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<落穂拾い-中級篇(2015年)>

2011-2012年 2013年 2014年 2016年

索引(-出版年順 著者名順 書名の五十音順


<R落穂拾い(中級篇)>は,ラッセルに言及しているもので「初心者向けでないもの」や「初心者向けではないかもしれないもの」を採録。初心者向けはR落穂拾いをご覧ください。



・マット・リドレー(著),中村桂子・斉藤隆央(共訳)『やわらかな遺伝子』(紀伊國屋書店,2004年5月刊/早川ノンフィクション文庫=2014年刊)(2015.5.27)

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マット・リドレー:(Matt Ridley, 1958〜 ):サイエンス・ライター。

* 中村桂子(なかむら・けいこ, 1936〜 ):早稲田大学教授を経て,JT生命誌研究館館長。
* 池田清彦(早稲田大学教授)推薦の言葉:「重要なのは遺伝子そのものより遺伝子を働かせるシステムである。「氏か育ちか」論争の無効性を,広く知らしめた名著。ゲノム解析が進むにつれ,明らかになってきた遺伝子のはたらき。それは身体や脳を作る命令を出すが,環境に反応してスイッチをオン/オフし,すぐに作ったものを改造しはじめる柔軟な装置だった。遺伝子は何かを制約するものではなく,可能にするものだったのだ。私たちを形成するのは「生まれか育ちか」――長年の論争に,最新及び過去の膨大な研究データを用いてまったく新しい考え方を示した世界的ベストセラー


(pp.198-230: 第6章 形成期)

(p.199) 1909年,オーストリア東部のアルテンベルクにほど近いドナウ川沿いの湿地帯で,コンラートコンラート・ローレンツ Konrad Z. Lorenz, 1903-1989:オーストリアの動物行動学者。1973年にノーベル医学生理学賞受賞)という六歳の少年とその友だちグレーテルが,隣人から生まれたてのアヒルのひなを二羽もらった。ふたりの子どもを頭に刷り込んでしまったひなは,子どもたちを親と間違えてどこにでも付いて回るようになった。「私たちが気づいていなかったのは」と64年後にコンラートは言っている。「その過程で私がアヒルたちに刷り込まれてしまったことでした。・・・一生にわたる努力の方向性が,幼いころの決定的な経験によって固定されてしまうのです」 1935年,グレーテルと結婚していたコンラート・ローレンツは,生まれたてのガンのひなが,最初に出会った動くものに執着し,あとに付いて行くことを,もう少し科学的に記述した。その動くものは,ふつうは母親だが,ときにはヤギひげの教授になることもあるのだ。ローレンツは,この刷り込みが起きる期間が限られている事実に気づいた。ガンのひなは,生後15時間より前か生後3日よりあとには,刷り込みを受けなかったのである。だがいったん刷り込まれると,それは固定され,別の育ての親に付いて行くようにはならなかった。
 刷り込みを記述したのは,実はローレンツが最初ではない。彼より60年以上も前に,イギリスの博物学者ダグラス・アレグザンダー・スポールディングは,初期の経験が幼い動物の心に「刻印される」と述べている。ほぼ同じメタファーである。スポールディングについてはほとんど知られていないが,わずかに知られている事実がじつに珍奇だ。彼は,フランスのアヴィニョンで知り合ったジョン・スチュアート・ミルの紹介で,バートランド・ラッセルの兄の家庭教師になった。ラッセルの両親,アンバリー子爵夫妻は,肺病持ちのスポールディングが子どもをつくるのはまずいだろうと考えた。だが一方で,男としての自然な性欲を抑えるべきではないとも思い,そのジレンマを露骨な手段で解決することにした。アンバリー子爵夫人がみずから相手になったのだ。義務感に駆られてそうしていた夫人は1874年に亡くなり,1876年には夫も亡くなったが,子爵は生前,スポールディングをバートランド・ラッセルの後見人のひとりに指名していた。しかし,亡き夫人とスポールディングの関係が明らかになり,仰天した高齢の祖父ラッセル伯爵(注:2度英国首相を務める。)が,すぐに幼いバートランドの後見人の地位を引き継いだ。伯爵も1878年に他界したが,スポールディングも1877年に結核で世を去っていた。スポールディングに関する記述)
 このいわばギリシャ悲劇の無名の主人公は,数少ない著作のなかで,行動主義を含め,二〇世紀の心理学が扱った多くの重要なテーマを先取りしていた。彼は,生まれたてのひよこが「何であれ動くものに付いて行く」と述べ,さらにこう続けている。「ただし,視覚だけでは,カモや人間はおろか,雌鶏にも付いて行けない。・・・付いて行くという本能があるのだ。そして(聴覚)が,経験以前に,彼らをしかるべき対象に結びつける」。スポールディングは,生後4日目まで目隠しをしておいたひよこは目隠しを外したとたんに逃げ出したが,1日早く目隠しをとると彼のほうへ駆けできた,とも書いている。
 だがスポールディングは注目されずに終わり,刷り込み(ドイツ語では「プレーグン」)を科学の世界で有名にしたのはローレンツだった。・・・。

佐藤忠男「少年の理想主義について−大正期『少年倶楽部』の分析から」【鶴見俊輔(編集・解説)『大衆の時代』(平凡社,1969年3月刊/現代人の思想シリーズ第7巻pp.271-297)】(2015.5.26)

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佐藤忠男:(さとう・ただお, 1930〜 ):映画評論家。現在,日本映画大学学長(2011年〜)。レジオンドヌール勲章シュヴァリエほか多数の賞を受賞。
* 『少年倶楽部』:大日本雄弁会講談社のよって大正3年10月に創刊(戦後『少年クラブ』と誌名変更されたが昭和38年廃刊)された少年雑誌。
(pp.287-292:善意のおとなと少年のビジョン)

(p.291) 山中峯太郎氏(やまなか・みねたろう,1885-1966:軍人,小説家, 翻訳家)が,今日もなお,日米開戦の責任はむしろアメリカ側に多くあり,支那事変が大きくなったのは中国共産党の策謀であるという意見を変えておられないのは,私には残念であった。氏の作品が,当時の少年たち(つまり私たち)に,日本はアジアの盟主であり,いずれはその誇りと責任においてソヴュトやアメリカと一戦を交わさねばならぬ必然性を背負っているのだという牢固たる観念を植えつけたことは事実である。氏自身は今日(=本論文は1968年発表),「まさか日本軍が中国であんな残虐行為をするとは,想像もしていなかった。」と語っておられるが,正義仁侠の方向が間違っていたことには,山中氏自身も反省していただきたいと思う。 しかし,あの時代の,あの歴史の流れの中においてはそういう間違いをはらんでいたにしても,山中氏の児童文学についての考え方は,バートランド・ラッセルの次のような考え方に,かなりの部分を重ね合わせてみることができるのではなかろうか。
「教育は,本能を抑圧することではなく,むしろ本能を開発してやることである。・・・(中略)・・・。ものを教えるということの秘訣は,それが性格に関係を持っている限りでは,その本能の使い方が有益になるような種類の熟練を人間に与えることに他ならない。子供の頃,自分を'青ヒゲ男'と同一化することによって粗野な仕方で満足させられる力への本能は,後年に至れば,科学的発見とか芸術的創作とか,すばらしい子供を創り上げ教育するとか,その他さまざまな有益な活動のうちに,洗練された満足を見出すことが出来るようになるだろう。もしある人の知っている唯一のことがどんなに闘争するかということだとすれば,その人の 力への意志は,彼をして戦闘のなかに喜びを見出せることになるだろう。しかし,もし彼がこれとは違った種類の技能を持っているとすれば,彼はこれとは違った仕方で満足を見出すことになるだろう。ところが,力への彼の意志が既に幼少時代,若芽のうちにつみ取られていたとすれは,彼は大して善いこともせず,大して悪いこともせず,不活発な怠け者になるだろう。つまり,彼は a Dio spaciente ed a' nemici sui(神によって遣わされたものであり,しかも神の敵)であるだろう。こうした種類の腰抜け的な善良さは,この世が要求するところのものでもないし,或いはまた,私たちが子供のうちに創り出そうと努めるべきものでもない。子供たちがまだ幼少で大して悪いこともできないうちに,空想のなかで,遠い野蛮な祖先たちの生活をもう一度やり直して見るとしても,それは生物的には自然なことである。だから,諸君がもっと高級な満足を必要とする知識や技能を彼らの歩む道に置いてやりさえすれば,彼らがそうした水準に暫らく止まるとしても,別段心配するには当らない。」〔ラッセル『教育論』堀秀彦訳=角川文庫本〕
 我々は,洗練された老人趣味のデテイルをもつ,善意の児童文学が,子どもたちに喜ばれないことを嘆く前に,日本にはかつて,一篇の『ハックルベリイ・フィンの冒険』も『十五少年漂流記』も『クオレ』も『飛ぶ教室』も創作されなかったことをこそ究明すべきだろう。

宮澤俊義『憲法講話』(国書刊行会,2000年10月刊/岩波新書-青627)(2015.5.25)
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宮澤俊義:(みやざわ・としよし, 1899-1976):東大法学部名誉教授(故人),憲法専攻。

(pp.41-60:第3章 学問の自由と大学の自治 )

(p.59) 学問の自由を憲法で定めることは,主として,ドイツの伝統である。それは,政治権力の干渉に対する大学の抵抗からうまれた。日本国憲法の学問の自由も,さきにのべられたような過去の政治権力の大学に対する干渉への反省にもとづいて,理解されなくてほならない。
 このごろ,大学の自治に関する論議の中に,国立大学は国民の税金でまかなわれているから,国民に対して責任を負うぺきだ,という意見が聞かれる。それは,その通りだろう。しかし,びとくちに「責任」といっても,その内容は,そこでの公務の性質によって,いろいろとちがうことを注意すべきである。裁判所が税金でまかなわれるから,国民に対して責任を負うべきだ,といって,むやみに裁判にくちばしを入れ,さらには,人民裁判を正しい裁判のあり方だと考える意見もあるが,そういう「責任」のあり方が,決して,民主的なものでないことは,憲法の定める裁判官の職務の性質からいって,おそらくだれの目にも明瞭だろう。
 一九四〇年のはじめのことであるが,当時カリフォルニア大学にいたバートランド・ラッセルが,ニューヨーク市立大学の哲学の教授に任命された。すると,アングリカン教会のマニングという主教が,ラッセルは反宗教的だという理由で,これに抗議した。ブルックリンのある歯医者の妻が,納税者訴訟を起こし,ラッセルは無神論者で反道徳的だという理由で,その任命の取消しを求めた。裁判官マギーアンは,カトリック教徒だったが,その年の三月三〇日の判決で,ラッセルの著書にあらわれた反道徳的学説を理由として,その任命を取り消した。そして,(ニューヨーク市の)ラガーディア市長は,政治的な考慮から,この判決に対して上訴しないことにした。その年の秋,ラッセルは,ハーヴァード大学でウィリアム・ジェイムズ講座を担当することを頼まれていた。右の判決を機に,同じような圧力が加えられたが,総長はじめ,ホワイトヘッド,デューイ,アインシュタインなどの諸学者も,こぞってラッセルを支持した。(松下注:より詳しくは次の記述を参照:上野「バートランド・ラッセル事件」)
 この納税者訴訟(taxpayers' suit)は,納税者が公的機関の責任を問うひとつの方式であるが,こういう責任の問い方が,大学と大学教授の責任の問い方として,望ましいものでないことは,徳富蘇峰のような,学問の自由を好まぬ人たちを別とすれば,だれしも承認するところだろうと思われる。大学の責任は,どこまでも大学の自治と自律にもとづくものでなくてはならない。そうでないとすれば,憲法の保障する学問の自由は,まったく死んでしまうだろう。
 現在までの大学の自治の実状には,いろいろな欠陥もあろう。その点を,各大学は,謙虚に反省し,合理的な対策を検討すべきである。しかし,大学の学長や教授の選任に干渉する権力 −拒否権− を文部大臣に与えることが,そうした欠陥を直すのに少しでも役にたつとは,とうてい考えられない。反対に,そういう権力が,実際において,学問の自由に対するどのよぅな脅威になり得るか,を慎重に考えなくてはならない。過去のあのように多くの貴重な教訓は,まだまだ時効にかかっていないはずである

中田幸子『前田河廣一郎における「アメリカ」』(国書刊行会,2000年10月刊)(2015.5.17)
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前田河廣一郎:(まえだこう・ひろいちろう, 1888-1957):プロレタリア文学の指導者の一人。徳富蘆花の支援を得て渡米し,ラッセルが訪日する1年前の1920年に帰国。
(pp.85-112: 第5章 作家前田広廣一郎の登場_大正9〜11年)

(p.89) 彼女(松下注:前田河の妻咲子)については前田河自身多く書き残しているが,平林たい子が描く咲子の様子は,まさにこの男にしてこの女,「夫人も夫君にふさわしく変った人だった。」気質がまっすぐでいささか公式的,家事には疎い方で,自分の身なりにも無頓着であったらしい。夫婦は仲がよかったが,反面二人の個性のぶつかり合いは猛烈であった。平林が近所に住んでいた頃,前田河が女の影の射すところから一晩帰宅しなかったりすると,咲子は平林に「あなたは一人の同志としてブルジョア的行為をしている前田河に忠告する義務がありますよ」と,平林の義務と連帯の観念を喚起した。めそめそした愚痴っぽいのとは大違いの,勇ましく高飛車で割り切れた言い方だった,という。

 前田河(右上:肖像写真)は出社もせず,バートランド・ラッセル著『ポリシェビーキの理論と実際』を馬車屋の二階で翻訳した。やがて大正10年7月に出版されるこの本の訳者序は,「ラッセルは隣人イワン(松下注:革命直後のロシアのこと)の生き跳ってゐる姿を捕へ,事々乎として,イワンの着てゐる赤いシャツ(松下注:ロシア共産主義)の綻びを説明してゐる。イワンは綻びを縫ふべく赤シャツを脱がねばならぬだらうか」と述べている。翻訳書ではあるが,これは帰国(松下注:米国から)した前田河の存在を世に知らせる役割を果たすことになる。彼の古巣,ニューヨークの『日米時報』(十月二十二日)も,彼の消息としてこの訳書のことなどを伝えている。出版のほうが時期を合わせたのか,この年(注:1921年)七月にラッセルは来日した。