・ワーズワース詩集 ・The William Wordsworth Page
幼少期の喜びは,主として,子供自身が多少の努力と創意工夫によって,自分の環境から引き出すようなものでなければならない。興奮はさせるが,体はまったく動かさないような快楽,たとえば観劇などは,たまにしか与えるべきでない。この種の興奮は,麻薬に似ており,より多量に求められるようになるだろうし,興奮しているときに肉体を少しも動かさないというのは,本能に反する。子供が最もよく育つのは,若い苗木と同じく,邪魔されないで同じ土壌の中に置かれているときである。多すぎる旅行やあまりにも種々雑多な印象は,幼い子供たちにとってよくないし,成長するにつれて,実りある単調さに耐えることができなくしてしまう。(右写真:ラッセルが経営したビーコン・ヒル・スクールにて/出典:R. Clark's Bertrand Russell and His World, c1981) 私は,単調さそのものに独自のメリットがあると主張しているわけではない。私はただ,ある種の良いものは,ある程度の単調さのあるところでなければ可能ではない,と言っているにすぎない。たとえば,ワーズワース(William Wordsworth,1770~1850/右肖像画)の『序曲』をとりあげてみよう。ワーズワースの思想と感情において少しでも価値あるものは何であれ,洗練された都会の若者にとって(ワーズワースと同じ思想と感情を抱くことは)不可能であっただろうということは,すべての読者に明らかだろう。何らかの真面目かつ建設的な目的を持っている青少年は,目的の達成の途上で必要だとわかれば,自主的に多くの退屈に耐えるだろう。/a>だが,建設的な目的は,娯楽と浪費の生活を送っている少年の精神の中では,容易には芽ばえない。なぜなら,そのような場合は,考えがつねに次の快楽に向いており,遠くにある目的達成には向かわないからだ/a>。以上のような理由で,退屈に耐えられない世代は,小人物の世代,即ち,自然のゆったりした過程から不当に切り離され,生き生きとした衝動が,花びんに生けられた切り花のように徐々にしなびていく世代となるだろう。/a> |
I do not mean that monotony has any merits of its own; I mean only that certain good things are not possible except where there is a certain degree of monotony. Take, say, Wordsworth's Prelude. It will be obvious to every reader that whatever had any value in Wordsworth's thoughts and feelings would have been impossible to a sophisticated urban youth. A boy or young man who has some serious constructive purpose will endure voluntarily a great deal of boredom if he finds that it is necessary by the way. But constructive purposes do not easily form themselves in a boy's mind if he is living a life of distractions and dissipations, for in that case his thoughts will always be directed towards the next pleasure rather than towards the distant achievement. For all these reasons a generation that cannot endure boredom will be a generation of little men, of men unduly divorced from the slow processes of nature, of men in whom every vital impulse slowly withers, as though they were cut flowers in a vase. |