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『ラッセル自伝』21-070(松下彰良・訳)

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* 主教について


(第一章 第一次世界大戦)

(1914年)10月に秋学期が始まるとともに,私は数理論理学の講義を再開しなければならなかった。しかし,(そのような状況下においては)それはいくらかつまらない仕事だと感じた。それで私は,教師たち(注:ケンブリッジ大学及びオックスフォード大学のコレッジに住む,学監・個人指導教員=tutor,特別研究員=fellow などの教員のことを Don と呼称)の中に,民主的統制連合(Union of Democratic Control)の支部を組織することに取り組んだ。当初は,トリニティ・コレッジの相当数の教師(ドン)たちは,民主的統制連合に共感していた。私の話をとても聴きたがっていた学生たちの集会で演説もした。演説の中で私は,「'ドイツ国民は邪悪だ'と主張することは,全くナンセンスである」と言ったことを,記憶している。驚いたことに,会場全体から拍手喝采が起こった。しかし,ルシタニア号の沈没とともに,ドイツに対するより厳しい感情が広がりはじめた(注:ルシタニア号は,1915年5月7日に,ドイツのUボートによって撃沈された,とされている。右下のアマゾンで売っているDVDを参照。)。この惨事に対し,私にいくらか責任があると考えられたようであった。この頃までに,民主的統制連合に所属していた教師たちの中の多くが'将校任命の辞令'をもらっていた。バーンズErnest Barnes,1874-1953:後のバーミンガム主教/右上写真参照)は,(ロンドンの)テンプル教会の牧師となるため,ケンブリッジ大学を離れた(参考:日高氏は,「テンプル法学院の院長」と誤訳されている。→ 参考:List of recent Masters of the Temple。年輩の教師たちは,しだいにヒステリックになっていき,そうして,ハイ・テーブル(注:食堂ホールの奥の方に設けられた壇上の食卓のことを言い,コレッジの学寮長・教員・特別研究員・住み込みの事務長たちしか利用できない)で,同僚たちから私は敬遠されていることがわかってきた。
 第一次大戦の期間中,クリスマスを迎えるごとに,私は,発作的な暗い絶望感に襲われた。それは,ただ無為に椅子に坐っているだけで,何もすることができず,人類が何かの役に立つものかどうか疑うほどの,(一抹の光もないような)完璧な絶望(感)であった。1914年のクリスマスの時期に,オットリンの助言で,この絶望感を堪え難いものにしない方法を見つけた。(すなわち)私は,慈善委負会を代表して,ひどく貧しいドイツ人を訪問し,その境遇を調査し,必要があれば彼らを窮地から救済する,という仕事にとりかかった。(松下注:この時の経験も,「幸福論」の執筆に活かされることになる。絶望に陥った時はくよくよ考えても救われない,何か有益だと思われるような「行動」をしてみることが一番であると。)この仕事をしているうちに,激しい戦争の最中に,注目すべき思いやり(親切)のいろいろな実例に遭遇した。稀なことではないが,貧しい人たちの住んでいる近隣で,女家主たちは --自分たち自身もけっして裕福ではないが-- まったく家賃をとらずに,彼らを住まわせてあげていた。なぜなら,彼女たちは,(英国と戦争状態にある)ドイツ人が職を見つけることは不可能である,ということがわかっていたからである。この問題は--ドイツ人がことごとく抑留されてしまったので,その後まもなく消えてしまった。しかし,第一次大戦の最初の数ケ月間は,ドイツ人の境遇は非常に惨めなものであった。
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With the beginning of the October Term, I had to start again lecturing on mathematical logic, but I felt it a somewhat futile occupation. So I took to organising a branch of the Union of Democratic Control among the dons, of whom at Trinity quite a number were at first sympathetic. I also addressed meetings of undergraduates who were quite willing to listen to me. I remember in the course of a speech, saying: 'It is all nonsense to pretend the Germans are wicked', and to my surprise the whole room applauded. But with the sinking of the Lusitania, a fiercer spirit began to prevail. It seemed to be supposed that I was in some way responsible for this disaster. Of the dons who had belonged to the Union of Democratic Control, many had by this time got commissions. Barnes (afterwards Bishop of Birmingham) left to become Master of the Temple. The older dons got more and more hysterical, and I began to find myself avoided at the high table.
Every Christmas throughout the War I had a fit of black despair, such complete despair that I could do nothing except sit idle in my chair and wonder whether the human race served any purpose. At Christmas time in 1914, by Ottoline's advice, I found a way of making despair not unendurable. I took to visiting destitute Germans on behalf of a charitable committee to investigate their circumstances and to relieve their distress if they deserved it. In the course of this work, I came upon remarkable instances of kindness in the middle of the fury of war. Not infrequently in the poor neighbourhoods landladies, themselves poor, had allowed Germans to stay on without paying any rent, because they knew it was impossible for Germans to find work. This problem ceased to exist soon afterwards, as the Germans were all interned, but during the first months of the War their condition was pitiable.

(掲載日:2006.04.02/更新日:2011.6.22)