論には私も同感だが、「誉れ」がその刺激になるからといって、「誉れ」のない生活を無価値の生活――とラッセルはいわないが、結局そういうロジックになる――と考えるのはどうかと思う(松下注:如是閑氏は英米の教養をたっぷり身につけたすぐれた思想家であったが、残念ながら、ラッセル=イギリス人のユーモアをユーモアとして受け取れず、そのまままじめに受け取ってしまっている。)。そうなると多数の凡人は、全く立つ瀬がなくなる。彼らは、日常の平凡な生活で生費ているので、何等社会の向上発展に貢献するような仕事をし得ないことは、ラッセルも折りにふれていっているが、そういう人間に活を入れて、創造的性能を働かせるようにするには、それにイニシアテイヴを与える生活の組織をもち、方法をとればいいとラッセル自身のいうのが正しく、人を打ち敗かし、人を踏み越える衝動などを奨励するなというのも正論である。とすれば、個人個人は、他人が自分をどう思うかよりは、自分が自分の生命を正しく有力に活かすことを思うべきで、その結果好んで孤独の生活に入る覚悟も要ると彼はいっていたのである。「誉れ」どころか、「孤独」が個性を活かす人間への報酬なのである。それを恐れて「誉れ」を求めたら、その時から創造的衝動などはどうでもいい、世間に(付和)雷同して金持ちになり、政治家になろうとする人間になってしまうことは、ラッセルもいっているのである。
 と私は「驚異」から「反撃」に転じようとしたが、退いて考えると、――退いて考えるまでもなく、ラッセルのその「死亡記事」でいっている通り、彼は第1次大戦中の彼自身の心と行動とがいかにバランスを失っていたかを老年に至って、つくづく感じるのであった。彼は,ドイツの勝ちにしてもいいから戦争をやめろといったのも、青年のころからの数理哲学の研究のおかげで、ものを不当に数量的にのみ見ることに馴れて、原理の問題を無視するようになっていたからで、トリニテイ・カレッヂを追われたのも、獄舎生活も、やむを得ないことだといっているのである。(松下注:残念ながら、このあたりはラッセルの心意をまったくとらえそこなっている。)自分の一生は気儘気随で、何かしら時代の頑固さをもっていたが、それも19世紀の貴族的反逆の名残りだ、などともいっているのである。90歳にもなって、いいたいことの限りをいってしまった老翁としては、昔の我儘気随からこきおろしたものを、老眼で見直すようにもなるのであろう。そう思うと「誉れ」論も諒解できる。

 Unpopular Essays はただ瞥見しただけだが、そこでラッセルのいっていることは、昔に変らず峻烈で、昔に劣らずをよろこばせるような章句に充ちている。殊に次のような伝統的のギリシヤ的、ドイツ的の哲学についていっていることなどは、頗る私をうれしがらせた。「哲学者は先ず彼を喜ばせるような現世界の姿はどんなもので、彼を苦しめるような姿はどんなものかを決めて、やがて事実のうちから慎重に選択して、宇宙は、彼の好むものが増して、彼の好まないものが減じるような法則に従っているという風に考えることにして進歩の法則をつくり上げてから、公衆に向って、『世界は私のいう通りに発展しなければならない。それ故に、勝利者の側にあろうとするものたち、そうして打ち勝ち難い敵に向って無益の戦いを挑もうと思わないものたちは、我が党に馳せ参ぜよ』と呼ばわる。彼に反対するものは、非哲学的で、非科学的で、時代遅れであり、彼に組みするものは勝利を保証される。蓋し宇宙は彼らの側にあるからである。同時に勝利者の側は、頗るはっきりしない理由で有徳者の側を代表していることとなる。
 右のような観点を最初に充分に発展させた人間はへーゲルである。へーゲルの哲学は、誰が見ても精神に異常のないものにはとても採用されまいと思われるほど、変妙な割り切れないものだが、それを彼は採用した…。」
 そんなことで「誉れ」で少し憂鬱にされた私もすっかりいい気分になって、この一文を書く気になったのである。(終)