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長谷川如是閑、バートランド・ラッセルについて語る

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第1号(1965年5月)p.2-3.


 私とラッセルには、なんだか共通点があるように言われるが、うなづけないこともない。今から四十幾年か前に、はじめてラッセルを読んで、「おやおや私の言いたいことを、私より上手に言っているイギリス人がいる」と感心したが、私が明治時代に受けた英米式の合理的・経験主義的教養が、ラッセルのそれとは、たとえ千里の差があっても、同じ方向なので、私の舌たらずの口ぶりが彼に似ているように聞えたのだろう。
 まず、おもしろいのは彼の物の言い方だ。たとえば、戦争について「どんな国家も、国の内では人を殺すものを罰し、国の外に向っては人を殺さぬものを罰する」といったふうの言い回しが、子どものころ聞いた落語家の「まくら」のようで、まじめな論文で、イギリス式ユーモアを満喫できるからうれしいのだ。こういう言葉の味なひねり方を風刺というのなら、ラッセルのそれは、なでるような太刀の使い方で相手にお突きを食わすのだが、私のはせいぜいからめ手から、そっと近づいて脇の下をくすぐるくらいのところで、くらべものにならない。

ラッセル著書解題
 それはさて(おき?)、思想そのものに共鳴するのは、ラッセルが何々主義というようなイズムにとらわれないところだ。彼自身が、イギリスに(体系的な)「哲学」はない、イギリス哲学は「哲学」のない哲学だ、と言っている。いわば良識にもとづく意見といったふうのものなのだ。したがって、ラッセルの考え方は型や方式にとらわれない。ドイツの哲学がヘーゲルからシュペングラーに移っても、依然同工異曲の古い型にはまっており、その後でもかくべつの発展を示さないで、いささか鑑賞用の哲学化しかかっているのに対して、イギリス哲学の「良識」はすこぶる実践的・実際的である。ラッセルが若い頃から九十三才の今日まで常に率先して平和運動に尽力しているのは、このような英国独特の思想的性格のしからしめるところかも知れないが、同時に、彼が何しろ貴族の生れで、何不自由ないお坊ちゃん育ちで、向う意気が強く思ったとおりのことを言ったりしたりしてきたせいでもあるだろう。世間の眼には血の気の多い変り者に見えたに違いない。私も子供の頃母から「天のじゃく」といわれ、世の中に出てからも、変人だの、つむじ曲りだのといわれてきたが、しかし自分では、そういう連中の方が変態でつむじが曲っているのだと思って、あえて自分のつむじを矯正しようとはしないで、ただ言いたいことだけ言って、何の運動にも集団にも加わらずに全く孤独で通してきた。私みたいな遊食の徒、評論家なぞというのは、何より運動団体に入ったりして自由を失ってはいけないと思ってそうしたことだが、それはともかく、この点だけはラッセルのひそみにならわなかったことになる。

ラッセル協会会報_創刊号
 ラッセルの世界政府という思想は、日本人の肌に合うものだ。日本人はがんらい複合民族で、民族意識の少ないのが特徴だ。神道なぞいうのも、うっかりすると日本ナショナリズムのシンボルみたいに考えられがちだが、それは見当違いで、祖先自慢式の他愛もないものである。日本仏教も概して排他的なものではない。つまりナショナルなものより国際性のまさっているのが日本的性格で、そこに日本人の世界平和へ向っての進歩的意義や使命みたいなものもあるのだが、それに対して、この頃、日本人としての自覚が足りないとか、国民的誇りをもてとか、妙にナショナルな精神を強調する説が出てきたのは奇怪千万で、こうした愚論に教育者までが戸惑しているのだから情無い。子供の頭を非ナショナルなものに作りあげることが、これからの教育の課題だ。
 ラッセルに会ったことはない。会う機会は二度ほどあったのだが。その一つは一九二〇年に彼が北京大学に招かれて来て、帰りに日本に寄った時で、読売新聞の大庭柯公に頼まれて、ラッセルの社会思想を、その著書「社会改造の原理」を軸にして書いて連載したが、ついに会うことはなかった。その二は、数年前アメリカからイギリスに渡ってロンドン滞在中のことで、日本大使館からラッセルに会わないかとすすめられたが、名士は名刺と同様に私には興味がないといってことわった。こういうしだいで、親しみは十分感じながら、一生会わずじまいになるのではあるまいか。(終)

(江上記)三月八日、私は笠信太郎会長のおともをして、小田原市板橋の八旬荘主人・如是閑先生に久振りお目にかかった。一時間の予定がほぼ三時間にもなるまで、まさに談論風発、話題はラッセルのことをはじめ東西の哲学、宗教、教育などにわたって、おかげで聞き手の私は耳の保養をさせて頂いたが、その内容をテープレコードして会員各位に逐一披露できないのは私の気がきかなかったせいで申訳ない。本稿は、その中ラッセルに関する部分を摘記したもの。メモしながら、時々眼をあげると、ガラス戸の外の庭には、散り残った白梅が、暮れなずむ日のほのかな中に二輪三輪うかんでいた。