(本館)  (トップ) (分館)
バートランド・ラッセルのポータルサイト用の日本語看板画像

バートランド・ラッセル 自伝 第1巻第5章 - 旅行の価値(松下彰良 訳)- The Autobiography of Bertrand Russell, v.1

前ページ 次ページ 第1巻 第5章(初婚)累積版 総目次


ラッセル関係電子書籍一覧
 フィラデルフィア・クェーカー(教徒)の旧家の人々から私が受けた印象は,彼らは小規模な貴族社会のあらゆる疲弊状態を有しているということであった。90歳の年老いた守銭奴が蓄財したお金についてあれこれ考え込んでいる一方,60歳あるいは70歳のその子供たちが,可能な限り辛抱強く,その親の死を待っている。様々の形態の精神異常が,ありふれて出現していた。正常と考えられなければならない人たちが,大変愚かでありがちであった。アリスには,フィラデルフィアにアリスの父の姉で未婚の叔母がいたが,その叔母は,たいへん裕福であり,非常に不合理な考え方をする人間であった。彼女は,とても私を好きであったが,'救い'をもたらすのは,文字通りにイエス・キリストの血(注:イエスが人間の罪を背負って,磔の刑にあったこと)ではないと私が考えているのではないかと,密かに疑っていた。私は,そのような考えを助長するようなことは何も言ったおぼえはないので,彼女がどうしてそのように考えるようになったのかわからない(注:ラッセルが人間の原罪を信じているということではなく,ただそれについて何も言っていないということ)。私とアリスは,感謝祭(注:米国の祝日=11月の第4木曜日)に彼女と食事を一緒にした。彼女は非常に大食の老女であり,ガルガンチョアのような巨大な胃を必要とするほどたくさんの'ご馳走'を用意した。ちょうど私たちが,最初の一口をまさに食べようとした時,彼女は言った。 「食べる前に,少しの間,貧しい人々のことを考えましょう」 明らかに彼女は,このように食べる前に貧しい人のことを考えることは,食欲を促す前菜になると思っていた(ようである)。彼女には,すぐ近所に住んでいる2人の甥がいたが,彼らは毎晩,彼女に会いに来た。彼らは,もしヨーロッパにいる甥や姪たちが,彼女の死によって自分たちと同等の分け前をもらうようなことがあれば,それは不当だと思っていた。けれども,彼女は,彼らを好んで自慢にし,彼女が相続人を選ぶ時に(相続人にしないぞと)苛めることのできる人たちよりも(?),彼ら(二人の甥)を重視していた。だから彼らは,特別頻繁に顔を見せなくても,何も失うものはなかった。
 当時のアメリカは,詮索好きで(好奇心が強く),罪のない国であった。多くの人々が,オスカー・ワイルド(Oscar Wilde, 1854-1900/右写真)がやったのはどういうことであるかを説明してほしいと私に尋ねた。ボストンでは私たちは,2人のクェーカー教徒の老婦人によって経営されている賄い付きの家に滞在していたが,(その時)そのうちの一人が,朝食時に,食卓をはさんで大声で私にこう言った。 「オスカー・ワイルドは,最近は余り人前に現れていないですが,彼はいったい何をしているんですか!」 私は答えた-「彼はいま刑務所の中です」(注:翌年の1897年に釈放された) 幸いにも私は,この時,彼が何をしたか聞かれずにすんだ。私は,当時のアメリカを,島国英国人としての思いあがった(自惚れた)優越感をもって眺めていたが,それにもかかわらず,アメリカの大学人,特に数学者たちとの接触によって,ほとんどの学問的な問題について,英国よりもドイツの方が優れているということを実感するようになった。旅行をしているうちに私は,不本意ながらも,知る価値のある一切のものはケンブリッジ大学で知ることができるという信念は,徐々に崩れていった。この点に関しては,旅行というものは非常に有益であった。
My impression of the old families of Philadelphia Quakers was that they had all the effeteness of a small aristocracy. Old misers of ninety would sit brooding over their hoard while their children of sixty or seventy waited for their death with what patience they could command. Various forms of mental disorder appeared common. Those who must be accounted sane were apt to be very stupid. Alys had a maiden aunt in Philadelphia, a sister of her father, who was very rich and very absurd. She liked me well enough, but had a dark suspicion that I thought it was not literally the blood of Jesus that brought salvation. I do not know how she got this notion, as I never said anything to encourage it. We dined with her on Thanksgiving Day. She was a very greedy old lady, and had supplied a feast which required a gargantuan stomach. Just as we were about to eat the first mouthful, she said: 'Let us pause and think of the poor.' Apparently she found this thought an appetiser (appetizer). She had two nephews who lived in her neighborhood and came to see her every evening. They felt it would be unfair if the nephew and nieces in Europe got an equal share at her death. She, however, liked to boast about them, and respected them more than those whom she could bully as she chose. Consequently they lost nothing by their absence.
America in those days was a curiously innocent country, Numbers of men asked me to explain what it was that Oscar Wilde had done. In Boston we stayed in a boarding-house kept by two old Quaker ladies, and one of them at breakfast said to me in a loud voice across the table: 'Oscar Wilde has not been much before the public lately. What has he been doing ?' 'He is in prison', I replied. Fortunately on this occasion I was not asked what he had done. I viewed America in those days with the conceited superiority of the insular Briton, Nevertheless, contact with academic Americans, especially mathematicians, led me to realise the superiority of Germany to England in almost all academic matters. Against my will, in the course of my travels, the belief that everything worth knowing was known at Cambridge gradually wore off. In this respect my travels were very useful to me.
(掲載日:2005.10.14 更新日:2011.4.10)