第6章 「数学における論理的手法」 n.4 - ペアノから学んだこと
私がペアノから学んだ第二の重要な進歩は、一つの要素(member 成員)から成る集合(class)はその一つの要素(成員)と同一のものではない、ということであった。たとえば、「地球の衛星」は一つの集合であり、ただ一つの要素(成員)、即ち月を持つのみである(注:因みに木星は4つの衛星を持っているので、集合と一つの要素である一つの衛星とは等価でないことがわかりやすい)。しかし一つの集合をそれの唯一の要素と同一視することは、集合の論理学に、従って、数の論理学に --というのは数が適用されるのは集合だからである-- 全く解決不可能な問題を導き入れる。「地球の衛星」と「月」とを同一視することが不適切であることは、一度指摘されれば容易に理解される。「地球の衛星」という句は、たとえ第二の衛星が発見されても(if = even if)、その意味を変ずることはないであろう。それはまた、天文学を理解するが地球が衛星を持つことを知らない(知らなかった)ような人にとっても、無意味ではないであろう(注:destitute of meaning 意味を欠くようなことはないであろう)。これに反して、月についての陳述は、-「月」(The Moon)という語を固有名(a name)ととってよいのなら、月を承知している者以外の人々にとっては、無意味である(注:「衛星」と言えばわかるが、◯×△(例:ヘベレケポンポン)と知らない言葉を言われても何を言っているかわからない)。そういう人々にとっては、「月(The Moon)」という語は、それが「地球の唯一の衛星」という句と同等である(相当する)という説明が与えられなければ、無意味な雑音であろう。そうして(しかも),たとえ「月」という語の代りに「地球の唯一の衛星」という句が代用されるとしても(置き換えられたとしても)、月についての陳述は、「今夜は月が明るい」と我々が言う時に、その月についての陳述が私やあなたに対して持つような意味を、持たないであろう(注:if = even if/つまり、月」という固有名と、「地球の唯一の衛星」という記述=説明とは同じではない、とラッセルは言っている。/因みに、みすず書房版の訳では、野田氏は、「if = even if」としてとらずに、「もし~ならば~だろう」と訳されているのでピンとこない訳となっている)。「月」の代りに月についての「記述」を代用する(置き換える人)は、概念と繋がっている領域にいるのであって、「月が明るい」という人のように、感覚の世界との直接な接触をしていない(注:前者は記述によって得ている知識であり、後者は直接知に該当する/ラッセルの哲学において重要な、記述知と直接知の区別の重要性/他の例で言うと、記述的に「現在の日本の総理」という場合と、安倍総理を目の前にして「安倍晋三」という場合の違いに相当)。この点において、我々が今関心を持っている(関わっている)区別は、「ソクラテスは死ぬものである」と「全てのギリシャ人は死ぬものである」という,先に述べた区別と、一定の類似性を持っている。本書の読者は、上記の(このような)区別は学者のもったいぶった言い方(衒学)にすぎないと考えたくなるかも知れない(may be disposed to think)。私は今やこの区別はそういった学者の衒学的な言い回しではない理由を説明することに努めなければならない。
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Chapter 6: Logical Technique in Mathematics, n.4
The second important advance that I learnt from Peano was that a class consisting of one member is not identical with that one member. ‘Satellite of the Earth', for instance, is a class and it has only one member, namely, the Moon. But to identify a class with its only member is to introduce utterly insoluble problems into the logic of collections and, therefore, of numbers, since it is to collections that numbers apply. The impropriety of identifying ‘Satellite of the Earth' with the Moon is easily seen when it has once been pointed out. The phrase,‘Satellite of the Earth', would not alter its meaning if a second satellite were discovered; nor would it be destitute of meaning for a person who understood astronomy but did not know that the Earth had a satellite. Statements about the Moon, on the other hand, if we may take ‘The Moon' as a name, are meaningless except to those who are aware of the Moon. To others, ‘The Moon' would be a meaningless noise unless it were explained to be equivalent to the phrase 'The only satellite of the Earth'; and if this explanation were substituted, statements about the Moon would not have the meaning that they have for you and me when we say, ‘The Moon is bright tonight'. The man who substitutes a description is in the region of a connection of concepts, not in direct contact with the world of sense as is the man who says, ‘The Moon is bright'. In this respect, the distinction with which we are now concerned has a certain analogy with our previous distinction between 'Socrates is mortal' and 'All Greeks are mortal'. The reader may be disposed to think that the above distinctions are mere scholastic pedantry. I must now try to explain why this is not the case.
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