私達の現在の理論にに相応しい倫理的直観は次のようなものである: 「快楽には固有の価値があり、苦痛には固有の価値がない」。ある行為が、可能な行為の中で最も固有価値を持つものであるならば、その行為を「なすべき」である。この定義に次の原則を加えなければならない。(即ち)「最も固有価値を持つ行為とは、固有価値が固有反価値に対して最大のプラスの差額(balance)を生み出す行為である、あるいは、固有反価値が固有価値に対して最小のマイナスを生み出す行為である」という原則を加えなければならない。固有価値と固有反対価値と合わせると固有価値がゼロになる時、両者は等しいと定義づけられる。
A possible ethical intuition of the sort appropriate to our present theory would be: “Pleasure has intrinsic value, and pain has intrinsic disvalue”. We shall now define "ought” in terms of intrinsic value: an act “ought” to be performed if, of those that are possible, it is the one having the most intrinsic value. To this definition we must add the principle: "The act having most intrinsic value is the one likely to produce the greatest balance of intrinsic value over intrinsic disvalue, or the smallest balance of intrinsic disvalue over intrinsic value”. An intrinsic value and an intrinsic disvalue are defined as equal when the two together have zero intrinsic value.
Source: Bertrand Russell: Bertrand Russell: Human Society in Ethics and Politics, (1954), chapter98:Is there ethical knowledge ?
More info.:https://russell-j.com/cool/47T-0904.htm
<寸言>
なぜこんなまわりくどい言い方や考え方をしなければならないのだろうかと思われる人がいるかもしれません。また、"disvalue"の意味は「無価値」や「不価値」であり、「反価値」という訳語ば奇異だと感じる人がいるかも知れません。
しかし、「無価値」や「不価値」は「価値ゼロ」ということですので、固有価値から固有無価値や固有不価値を引いたものは固有価値の値と同じになってしまいます。これはラッセルの主張と異なり、ラッセルの趣旨を理解できなくなります。
視野が狭いと、ある行為がどれだけの固有価値を持ち、どれだけの固有「反」価値を持つか理解できません。最大多数の最大幸福をとりあえずの目標にするのなら、ラッセルのこのような理論的考察が必要です。
たとえば、日本が外国と交渉がなかった時代の日本史は日本人が勝手に考えればいいですが、現代にあってはそれは間違った歴史認識を日本人に持たせることになります。まず、人類共通の世界史があり、そのなかで、日本史を考えるべき問題もますます増えていきます。
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