第8章_正直(誠実)であること - 正直(誠実)であるという習慣正直(誠実)であるという習慣を身につけることは,道徳教育(倫理教育)の主な目的の一つでなければならない。私が言っているのは,発言(in speech)の上で誠実(正直)であることだけではなく,ものを考えること(思考)においても正直(誠実)であることも含んでいる。事実,両者のうち,後者のほうが私には一段と重要であるように思われる。私は,最初無意識的に自分をあざむいているうちに,やがて自分は道徳的であり正直(誠実)であると思いこむような人よりも,自分が何をしているかを十分意識しながら嘘をつく人のほうを,むしろ好む。実際,正直(誠実)に考える人ならだれ一人として,真実を語らないのはいつも悪いことだ,などと信じはしない(例:相手を傷つけないように嘘をつくような場合/キツネ狩りからキツネを守るためにキツネが逃げた方向について嘘をつく場合)。嘘は常に(いかなる場合も)悪いと考えている人びとは,いろいろと詭弁を弄したり(こじつけたり),曖昧なことを言って人を惑わす練習をかなりつんだりして,この見解を補強しなければならず,そうすることによって,彼らは,自分が嘘をついていることを認めずに人を欺くのである(注:私は,'原発'を擁護し,武器の輸出を推進する安倍首相をイメージしてしまいました)。しかしそれにもかかわらず,嘘が正当化される場合はめったにない--高潔な人びとの行為から推測されるよりもはるかに少ない,と私は考えている。また,嘘が正当化される場合と言えば,ほとんどいつも,権力が圧政的に行使されている場合か,あるいは,たとえば戦争のような,有害な活動に人びとが従事している場合に限られる(注:ホントのことを言ったらつかまるか,「非国民」呼ばれされ村八分になるような場合)。それゆえ,よい社会制度のもとでは,嘘をついてもよい場合は,いまよりも一段と少なくなるだろう。【訳注:岩波文庫版の安藤訳では,「真実を語る習慣を養うことは,道徳教育の主な目的の一つでなければならない。私が言っているのは、言葉の上で真実を語ることだけではなく,思考も中でも真実を語るこでとある。」となっている。 ラッセルは「思考や思想においても」と言っているのであるから,ここは「真実を語る習慣」ではなく,「誠実(正直)であるという習慣」と考えたほうがよいと思われる。また,安藤氏は「ことばの上で真実を語ること」と訳しているが,in speech (発言の上で)と書かれており,文章(としての言葉)は含まれていないことにも注意を払うべきであろう。 安藤訳では第8章の見出しが「真実を語ること」になっているが,ラッセルは、発言上よりも思考の上で誠実のほうがむしろ重要と言っているのであるから、バートランド・ラッセル著作集第7巻の魚津訳の章見出し(「誠実」)の方がよいと思われるがいかがであろうか。】 |
Pt.2 Education of Character_Chap. 8 Truthfulness
|
(掲載日:2015.04.13/更新日: )