しかし、もしAがBに「ロボットは罪を犯さないので、人間の代わりにロボットを使うべきだ」と言ったとしたら、ほとんどの人は、「ロボットの世界は、知覚能力が欠けており、善でも悪でもなく、ロボットの模倣行為をすることができない普通の(単なる)物質世界よりも何ら優れていない」と答えるだろう。このようなことを考えれば、『べき(ought)』が何を意味するにしても、知覚能力や欲望と関係があることは明らかとなる。これらが欠けていれば、善も悪もなく、美徳も罪もない。従って、『べき』の定義が恣意的で逆説的であってはならないとすれば、それ(『べき』という言葉)は知覚能力や欲望と何らかの関係を持たなければならない。
But, if A said to B, “You ought to substitute robots for human beings, because robots do not sin”, almost everybody would reply that the robot world, since it would be destitute of sentience, would be neither good nor bad, and would be in no way better than a world of ordinary matter unable to perform the robots’ imitative tricks. Such considerations make it plain that whatever “ought” may mean, it has something to do with sentience and with desire. Were these are absent, there is neither good nor bad, neither virtue nor sin. It follows that, if our definition of “ought” is not to be arbitrary and paradoxical, it must bear some relation to sentience and desire.
Source: Bertrand Russell: Human Society in Ethics and Politics, (1954), chapter 10:Is there ethical knowledge ?
More info.: https://russell-j.com/cool/47T-1006.htm
<寸言>
試しに ChatGPT に訳させたところ、「since it would be destitute of sentience」を「ロボットの世界は感覚がないので・・・」と訳しました(誤訳しました)。 ChatGPT に「ロボットに感覚をもたせることはできます。"sentience"を"感覚"と訳すのは誤訳であり、"知覚能力(感覚を進んで認識する気持ちあるいは能力"と訳すべきではないか」、と指摘したところ、ChatGPT も同意しました。
「いや、ロボットに知覚能力をもたせることもできる」という方には、「意識(自意識)を持たない世界」という訳語をあてたら納得するでしょうか? 「ロボットに意識を持たせることもできる!」と主張する人もいるでしょうか? 自分がやったことを反省して自殺をするロボットを考えることができるでしょうか?
#バートランド・ラッセル #Bertrand_Russell