
The habit of looking to the future and thinking that the whole meaning of the present lies in what it will bring forth is a pernicious one. There can be no value in the whole unless there is value in the parts.
Source: Bertrand Russell: The Conquest of Happiness, 1930, chap.2: The Byronic unhappiness.
More info.:https://russell-j.com/beginner/HA12-030.HTM
<寸言>
2025年開催「予定」の大阪万博に対する風当たりは日に日に強くなっています。人件費と資材価格の高騰だけでなく、開催費用を不当に低く見積もっていた疑いが出てきていますが、大阪維新の会にとって万博開催延期は大きなイメージダウンになるため、(タレントも総動員して)雰囲気づくりにやっきになっています。
万博開催による経済効果(は2兆円以上と言うの)はタヌキの皮算用ですが、批判をかわすために、「大阪万博」を「日本万博」と言い換え、開催は政府の責任だと言う者さえ現れています。開催費用が今以上膨らんでも大阪市や大阪府は追加費用を払わないと言っています。経済界も同様のことを言い始めました。つまり、追加費用は国が負担すべき(即ち税金を使うべき→国民負担)だということを遠回しに言っているだけです。名古屋大学の某教授(万博について研究)などは経済的効果や短期的効果ばかりを言うべきではなく、もっといろいろな効果(将来にわたっての効果)を考えるべきだと何度も発言していますが、説得力がありません。
自見万博担当大臣からは「万博は"国民全体"でもりあげていくべき・・・」との発言があり、違和感を覚えました。国民の一人である私も「盛り上げていかないといけない」義務があるようですが、私にはそんなことを言われる筋合いはありません。「個々の」人間の意見や感情よりも、国民「全体」のことを考えて、国の政策を推進すべきだと言っているつもりのようですが、「個々の国民」の半数以上が大阪万博は延期すべきあるいは中止すべきだと言うようになってもそのようなことを言い続けられるでしょうか?
「国(全体)」は「個々の国民(部分)」からなっていると思っていましたが、政府からみればそうではないようです。彼らにとって「国家」とは、「個々の国民」からなっているのではなく、「抽象的な実体(上位概念)」のようです。
#バートランド・ラッセル #Bertrand_Russell