ソロモンとシバの女王
しかし,別な気分においては,これはいかにまったく異なってみえることか。太陽のもと,新しいものは何ひとつない? (たとえば)摩天楼(注:77階建のクライスラー・ビルが1930年に,102階建のエンパイア・ステートビルが1931年に完成している。)や,飛行機(注:C.リンドバーグは,1927年5月,大西洋無着陸横断飛行に成功)や,政治家のテレビ演説はどうか(注:本書が出版されたのは1930年。その前年である1929年に英国BBCはテレビの実験放送を開始している。/安藤氏は,「ラジオ演説」と訳されているが,これでは「新しいもの」のたとえではなくなってしまいそう)。これらのようなものについて,ソロモン王は何を知っていただろうか(ラッセル注:『伝道の書』は,もちろん,ソロモンが実際に書いたものではない。しかし,作者をその名で呼ぶことは都合が良い?)。もし,シバの女王(右イラスト:ラッセル作『著名人の悪夢』の中の「シバの女王の悪夢」から)がソロモンの領土から帰国したときに彼女が国民に対して行った演説を,ソロモンがラジオで聞くことができたとしたら,それは'無益な'果樹や池に取り囲まれた彼を慰めたのではなかったであろうか。もし,ソロモンに新聞切り抜き係がいて,彼が所有する建築物の'美しさ'や彼のハーレムの'快適さ'や彼と議論をしたときのライバルの賢人たちの'狼狽振り'について,各新聞がいろいろ報道していることを知らせてくれたとしたら,太陽のもとに新しいものは何ひとつない,などといい続けることができたであろうか。これらのものは,彼のペシミズム(厭世観)を完全には癒してくれなかったかもしれない。しかし,そのペシミズムに,彼は,新しい表現を与えなければならなかっただろう。実際,クルーチ氏の現代に対する不満の一つは,太陽のもとに'新しいものが多すぎる',ということである。もしも,目新しいものがあってもなくても同様に人を悩ますとすれば,いずれも'絶望の真の原因(理由)'ではほとんどないように思われる。それでは再び,「川はみな海に流れ込むが,海は満ちることなく,川はその出てきた所にまた戻っていく」という事実をとりあげてみよう(注:説明するまでもないだろうが,海の水が蒸発して,山(=川が流れ出てきたところ)に雨を降らせる,という事実)この(循環の)事実をペシミズムの根拠とみなすと,それは,'旅行は不愉快なものである'ということを仮定していることになる。人びとは,夏には保養地(health resorts 健康な体力づくりのためのリゾート)へ出かけるが,再び出てきた所へ戻っていく。このことは,夏に保養地に出かけることが無益である(空しい)という証明にはならない。もしも,水に感情があれば,たぶん,シェリーの「雲」のように,冒険にみちた'循環'を楽しむことであろう。自分の相続人に財産を残すことがつらいということに関しては,それは,2つの観点から見ることができる問題である。相続人の観点からみれば,それは明らかにそれほど不幸なことではない。また,あらゆるものは過ぎ去っていくという事実にしても,それだけでは,それはペシミズムの根拠にならない。あらゆるものの後にそれらよりも悪いものが引き継ぐのであれば,ペシミズムの一つの根拠にはなるだろうが,もしもよりよいものに引き継がれるのであれば,それは,むしろ,楽観主義の理由になる。ソロモンが主張するように,あらゆるものがまったく同じものに引き継がれるとしたら,どう考えたらよいだろうか。これは,全ての過程を無益なものにしやしないだろうか。断じて,そうではない。ただし,循環のさまざまな段階自体が辛いものであれば,話は別である。将来に期待して,現在の意味はすべて未来のもたらすものの中にあると考える習慣は有害である。 (なぜなら)部分に価値があるのでなければ,全体に(も)価値はありえない*注2。人生は,ヒーローとヒロインが,信じられないような不運(逆境)を乗り越え,最後にはハッピーエンドで報われる,といったメロドラマの類推で思い描かれるべきではない*注3。私は生き,私なりに自分の日々を過ごし,息子が自分の後を継ぎ,息子は息子なりに日々を過ごし,今度は,彼の息子(私の孫)があとを継ぐ。こういったこと全てにおいて,悲劇となるようなものが存在するだろうか。それどころか,もしも私が永久に生きるとしたら,人生の喜びはついには必然的にその味わいを失ってしまうだろう。現実には人生に終わりがあるので,人生の喜びは永遠に新鮮さを失わない。
私は火の前で両手を暖めた
(命の)火が消える,そして私は
(この世を)去る準備(覚悟)は
できている
死に対するこうした態度は,死に対して憤ることと同様に,まったく合理的なものである。それゆえ,もしも理性によって気分を決定することができるとするならば,絶望する理由と同じ位,快活にする理由もあるだろう。
* 松下注1:宗教(特にキリスト教の終末論)など
* 松下注2:社会(=国家その他)と個人が対立する(利益が相反する)場合は,ラッセルは,常にといってよいほど,「個人の尊重」の立場に立つ。ここでは,もちろん2004年11月5日付の掲示板への書き込みにあるように,「将来を思い煩うのではなく,日々の生活を有意義に過ごすべきである。なぜなら,人生の全体は日々の積み重ねだから。」といった意味合いであるが,ラッセルが多くの著書で言っているように,「部分よりも全体の強調」は,全体主義国家観,偏狭な愛国心,個人の自由や幸福を犠牲にした公共の利益・福祉等々に,密接に関係している。
*松下注3:ハッピーエンド(でなきゃいや)症候群;シンデレラ症候群/現実を直視しない人,いやなものからできるだけ目を背ける人は,ハッピーエンド症候群にかかっている人が少なからずいると思われる。
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But in another mood how different all this looks. No new thing under the sun? What about skyscrapers, aëroplanes, and the broadcast speeches of politicians? What did Solomon know about such things? (Ecclesiastes was not, of course, really written by Solomon, but it is convenient to allude to the author by this name) If he could have heard on the wireless the speech of the Queen of Sheba to her subjects on her return from his dominions, would it not have consoled him among his futile trees and pools? If he could have had a press-cutting agency to let him know what the newspapers said about the beauty of his architecture, the comforts of his harem, and the discomfitures of rival sages in argument with him, could he have gone on saying that there is no new thing under the sun? It may be that these things would not have wholly cured his pessimism, but he would have had to give it a new expression. Indeed, one of Mr. Krutch's complaints of our time is that there are so many new things under the sun. If either the absence or the presence of novelty is equally annoying, it would hardly seem that either could be the true cause of despair. Again, take the fact that 'all the rivers run into the sea, yet the sea is not full; unto the place from whence the rivers come, thither they return again'. Regarded as a ground for pessimism, this assumes that travel is unpleasant. People go to health resorts in the summer, yet return again unto the place whence they came. This does not prove that it is futile to go to health resorts in the summer. If the waters were endowed with feeling, they would probably enjoy the adventurous cycle after the manner of Shelley's Cloud. As for the painfulness of leaving things to one's heir, that is a matter that may be looked at from two points of view: from the point of view of the heir it is distinctly less disastrous. Nor is the fact that all things pass in itself any ground for pessimism. If they were succeeded by worse things, that would be a ground, but if they are succeeded by better things, that is a reason for optimism. What are we to think if, as Solomon maintains, they are succeeded by things exactly like themselves? Does not this make the whole process futile? Emphatically not, unless the various stages of the cycle are themselves painful. The habit of looking to the future and thinking that the whole meaning of the present lies in what it will bring forth is a pernicious one. There can be no value in the whole unless there is value in the parts. Life is not to be conceived on the analogy of a melodrama in which the hero and heroine go through incredible misfortunes for which they are compensated by a happy ending. I live and have my day, my son succeeds me and has his day, his son in turn succeeds him. What is there in all this to make a tragedy about? On the contrary, if I lived for ever the joys of life would inevitably in the end lose their savour. As it is, they remain perennially fresh.
I warmed both hands before the fire;
It sinks, and I am ready to depart.
This attitude is quite as rational as that of indignation with death. If, therefore, moods were to be decided by reason, there would be quite as much reason for cheerfulness as for despair.
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