1897年については,この年に(私の)『幾何学基礎論』(An Essay on The Foundations of Geometry, 1987)が出版されたことを除いて,ほとんど記億にない。この本を賞賛する手紙をルイ・クーチュラ(Louis Couturat, 1868-1914: フランスの数学者・哲学者で,ライプニッツの研究で有名。1905年からはコレジェ・ド・フランスの教授。自動車事故で死亡)から受け取り,非常に嬉しかったことも記憶している。私は,彼の『数学的無限』(The Mathematical Infinite)を書評していたが,手紙を受け取った当時は,まだ会ったことがなかった。私は,知らない外国人から賞賛の手紙をもらうことを夢みていたが,これはその夢が実現した最初であった。彼は英語がまったくわからなかったために,いかにして私の著書を'辞書と首っぴきで'(辞書を頼りに)苦労して読み通したか,私に語った。その少し後で,私は彼に会うためにカン(注:Caen フランス・ノルマンジーの旧都/右上の地図参照)に行った。当時彼はカンにある大学の教授をしていたからである。彼は,私(ラッセルは当時25歳)があまりに若いので驚いていたが(注:そういうクーチュラも29歳という若さ),それにもかかわらず二人の交友は始まり,それは,1914年の(第一次世界大戦勃発による)動員期間に,トラック事故で彼が死亡するまで続いた。彼の晩年には--彼は'国際語の問題'に没頭するようになったため--彼との接触は無くなった。彼はエスペラントよりもイド語(エスペラント語を一層簡易化したもの)を擁護した。彼の話によれば,人類の全歴史を通して,エスペランティストほど堕落した人間はなかった。彼は,イド語が,エスペランティスト同様の言葉の形成に向かわなかったこと(注:即ち,エスペラント語を使う人を'エスペランティスト'というように,ido 語を使う人を呼称する言葉が造語されなかったこと)を嘆き悲しんだ(注:日高氏はこの一文を誤訳されているので,ラッセルの次の一文とのつながりが理解できなくなっている)。私は,'idiot(ばか,まぬけ)' という言葉を提案したが,彼は余り喜ばなかった(注:もちろん冗談)。 私は,1900年7月に,彼とパリで昼食を共にしたことを記憶しているが,その日は,酷く暑かった。ホワイトヘッド夫人は心臓が弱かったが,彼女は(暑さで)気を失い,彼が(気付け薬の)'炭酸アンモニウム'(sal volatile)を買いに行っている間に,誰かが窓を開けた。彼が戻って来て,「空気はいいが,風(←空気の流れ)はよくない(De l'air, oui, mais pas de courant d'air)」と言いながら,再び窓をしっかりと閉めた。 私はまた,彼が,1905年に,パリのホテルに泊まっていた私に会いに来てくれたことを記憶している。その時,(クロムプトン・デービス及びセオドール・デービスの父親)デービス氏とその娘のマーガレットが,彼の話に耳をかたむけていた。彼は,かたときもやすまずに30分もの間,しゃべり続けこう言った--「賢い人とは,黙っている人のことである。」--。その瞬間,デーヴィス氏は,80歳の老齢にもかかわらず突如として部屋から飛び出した。そうして彼が姿を消すと同時に,彼の笑い声が私に聞こえてきた(右下欄イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953.)。
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Of the year 1897 I remember very little except that my Foundations of Geometry was published in that year. I remember also very great pleasure in receiving a letter of praise of this book from Louis Couturat, whom at that time I had never met, though I had reviewed his book The Mathematical Infinite. I had dreamed of receiving letters of praise from unknown foreigners, but this was the first time it had happened to me. He related how he had worked his way through my book 'arme d'un dictiounaire', for he knew no English. At a slightly later date I went to Caen to visit him, as he was at that time a professor there. He was surprised to find me so young, but in spite of that a friendship began which lasted until he was killed by a lorry during the mobilisation of 1914. In the last years I had lost contact with him, because he became absorbed in the question of an international language. He advocated Ido rather than Esperanto. According to his conversation, no human beings in the whole previous history of the human race had ever been quite so depraved as the Esperantists. He lamented that the word Ido did not lend itself to the formation of a word similar to Espeantist. I suggested 'idiot', but he was not quite pleased.
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