バートランド・ラッセルの名言・警句( Bertrand Russell Quotes )

ラッセル英単語・熟語1500

 1960年の初め,私たち(夫婦)は短期間,コペンハーゲンに行った。それは,ヨーロッパ文化に貢献したという理由でコペンハーゲン大学から授与されるソニング賞を受け取るためであった。・・・。
 ソニング賞授与式には,歓迎レセプションとそれに続く立派な政府主催の晩餐会があり,楽しかった。妻は文部大臣とニールス・ボーア教授(1922年にーベル物理学賞受賞)の間に坐らされた。大臣は自分は英語を話すことができないと断言した。そのため,(妻エディスとの)会話の重荷をボーア教授が負わなければならなくなった。・・・。そして,ついに,彼は晩餐会に出席している著名人達が(教授の行動を)じっと見物し,微笑し,うっとりとしている間に,彼女の皿のおいしい菓子を食べ,彼女のワインを飲んでいるのであった。私同様,ずっとあとあとまで彼女が彼を好きだったのも,こうした彼の魅力のせいであった。

Early in 1960 we went to Copenhagen for a short time for me to receive the Sonning Prize for contribution to European Culture, bestowed by the University of Copenhagen....
The occasion of the prize-giving was a pleasant one with a reception and a fine State dinner following it. My wife was seated between the Minister of Education, who declared himself to be unable to speak English, and Professor Niels Bohr, upon whom the burden of conversation therefore fell. ...Finally, he was eating the delicious confections from her plate and drinking her wine whilst the notable company of diners looked on, smiling and entranced. It was a tribute to his charm that she continued to like him, as I did.
 Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3
 More info.: https://russell-j.com/beginner/AB33-090.HTM

<寸言>
 ニールス・ボーア(1885-1962)はこの2年後の1962年に77歳で亡くなっています。
 ラッセルはラッセル=アインシュタイン声明に署名してくれるようにニールス・ボーア教授にも求めましたが応じてくれませんでした。このレセプションでラッセルの妻エディスと会話をしなければならなくなって、ボーア教授は署名しなかったことを後悔していたでしょうか?
 ラッセルはラッセル=アインシュタイン声明発表の記者会見(1955年7月9日)の後、署名者のマックス・ボルンとニールス・ボーアと取り違えて、マックス・ボルン教授が応じてくれなかったと言ってしまうという「大失態」をしてしまったと(長く尾を引いた)後悔の念を述べています。ラッセルでさえ、このような「大失態」をするのですから、私(あるいは、我々)の「大失態」などたいしことないという「言い訳」に使えそうです(笑)。
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